第二話 聴く事の始まり
人の話を聞くというのは、案外難しいものである。
新聞記者になって、私はそれを何度も思い知らされてきた。
こちらが尋ねたいことと、相手が話したいことは、必ずしも同じではない。質問を重ねれば答えが得られるというものでもない。むしろ、こちらが急ぐほど、相手の口は重くなる。
まして、今回の相手は、自分の生まれた場所さえ知らないという青年である。
朝倉新太。
彼の持つ根付には、二つの名前が刻まれていた。
「新太」と「ふさ」。
前者は本人の名である。では、後者は誰の名なのか。
それを確かめることが、今回の取材の出発点になるはずだった。
もっとも、私はまだ新聞記事にするつもりはなかった。
新聞記者として事実を確かめることと、小説家志望として物語の筋を考えること。その二つが、私の頭の中では、すでに少々入り乱れていたのである。
私は机の上に原稿用紙を広げ、鉛筆を手に取った。
そして、最初の一行を書いた。
――人は誰しも、帰るべき場所を持っているという。
書いてから、私は鉛筆を止めた。
果たして、そうだろうか。
帰る場所を持たない人間もいる。あるいは、帰る場所があっても、そこへ戻れない人間もいる。
新太は、そのどちらなのだろう。
「……いかん」
私は書いた一行に線を引いた。
まだ何も分かっていないのに、勝手に物語を始めてしまっている。
尾崎紅葉先生なら、こういうところをどう書かれただろうか。
そんなことを考えながら、私は原稿用紙を脇へ寄せた。
まずは取材である。
*
翌日の午後、私は再び旅芸人一座の小屋を訪ねた。
祭りの賑わいも、もう終わりに近づいていた。表の通りには、片付けを始めた露店が並び、昨日までの華やかさが少しずつ姿を消している。
一座の小屋では、役者たちが道具をまとめていた。
赤や青の布を畳む者、木箱に小道具をしまう者、舞台の板を外す者。そこには、祭りの終わりと、次の旅立ちの準備が同時にあった。
「ごめんください」
私が声をかけると、奥から一人の男が顔を出した。
さて、この男については、第一話でも少し触れたが、ここで改めて紹介しておこう。
名を源次という。
旅芸人一座の座長で、年の頃は五十をいくつか越えたあたり。背丈はさほど高くないが、肩幅が広く、長年の旅暮らしで鍛えられた体つきをしている。顔には深い皺が刻まれ、目つきは一見すると厳しい。
しかし、よく見ると、その目には人を突き放さない温かさがある。
口数は多くない。言葉も飾らない。若い者には小言を言い、怠け者には容赦がない。ところが、ひとたび身内と認めた相手には、ずいぶんと面倒見がよい。
この源次という男が、朝倉新太を拾い、育てた人物である。
「おや、新聞屋さんかい」
「昨日はどうも。今日は少し、お話を伺いたくて参りました」
「話?」
「ええ。新太さんのことです」
源次は私の顔を見た。
その目には、昨日と同じ穏やかさがあったが、ほんのわずかに警戒の色も混じっていた。
「新太のことを、新聞に書くのかい」
「いえ、今すぐ記事にするつもりはありません。まずは、本人の話を聞きたいと思っています」
「それなら、本人に聞いておくれ。あの子のことを、わしが何でも知っているわけじゃないからね」
「もちろんです。ただ、源次さんがご存じのことも、少し教えていただければと」
「そうかい」
源次は一度、奥へ目をやった。
「新太!」
大きな声が小屋に響いた。
「お客さんだよ!」
「お客さん?」
返事とともに、奥から青年が現れた。
袖をまくり、手には木箱を抱えている。どうやら片付けを手伝っていたらしい。
この青年が、朝倉新太である。
年は二十二。細身ではあるが、旅暮らしのせいか身のこなしは軽い。顔立ちは整っているというより、親しみやすい。人と目が合えば、すぐに笑顔を見せる。人見知りという言葉とは、あまり縁がなさそうな男である。
そして、何よりよく食べる。
これは私が実際に確認したことだから、間違いない。
「なんだ、旦那じゃありませんか」
「旦那?」
「昨日、牛鍋をご一緒したでしょう。あれから、旦那と呼ぶことに決めたんです」
「私には久世という姓があるのだが」
「知っていますよ。久世の旦那」
「……それでは、あまり変わらないな」
新太は、いたずらっぽく笑った。
「それで、今日は何のご用です?」
「君の話を聞きに来たんだ」
「私の話ですか」
「昨日、少し話しただろう。君が幼い頃のことや、根付のことだ」
新太は抱えていた木箱を床に置いた。
「いいですよ。何でも聞いてください」
その返事は軽かった。
しかし、源次は少し違う顔をしていた。
「新太。何でも、というのはよしなさい。思い出せないことまで、無理に話すことはないんだ」
「分かってますよ、親方」
「それから、話したくないことは話さなくていい」
「はいはい」
「はいは一度でいい」
「はい」
新太は笑って答えた。
私は、そのやりとりを見ていた。
源次は新太に対して、決して甘いばかりではない。むしろ、何かにつけて小言を言う。しかし、その言葉の奥には、長い年月をかけて育まれた親しみがあった。
新太もまた、それを当然のこととして受け止めている。
血のつながりがあるかどうかなど、二人の間では、さほど重要なことではないのかもしれない。
私は懐から小さな手帳を取り出した。
「では、少しずつ聞かせてもらおう」
「はい。先生」
「先生?」
「新聞記者の先生です」
「私は先生と呼ばれるほどの者ではないよ」
「では、作家先生」
私は思わず咳払いをした。
まだ小説を一冊も出していない人間に、その呼び名は少々荷が重い。
「……その呼び方も、やめていただきたい」
「そうですか。残念だなあ」
新太は、まるでこちらの困る顔を楽しんでいるようだった。
*
「まず、君の名前から確認させてほしい」
「朝倉新太です」
「あさくら、あらた。間違いないね」
「ええ。新太と書いて、あらたです」
「その名前は、いつから知っている?」
「物心がついた頃には、もう知っていましたよ」
「誰かに教えられたのかい」
「親方だったと思います。私が小さい頃、持っていた根付に名前が刻まれていたそうです」
「それが、これだね」
私は新太の手元を見た。
新太は懐から根付を取り出した。
小さな木製の根付である。長い年月を経たものらしく、表面は滑らかになり、角の部分には細かな傷があった。
新太はそれを手のひらに載せ、私に差し出した。
「どうぞ」
私は受け取り、刻まれた文字を確かめた。
表には、確かに「新太」とある。
裏返すと、もう一つの名前が現れた。
「ふさ」。
昨日も見た文字だったが、改めて見ると、やはり気になる。
「この名前について、君は何か覚えていないか」
「何も」
「幼い頃、誰かから聞いたことも?」
「ありませんね」
「ふさという人が身近にいたような記憶は?」
「ないです」
新太は、少し考えてから首を振った。
「そもそも、五つくらいまでのことは、あまり覚えていないんです」
「五歳くらいまで?」
「ええ。何となく、いくつかの景色が残っているような気もします。でも、それが本当に自分の記憶なのか、あとから聞いた話なのか、よく分からないんですよ」
「例えば、どんな景色だろう」
「……そうですね」
新太は目を伏せた。
「誰かの手を握っていたような気がします」
「誰の手か、分かるかい」
「分かりません」
「男の人か、女の人か」
「それも、はっきりしません」
「その人は、君に何か言った?」
「覚えていません」
私は鉛筆を動かしかけて、止めた。
曖昧な記憶を、無理に言葉にしてもらうべきではない。
「では、そのことは、今はそれだけにしておこう」
「いいんですか?」
「もちろんだ。思い出せないものは、思い出せない。それも大事な話だからね」
新太は、少し意外そうな顔をした。
「旦那は、もっと色々聞いてくると思っていました」
「聞きたいことはあるさ。しかし、君が覚えていないことを、私が勝手に作るわけにはいかない」
「新聞記者だからですか」
「新聞記者だからでもあるし、君の話を聞いている人間だからでもある」
新太は根付を受け取った。
「そういうものですか」
「そういうものだと思っているよ」
彼は根付をしばらく眺めていた。
そして、いつもの調子に戻るように、ひょいと肩をすくめた。
「まあ、覚えていないものは仕方ありませんね。腹が減ったことなら、昨日のことでもよく覚えているんですが」
「それは、昨日の牛鍋のことかい」
「ええ。あれは忘れられません」
「君は、食べ物のことになると、実に記憶がいいな」
「大事なことですから」
私は笑った。
こういうところが、新太という青年なのだろう。
過去を知らないことを、必要以上に悲観してはいない。だが、気にしていないわけでもない。
その二つが、彼の中では不思議な具合に同居しているようだった。
*
「親方が私を見つけたときのことも、聞いてみたいんです」
私がそう言うと、源次は少し黙った。
新太は、源次の方を見た。
「親方、話してやってくださいよ」
「お前が話したいなら、話してもいい」
「私は、もう何度も聞いていますから」
「何度聞いても、忘れたような顔をするじゃないか」
「そんなことはありません」
「そうかい」
源次は、ゆっくりと腰を下ろした。
私も、その前に座った。
「いつ頃のことでしたか」
「春だったよ」
「春ですか」
「今頃と同じような季節だったと思う。わしらは次の興行先へ向かっていた」
「場所は?」
「この町から、そう遠くないところだ。細かい場所までは、今すぐには言えない」
「そのとき、新太さんは一人だったのですか」
「わしが見つけたときには、一人だった」
「誰か、一緒にいた者はいなかった?」
「少なくとも、わしの目には入らなかった」
源次は、言葉を選ぶように続けた。
「小さな子どもが一人でいる。放っておけるわけがないだろう」
「それで、一座に連れて帰ったのですね」
「最初から、そう決めていたわけじゃない。とにかく、親がいるなら探さなければと思った」
「親を探したのですか」
「ああ。近くの家にも尋ねたし、土地の者にも聞いた。だが、その子を知っているという者はいなかった」
「警察には届けたのでしょうか」
私が尋ねると、源次は一度、眉を寄せた。
「当時のことを、今のように細かく覚えているわけじゃない。わしも興行の途中だったし、何より子どもを一人にしておくわけにはいかなかった」
「そうですね」
「それに、あの子は自分の名前を言ったんだ」
「新太、と?」
「そうだ。自分の名前だけは、しっかり言えた。根付にも、その名があった」
私は手帳に書き留めた。
名前は分かっていた。
しかし、家族の所在は分からなかった。
「ふさ、という名前については、当時からご存じだったのですか」
「いや。根付の裏にその名があることに気づいたのは、少し後だった」
「そのとき、誰か心当たりは?」
「なかったね」
「その名前を知っている人を探したことはありますか」
「探したよ。だが、見つからなかった」
源次は、新太の方を見た。
「そのうち、この子は一座の者たちと暮らすようになった。最初は、いつか親が迎えに来るかもしれないと思っていたよ」
「それで、ずっと待っていたんですか」
「ああ。だが、誰も来なかった」
源次の声は静かだった。
「そのうち、新太も大きくなった。舞台の裏を走り回って、役者の真似をして、飯を食べて、眠って。気がつけば、うちの一員になっていた」
「親方が育ててくれたんですよ」
新太が口を挟んだ。
「お前は、最初からよく食べたな」
「それは今も変わりません」
「知っているよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
私は、その様子を見ていた。
源次の話には、まだ分からないことが多い。
新太がどこから来たのか。なぜ一人だったのか。誰が根付を持たせたのか。
そして、ふさという人物が誰なのか。
だが、一つだけ確かなことがあった。
源次は、新太を拾っただけではない。
彼を育て、暮らしを与え、今日まで一緒に生きてきたのだ。
「源次さん」
「何だい」
「新太さんが、いつか自分の生まれた場所を見つけたいと言ったら、どう思われますか」
源次はすぐには答えなかった。
新太も、黙っていた。
小屋の外から、木箱を運ぶ音が聞こえる。
やがて源次は、少しだけ笑った。
「そりゃあ、見つかるなら見つけてやりたいさ」
「寂しくはありませんか」
「寂しくないと言えば嘘になるね」
源次は新太を見た。
「だが、あの子にはあの子の人生がある。わしが育てたからといって、あの子の過去までわしのものになるわけじゃない」
私は手帳に鉛筆を走らせた。
その言葉は、新聞記事にするためではなく、私自身が忘れないために書き留めておきたいと思った。
*
取材を終えた私は、小屋の外で新太と並んで歩いていた。
源次は、まだ片付けが残っていると言って、小屋に戻っていった。
「旦那、ずいぶん熱心に書いていましたね」
「聞いたことを忘れないようにしているんだ」
「そんなに書くことがありましたか」
「あるさ。君の話も、源次さんの話も、まだ聞きたいことがたくさんある」
「そうですか」
新太は、通りの向こうを眺めた。
祭りの露店は、ほとんど片付いている。焼き物の匂いも、甘い菓子の匂いも、昨日に比べればずいぶん薄くなっていた。
「ところで、旦那」
「何だい」
「私の話を小説にするんですか」
私は、少し返事に困った。
「そのつもりで考えてはいる」
「どんな小説にするんです?」
「まだ分からない」
「主人公は私ですか」
「そうなるかもしれない」
「では、格好よく書いてくださいよ」
「君は、格好よく書かれたいのかい」
「そりゃあ、そうでしょう」
「事実と違っても?」
「そこは、うまくお願いします」
「新聞記者に、それを頼むのは困るな」
新太は声を立てて笑った。
「冗談ですよ」
「分かっているよ」
「でも、旦那。私の知らないことを、勝手に決めないでくださいね」
その言葉に、私は足を止めた。
新太は笑っていなかった。
いつもの気さくな表情のまま、しかし、私の目をまっすぐに見ていた。
「例えば、私が小さい頃、どんな家に住んでいたとか、どんな人と暮らしていたとか。そういうことを、旦那が勝手に考えて書くのは、ちょっと違うと思うんです」
「……そうだね」
「もちろん、小説だから、いろいろ考えるのはいいんでしょうけど」
「君の人生について書くなら、君の知らないことを事実のように書いてはいけない」
「そういうことです」
私は手帳を閉じた。
「約束するよ」
「本当ですか」
「ああ。分からないことは、分からないままにしておく」
新太は、ほっとしたように笑った。
「それなら、安心です」
私は、改めて思った。
彼は自分の過去を知りたいのだ。
しかし、それは誰かに面白おかしく語ってもらいたいということではない。
自分の知らない人生を、他人の想像で埋められたくないのだろう。
それは、当然のことだった。
*
その日の夕方、私は新聞社に戻った。
さて、ここで私の勤め先についても、少し説明しておこう。
私が勤めているのは、この地方で発行されている小さな新聞社である。東京の大新聞に比べれば、社員の数も少なく、扱う記事も限られている。
しかし、地方の新聞には地方の新聞の役割がある。
町の出来事、商店の移転、祭りの様子、学校の行事、役場からのお知らせ。大きな事件ばかりが新聞の役目ではない。人々の日々の暮らしを記録することも、私たちの仕事なのである。
私の机の周りには、同僚たちが忙しそうに行き来していた。
その中に、一人、私より少し年上の男がいる。
名を田辺という。
年は三十を少し越えた頃。新聞社では整理と校正を担当している。背は高くないが、眼鏡の奥の目はよく動く。人の原稿を読むことにかけては、なかなか厳しい男である。
文章の誤りを見つけるのが早く、余計な修飾を嫌う。私が少し気取った言い回しをすると、たいてい赤鉛筆が入る。
もっとも、本人は決して意地悪でやっているわけではない。新聞に載せる文章は、誰が読んでも意味が分からなければならない。それが田辺の信条なのだ。
「久世、まだ残っていたのか」
その田辺が、私の机の横に立った。
「少し調べ物をしていまして」
「祭りの記事は、もう終わったんじゃないのか」
「ええ。別件です」
「別件?」
「昔の行方不明者について、何か記録がないかと思いまして」
「何だ、事件か」
「まだ、何とも言えません」
田辺は、私の机に積まれた古新聞を見た。
「ずいぶん古いものを引っ張り出したな」
「必要になりまして」
「まあ、ほどほどにしておけよ。明日の記事もあるんだからな」
「分かっています」
「それならいい」
田辺は、私の手帳をちらりと見た。
「ところで、何を調べているんだ」
「身元の分からない子どもについてです。昔、ある男が五歳くらいの子どもを見つけて、育てたそうなんです」
「それは、いつ頃の話だ」
「十七年ほど前になるでしょうか」
「随分と前だな」
「ええ。まだ詳しいことは分かりません」
「なら、まずは年月日と場所を確かめることだな。そこが曖昧だと、いくら古新聞をひっくり返しても見つからないぞ」
「おっしゃる通りです」
「それから、行方不明になった子どもと、見つかった子どもが同一人物だという証拠も必要だ」
「はい」
「思い込みで記事にするなよ」
「分かっています」
田辺は、少し笑った。
「お前は文章を書くのが好きだからな。つい、話を作りたくなるんじゃないか」
「私は新聞記者ですよ」
「そうだったな。では、新聞記者らしく調べることだ」
田辺はそう言って、自分の席へ戻っていった。
私は、彼の言葉を手帳に書き留めた。
年月日と場所。
証言と証拠。
同一人物であることの確認。
どれも当たり前のことだが、今回の取材では、それが難しい。
新太が拾われた場所は、まだ正確には分からない。見つかった日付も分からない。五歳という年齢も、おおよそのものだ。
これでは、新聞記事を探すにも手掛かりが足りない。
私は新聞の束を一つずつ開いた。
古い紙には、年月とともに独特の匂いが染みついている。
記事の見出しを追い、日付を確かめ、必要な箇所に印をつけていく。
気がつけば、窓の外は夕暮れになっていた。
それでも、決め手になる記事は見つからなかった。
私は、新聞の束を閉じた。
取材とは、思っていた以上に地道な仕事である。
面白い話を聞けば、すぐに真相が見つかるわけではない。むしろ、何も見つからない時間の方が長い。
そして、その何も見つからない時間にも、仕事は続いている。
*
夜、下宿に戻った私は、机に向かった。
新聞記者としての調べ物は、ひとまずここまでにする。
今度は、作家志望としての仕事である。
私は原稿用紙を広げた。
第一行に、今日の取材で感じたことを書こうとした。
だが、なかなか言葉が出てこない。
新太は、明るい青年だった。
よく笑い、よく食べ、誰にでも気さくに話しかける。
源次は、彼を拾い、育てた。
二人の間には、確かな親しみがある。
それらを文章にすることはできる。
しかし、彼らの人生を、私の言葉だけで表すことができるのだろうか。
私は鉛筆を置いた。
新聞記事なら、取材した事実を整理すればよい。もちろん、それも簡単ではないが、少なくとも書くべき方向は決まっている。
だが、小説は違う。
人物の心を描かなければならない。表情や仕草、言葉の裏にある思いを読み取らなければならない。
それを間違えれば、どれほど文章が整っていても、読者には伝わらないだろう。
私は、今日の源次の言葉を思い出した。
――わしが育てたからといって、あの子の過去までわしのものになるわけじゃない。
その一言が、頭から離れなかった。
私は、原稿用紙に書き始めた。
――人は、誰かに育てられた場所を、ふるさとと呼ぶことができるのだろうか。
今度は、線を引かなかった。
ただし、その答えを、今の私が書くことはできない。
新太自身が、まだ答えを知らないのだから。
私はその一文の下に、もう一行を書き足した。
――その答えを探すために、青年は旅に出る。
そして、しばらく考えたあと、こう続けた。
――その旅を、私は書き留めることにした。
これなら、嘘にはならない。
少なくとも、今のところは。
私は原稿用紙の右上に、仮の題を書いた。
『浮世の迷い子』
その下に、小さく副題を添えた。
――思い出せない、ふるさと。
まだ、書き始めたばかりである。
新太の過去も、ふさという人物の正体も分からない。
それでも、私はもう一度、あの青年に会いに行こうと思っていた。
新聞記者として、確かな事実を探すために。
小説家志望として、人の心に残る物語を書くために。
そして、ひとりの人間として、彼の旅に付き合うために。
翌朝、私は古新聞の束をもう一度調べるつもりだった。
だが、その前に、新太に尋ねておかなければならないことがある。
彼は本当に、自分の過去を探したいと思っているのか。
そして、私と一緒に旅をする気があるのか。
取材は、まだ始まったばかりだった。




