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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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3/17

第二話 聴く事の始まり

 


 人の話を聞くというのは、案外難しいものである。


 新聞記者になって、私はそれを何度も思い知らされてきた。


 こちらが尋ねたいことと、相手が話したいことは、必ずしも同じではない。質問を重ねれば答えが得られるというものでもない。むしろ、こちらが急ぐほど、相手の口は重くなる。


 まして、今回の相手は、自分の生まれた場所さえ知らないという青年である。


 朝倉新太。


 彼の持つ根付には、二つの名前が刻まれていた。


 「新太」と「ふさ」。


 前者は本人の名である。では、後者は誰の名なのか。


 それを確かめることが、今回の取材の出発点になるはずだった。


 もっとも、私はまだ新聞記事にするつもりはなかった。


 新聞記者として事実を確かめることと、小説家志望として物語の筋を考えること。その二つが、私の頭の中では、すでに少々入り乱れていたのである。


 私は机の上に原稿用紙を広げ、鉛筆を手に取った。


 そして、最初の一行を書いた。


 ――人は誰しも、帰るべき場所を持っているという。


 書いてから、私は鉛筆を止めた。


 果たして、そうだろうか。


 帰る場所を持たない人間もいる。あるいは、帰る場所があっても、そこへ戻れない人間もいる。


 新太は、そのどちらなのだろう。


「……いかん」


 私は書いた一行に線を引いた。


 まだ何も分かっていないのに、勝手に物語を始めてしまっている。


 尾崎紅葉先生なら、こういうところをどう書かれただろうか。


 そんなことを考えながら、私は原稿用紙を脇へ寄せた。


 まずは取材である。


     *


 翌日の午後、私は再び旅芸人一座の小屋を訪ねた。


 祭りの賑わいも、もう終わりに近づいていた。表の通りには、片付けを始めた露店が並び、昨日までの華やかさが少しずつ姿を消している。


 一座の小屋では、役者たちが道具をまとめていた。


 赤や青の布を畳む者、木箱に小道具をしまう者、舞台の板を外す者。そこには、祭りの終わりと、次の旅立ちの準備が同時にあった。


「ごめんください」


 私が声をかけると、奥から一人の男が顔を出した。


 さて、この男については、第一話でも少し触れたが、ここで改めて紹介しておこう。


 名を源次という。


 旅芸人一座の座長で、年の頃は五十をいくつか越えたあたり。背丈はさほど高くないが、肩幅が広く、長年の旅暮らしで鍛えられた体つきをしている。顔には深い皺が刻まれ、目つきは一見すると厳しい。


 しかし、よく見ると、その目には人を突き放さない温かさがある。


 口数は多くない。言葉も飾らない。若い者には小言を言い、怠け者には容赦がない。ところが、ひとたび身内と認めた相手には、ずいぶんと面倒見がよい。


 この源次という男が、朝倉新太を拾い、育てた人物である。


「おや、新聞屋さんかい」


「昨日はどうも。今日は少し、お話を伺いたくて参りました」


「話?」


「ええ。新太さんのことです」


 源次は私の顔を見た。


 その目には、昨日と同じ穏やかさがあったが、ほんのわずかに警戒の色も混じっていた。


「新太のことを、新聞に書くのかい」


「いえ、今すぐ記事にするつもりはありません。まずは、本人の話を聞きたいと思っています」


「それなら、本人に聞いておくれ。あの子のことを、わしが何でも知っているわけじゃないからね」


「もちろんです。ただ、源次さんがご存じのことも、少し教えていただければと」


「そうかい」


 源次は一度、奥へ目をやった。


「新太!」


 大きな声が小屋に響いた。


「お客さんだよ!」


「お客さん?」


 返事とともに、奥から青年が現れた。


 袖をまくり、手には木箱を抱えている。どうやら片付けを手伝っていたらしい。


 この青年が、朝倉新太である。


 年は二十二。細身ではあるが、旅暮らしのせいか身のこなしは軽い。顔立ちは整っているというより、親しみやすい。人と目が合えば、すぐに笑顔を見せる。人見知りという言葉とは、あまり縁がなさそうな男である。


 そして、何よりよく食べる。


 これは私が実際に確認したことだから、間違いない。


「なんだ、旦那じゃありませんか」


「旦那?」


「昨日、牛鍋をご一緒したでしょう。あれから、旦那と呼ぶことに決めたんです」


「私には久世という姓があるのだが」


「知っていますよ。久世の旦那」


「……それでは、あまり変わらないな」


 新太は、いたずらっぽく笑った。


「それで、今日は何のご用です?」


「君の話を聞きに来たんだ」


「私の話ですか」


「昨日、少し話しただろう。君が幼い頃のことや、根付のことだ」


 新太は抱えていた木箱を床に置いた。


「いいですよ。何でも聞いてください」


 その返事は軽かった。


 しかし、源次は少し違う顔をしていた。


「新太。何でも、というのはよしなさい。思い出せないことまで、無理に話すことはないんだ」


「分かってますよ、親方」


「それから、話したくないことは話さなくていい」


「はいはい」


「はいは一度でいい」


「はい」


 新太は笑って答えた。


 私は、そのやりとりを見ていた。


 源次は新太に対して、決して甘いばかりではない。むしろ、何かにつけて小言を言う。しかし、その言葉の奥には、長い年月をかけて育まれた親しみがあった。


 新太もまた、それを当然のこととして受け止めている。


 血のつながりがあるかどうかなど、二人の間では、さほど重要なことではないのかもしれない。


 私は懐から小さな手帳を取り出した。


「では、少しずつ聞かせてもらおう」


「はい。先生」


「先生?」


「新聞記者の先生です」


「私は先生と呼ばれるほどの者ではないよ」


「では、作家先生」


 私は思わず咳払いをした。


 まだ小説を一冊も出していない人間に、その呼び名は少々荷が重い。


「……その呼び方も、やめていただきたい」


「そうですか。残念だなあ」


 新太は、まるでこちらの困る顔を楽しんでいるようだった。


     *


「まず、君の名前から確認させてほしい」


「朝倉新太です」


「あさくら、あらた。間違いないね」


「ええ。新太と書いて、あらたです」


「その名前は、いつから知っている?」


「物心がついた頃には、もう知っていましたよ」


「誰かに教えられたのかい」


「親方だったと思います。私が小さい頃、持っていた根付に名前が刻まれていたそうです」


「それが、これだね」


 私は新太の手元を見た。


 新太は懐から根付を取り出した。


 小さな木製の根付である。長い年月を経たものらしく、表面は滑らかになり、角の部分には細かな傷があった。


 新太はそれを手のひらに載せ、私に差し出した。


「どうぞ」


 私は受け取り、刻まれた文字を確かめた。


 表には、確かに「新太」とある。


 裏返すと、もう一つの名前が現れた。


 「ふさ」。


 昨日も見た文字だったが、改めて見ると、やはり気になる。


「この名前について、君は何か覚えていないか」


「何も」


「幼い頃、誰かから聞いたことも?」


「ありませんね」


「ふさという人が身近にいたような記憶は?」


「ないです」


 新太は、少し考えてから首を振った。


「そもそも、五つくらいまでのことは、あまり覚えていないんです」


「五歳くらいまで?」


「ええ。何となく、いくつかの景色が残っているような気もします。でも、それが本当に自分の記憶なのか、あとから聞いた話なのか、よく分からないんですよ」


「例えば、どんな景色だろう」


「……そうですね」


 新太は目を伏せた。


「誰かの手を握っていたような気がします」


「誰の手か、分かるかい」


「分かりません」


「男の人か、女の人か」


「それも、はっきりしません」


「その人は、君に何か言った?」


「覚えていません」


 私は鉛筆を動かしかけて、止めた。


 曖昧な記憶を、無理に言葉にしてもらうべきではない。


「では、そのことは、今はそれだけにしておこう」


「いいんですか?」


「もちろんだ。思い出せないものは、思い出せない。それも大事な話だからね」


 新太は、少し意外そうな顔をした。


「旦那は、もっと色々聞いてくると思っていました」


「聞きたいことはあるさ。しかし、君が覚えていないことを、私が勝手に作るわけにはいかない」


「新聞記者だからですか」


「新聞記者だからでもあるし、君の話を聞いている人間だからでもある」


 新太は根付を受け取った。


「そういうものですか」


「そういうものだと思っているよ」


 彼は根付をしばらく眺めていた。


 そして、いつもの調子に戻るように、ひょいと肩をすくめた。


「まあ、覚えていないものは仕方ありませんね。腹が減ったことなら、昨日のことでもよく覚えているんですが」


「それは、昨日の牛鍋のことかい」


「ええ。あれは忘れられません」


「君は、食べ物のことになると、実に記憶がいいな」


「大事なことですから」


 私は笑った。


 こういうところが、新太という青年なのだろう。


 過去を知らないことを、必要以上に悲観してはいない。だが、気にしていないわけでもない。


 その二つが、彼の中では不思議な具合に同居しているようだった。


     *


「親方が私を見つけたときのことも、聞いてみたいんです」


 私がそう言うと、源次は少し黙った。


 新太は、源次の方を見た。


「親方、話してやってくださいよ」


「お前が話したいなら、話してもいい」


「私は、もう何度も聞いていますから」


「何度聞いても、忘れたような顔をするじゃないか」


「そんなことはありません」


「そうかい」


 源次は、ゆっくりと腰を下ろした。


 私も、その前に座った。


「いつ頃のことでしたか」


「春だったよ」


「春ですか」


「今頃と同じような季節だったと思う。わしらは次の興行先へ向かっていた」


「場所は?」


「この町から、そう遠くないところだ。細かい場所までは、今すぐには言えない」


「そのとき、新太さんは一人だったのですか」


「わしが見つけたときには、一人だった」


「誰か、一緒にいた者はいなかった?」


「少なくとも、わしの目には入らなかった」


 源次は、言葉を選ぶように続けた。


「小さな子どもが一人でいる。放っておけるわけがないだろう」


「それで、一座に連れて帰ったのですね」


「最初から、そう決めていたわけじゃない。とにかく、親がいるなら探さなければと思った」


「親を探したのですか」


「ああ。近くの家にも尋ねたし、土地の者にも聞いた。だが、その子を知っているという者はいなかった」


「警察には届けたのでしょうか」


 私が尋ねると、源次は一度、眉を寄せた。


「当時のことを、今のように細かく覚えているわけじゃない。わしも興行の途中だったし、何より子どもを一人にしておくわけにはいかなかった」


「そうですね」


「それに、あの子は自分の名前を言ったんだ」


「新太、と?」


「そうだ。自分の名前だけは、しっかり言えた。根付にも、その名があった」


 私は手帳に書き留めた。


 名前は分かっていた。


 しかし、家族の所在は分からなかった。


「ふさ、という名前については、当時からご存じだったのですか」


「いや。根付の裏にその名があることに気づいたのは、少し後だった」


「そのとき、誰か心当たりは?」


「なかったね」


「その名前を知っている人を探したことはありますか」


「探したよ。だが、見つからなかった」


 源次は、新太の方を見た。


「そのうち、この子は一座の者たちと暮らすようになった。最初は、いつか親が迎えに来るかもしれないと思っていたよ」


「それで、ずっと待っていたんですか」


「ああ。だが、誰も来なかった」


 源次の声は静かだった。


「そのうち、新太も大きくなった。舞台の裏を走り回って、役者の真似をして、飯を食べて、眠って。気がつけば、うちの一員になっていた」


「親方が育ててくれたんですよ」


 新太が口を挟んだ。


「お前は、最初からよく食べたな」


「それは今も変わりません」


「知っているよ」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 私は、その様子を見ていた。


 源次の話には、まだ分からないことが多い。


 新太がどこから来たのか。なぜ一人だったのか。誰が根付を持たせたのか。


 そして、ふさという人物が誰なのか。


 だが、一つだけ確かなことがあった。


 源次は、新太を拾っただけではない。


 彼を育て、暮らしを与え、今日まで一緒に生きてきたのだ。


「源次さん」


「何だい」


「新太さんが、いつか自分の生まれた場所を見つけたいと言ったら、どう思われますか」


 源次はすぐには答えなかった。


 新太も、黙っていた。


 小屋の外から、木箱を運ぶ音が聞こえる。


 やがて源次は、少しだけ笑った。


「そりゃあ、見つかるなら見つけてやりたいさ」


「寂しくはありませんか」


「寂しくないと言えば嘘になるね」


 源次は新太を見た。


「だが、あの子にはあの子の人生がある。わしが育てたからといって、あの子の過去までわしのものになるわけじゃない」


 私は手帳に鉛筆を走らせた。


 その言葉は、新聞記事にするためではなく、私自身が忘れないために書き留めておきたいと思った。


     *


 取材を終えた私は、小屋の外で新太と並んで歩いていた。


 源次は、まだ片付けが残っていると言って、小屋に戻っていった。


「旦那、ずいぶん熱心に書いていましたね」


「聞いたことを忘れないようにしているんだ」


「そんなに書くことがありましたか」


「あるさ。君の話も、源次さんの話も、まだ聞きたいことがたくさんある」


「そうですか」


 新太は、通りの向こうを眺めた。


 祭りの露店は、ほとんど片付いている。焼き物の匂いも、甘い菓子の匂いも、昨日に比べればずいぶん薄くなっていた。


「ところで、旦那」


「何だい」


「私の話を小説にするんですか」


 私は、少し返事に困った。


「そのつもりで考えてはいる」


「どんな小説にするんです?」


「まだ分からない」


「主人公は私ですか」


「そうなるかもしれない」


「では、格好よく書いてくださいよ」


「君は、格好よく書かれたいのかい」


「そりゃあ、そうでしょう」


「事実と違っても?」


「そこは、うまくお願いします」


「新聞記者に、それを頼むのは困るな」


 新太は声を立てて笑った。


「冗談ですよ」


「分かっているよ」


「でも、旦那。私の知らないことを、勝手に決めないでくださいね」


 その言葉に、私は足を止めた。


 新太は笑っていなかった。


 いつもの気さくな表情のまま、しかし、私の目をまっすぐに見ていた。


「例えば、私が小さい頃、どんな家に住んでいたとか、どんな人と暮らしていたとか。そういうことを、旦那が勝手に考えて書くのは、ちょっと違うと思うんです」


「……そうだね」


「もちろん、小説だから、いろいろ考えるのはいいんでしょうけど」


「君の人生について書くなら、君の知らないことを事実のように書いてはいけない」


「そういうことです」


 私は手帳を閉じた。


「約束するよ」


「本当ですか」


「ああ。分からないことは、分からないままにしておく」


 新太は、ほっとしたように笑った。


「それなら、安心です」


 私は、改めて思った。


 彼は自分の過去を知りたいのだ。


 しかし、それは誰かに面白おかしく語ってもらいたいということではない。


 自分の知らない人生を、他人の想像で埋められたくないのだろう。


 それは、当然のことだった。


     *


 その日の夕方、私は新聞社に戻った。


 さて、ここで私の勤め先についても、少し説明しておこう。


 私が勤めているのは、この地方で発行されている小さな新聞社である。東京の大新聞に比べれば、社員の数も少なく、扱う記事も限られている。


 しかし、地方の新聞には地方の新聞の役割がある。


 町の出来事、商店の移転、祭りの様子、学校の行事、役場からのお知らせ。大きな事件ばかりが新聞の役目ではない。人々の日々の暮らしを記録することも、私たちの仕事なのである。


 私の机の周りには、同僚たちが忙しそうに行き来していた。


 その中に、一人、私より少し年上の男がいる。


 名を田辺という。


 年は三十を少し越えた頃。新聞社では整理と校正を担当している。背は高くないが、眼鏡の奥の目はよく動く。人の原稿を読むことにかけては、なかなか厳しい男である。


 文章の誤りを見つけるのが早く、余計な修飾を嫌う。私が少し気取った言い回しをすると、たいてい赤鉛筆が入る。


 もっとも、本人は決して意地悪でやっているわけではない。新聞に載せる文章は、誰が読んでも意味が分からなければならない。それが田辺の信条なのだ。


「久世、まだ残っていたのか」


 その田辺が、私の机の横に立った。


「少し調べ物をしていまして」


「祭りの記事は、もう終わったんじゃないのか」


「ええ。別件です」


「別件?」


「昔の行方不明者について、何か記録がないかと思いまして」


「何だ、事件か」


「まだ、何とも言えません」


 田辺は、私の机に積まれた古新聞を見た。


「ずいぶん古いものを引っ張り出したな」


「必要になりまして」


「まあ、ほどほどにしておけよ。明日の記事もあるんだからな」


「分かっています」


「それならいい」


 田辺は、私の手帳をちらりと見た。


「ところで、何を調べているんだ」


「身元の分からない子どもについてです。昔、ある男が五歳くらいの子どもを見つけて、育てたそうなんです」


「それは、いつ頃の話だ」


「十七年ほど前になるでしょうか」


「随分と前だな」


「ええ。まだ詳しいことは分かりません」


「なら、まずは年月日と場所を確かめることだな。そこが曖昧だと、いくら古新聞をひっくり返しても見つからないぞ」


「おっしゃる通りです」


「それから、行方不明になった子どもと、見つかった子どもが同一人物だという証拠も必要だ」


「はい」


「思い込みで記事にするなよ」


「分かっています」


 田辺は、少し笑った。


「お前は文章を書くのが好きだからな。つい、話を作りたくなるんじゃないか」


「私は新聞記者ですよ」


「そうだったな。では、新聞記者らしく調べることだ」


 田辺はそう言って、自分の席へ戻っていった。


 私は、彼の言葉を手帳に書き留めた。


 年月日と場所。


 証言と証拠。


 同一人物であることの確認。


 どれも当たり前のことだが、今回の取材では、それが難しい。


 新太が拾われた場所は、まだ正確には分からない。見つかった日付も分からない。五歳という年齢も、おおよそのものだ。


 これでは、新聞記事を探すにも手掛かりが足りない。


 私は新聞の束を一つずつ開いた。


 古い紙には、年月とともに独特の匂いが染みついている。


 記事の見出しを追い、日付を確かめ、必要な箇所に印をつけていく。


 気がつけば、窓の外は夕暮れになっていた。


 それでも、決め手になる記事は見つからなかった。


 私は、新聞の束を閉じた。


 取材とは、思っていた以上に地道な仕事である。


 面白い話を聞けば、すぐに真相が見つかるわけではない。むしろ、何も見つからない時間の方が長い。


 そして、その何も見つからない時間にも、仕事は続いている。


     *


 夜、下宿に戻った私は、机に向かった。


 新聞記者としての調べ物は、ひとまずここまでにする。


 今度は、作家志望としての仕事である。


 私は原稿用紙を広げた。


 第一行に、今日の取材で感じたことを書こうとした。


 だが、なかなか言葉が出てこない。


 新太は、明るい青年だった。


 よく笑い、よく食べ、誰にでも気さくに話しかける。


 源次は、彼を拾い、育てた。


 二人の間には、確かな親しみがある。


 それらを文章にすることはできる。


 しかし、彼らの人生を、私の言葉だけで表すことができるのだろうか。


 私は鉛筆を置いた。


 新聞記事なら、取材した事実を整理すればよい。もちろん、それも簡単ではないが、少なくとも書くべき方向は決まっている。


 だが、小説は違う。


 人物の心を描かなければならない。表情や仕草、言葉の裏にある思いを読み取らなければならない。


 それを間違えれば、どれほど文章が整っていても、読者には伝わらないだろう。


 私は、今日の源次の言葉を思い出した。


 ――わしが育てたからといって、あの子の過去までわしのものになるわけじゃない。


 その一言が、頭から離れなかった。


 私は、原稿用紙に書き始めた。


 ――人は、誰かに育てられた場所を、ふるさとと呼ぶことができるのだろうか。


 今度は、線を引かなかった。


 ただし、その答えを、今の私が書くことはできない。


 新太自身が、まだ答えを知らないのだから。


 私はその一文の下に、もう一行を書き足した。


 ――その答えを探すために、青年は旅に出る。


 そして、しばらく考えたあと、こう続けた。


 ――その旅を、私は書き留めることにした。


 これなら、嘘にはならない。


 少なくとも、今のところは。


 私は原稿用紙の右上に、仮の題を書いた。


 『浮世の迷い子』


 その下に、小さく副題を添えた。


 ――思い出せない、ふるさと。


 まだ、書き始めたばかりである。


 新太の過去も、ふさという人物の正体も分からない。


 それでも、私はもう一度、あの青年に会いに行こうと思っていた。


 新聞記者として、確かな事実を探すために。


 小説家志望として、人の心に残る物語を書くために。


 そして、ひとりの人間として、彼の旅に付き合うために。


 翌朝、私は古新聞の束をもう一度調べるつもりだった。


 だが、その前に、新太に尋ねておかなければならないことがある。


 彼は本当に、自分の過去を探したいと思っているのか。


 そして、私と一緒に旅をする気があるのか。


 取材は、まだ始まったばかりだった。

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