第一話 迷い子
私は久世文彦、二十六歳。
地方新聞社に勤める新聞記者である。
新聞記者という仕事は、なかなか面白い。
町で起きた事件を追い、人々の暮らしを取材し、ときには遠くの土地まで足を運ぶ。昨日まで知らなかった人間に会い、その人が歩んできた人生の一端を聞く。自分の知らない世界が、毎日のように目の前に現れるのだ。
新聞に載せる記事を書くためには、事実を確かめなければならない。
誰が、いつ、どこで、何をしたのか。
人から聞いた話を、そのまま記事にするわけにはいかない。証言が食い違えば、もう一度確かめる。曖昧なことは曖昧なままにしておく。新聞記者として、当然のことである。
私は、この仕事が嫌いではない。
いや、むしろ好きだ。
しかし、私にはもうひとつ、胸の奥にしまっている夢があった。
小説家になりたいのである。
初めて尾崎紅葉の『金色夜叉』を読んだとき、私は小説というものの力に驚いた。
人間の欲望、恋心、嫉妬、見栄、そして悲しみ。現実の世界にもありふれているはずの感情が、文字を通して読むと、まるで目の前で起きている出来事のように迫ってくる。
紅葉先生は、すでにこの世の人ではない。
それでも、私にとっては今も憧れの作家である。
いつか自分も、誰かの心に残る小説を書いてみたい。
新聞記事を書くことと、小説を書くことは、似ているようで違う。
新聞には、確かめられた事実を書かなければならない。ところが小説には、事実だけでは描ききれない人間の心がある。
人はなぜ、その言葉を口にしたのか。
なぜ、笑ったのか。
なぜ、黙ってしまったのか。
その答えを、私はいつも考えてしまう。
もっとも、考えることと、書けることは別である。
私の机の引き出しには、書きかけの原稿が何枚も眠っている。どれも、書き出しだけは威勢がよい。ところが、数枚も進むと筆が止まる。
人物が動かない。
話が続かない。
自分で書いた文章を読み返してみると、どこかで読んだような言葉ばかりが並んでいる。
小説家への道は、思ったほど簡単ではなかった。
それでも、私は諦めていない。
そんな私が、ある日、ひとりの青年に出会った。
名を、朝倉新太という。
彼は、自分がどこで生まれたのかを知らなかった。
五歳のころ、ひとりでいるところを旅芸人の一座に拾われ、それ以来、その一座で暮らしてきたという。
彼の持ち物には、小さな根付がひとつあった。
そこには、二つの名前が刻まれていた。
新太。
そして、ふさ。
その根付が、彼の過去を知る唯一の手がかりだった。
私は、この青年に興味を持った。
新聞記者としても、小説家志望の人間としても。
だが、最初に会ったときの私は、彼がこれほど私の人生に関わることになるとは思ってもいなかった。
*
大正十年、春。
私は地方新聞の取材で、町外れにやって来た旅芸人の一座を訪ねていた。
その土地では、春祭りに合わせて、あちこちから人が集まってくる。露店が並び、子どもたちが走り回り、いつもは静かな通りにも人の声が満ちていた。
旅芸人の一座も、その賑わいに合わせて小さな舞台を設けていた。
立派な芝居小屋ではない。
板を組み合わせた舞台に幕を張り、客が座る場所には筵を敷く。晴れればよいが、雨が降れば興行にも差し障る。そういう暮らしを、土地から土地へと続けている人々だった。
私は、新聞記事のために一座の座長を訪ねた。
「新聞屋さんかい。わざわざ、こんなところまでご苦労なこった」
出迎えてくれたのは、源次という男だった。
日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。年齢は五十を過ぎているように見えたが、背筋は伸び、声にも張りがあった。
「こちらこそ、お忙しいところ恐縮です。春祭りの興行について、少しお話を伺いたいと思いまして」
「たいした話なんぞ、ありゃしないよ。うちは旅回りの一座だ。呼ばれりゃ行くし、呼ばれなきゃ別の土地へ行く。それだけさ」
「それだけ、とおっしゃいますが、土地ごとに客層も違うでしょう。演目も変えるのですか?」
「そりゃあ、変えるさ。子どもが多けりゃ子ども向けにするし、年寄りが多けりゃ、昔からの芝居をやる。客に合わせなきゃ、飯が食えないからね」
私は手帳に書き留めた。
座員の人数、演目、これまで巡ってきた土地。興行の苦労や、旅先での出来事。
新聞記事にするための質問を続けていると、舞台の脇で忙しそうに動き回る青年が目に入った。
道具を運び、幕を整え、座員に声をかける。見物に来ていた子どもが転びそうになると、すぐに手を伸ばして支えてやった。
その青年は、誰に対しても気さくだった。
年寄りには丁寧に頭を下げ、子どもには笑顔を見せる。仕事の手を止めることなく、周囲の様子にもよく気を配っている。
「彼は?」
私が尋ねると、源次は青年の方を見た。
「ああ、新太か。うちの若い衆だよ」
「新太さんというのですか」
「おい、新太。ちょっと来な」
源次に呼ばれ、青年がこちらへやって来た。
「何です、親分」
「新聞屋さんだ。ちょいと話を聞きたいそうだ」
「新聞屋さん?」
青年は私の顔を見て、にこりと笑った。
「朝倉新太といいます。よろしくお願いします」
「久世文彦です。地方新聞の記者をしております」
「新聞記者さんですか。遠くから来たんですか?」
「ええ。取材でこの町に来ています」
「そうですか。じゃあ、うちの芝居も記事にしてくれるんですかね」
「もちろん。面白い記事にできればと思っています」
「それなら、親分の話より、俺の話を聞いた方が面白いかもしれませんよ」
新太は、いたずらっぽく笑った。
「おい、新太。余計なことを言うんじゃない」
源次がたしなめる。
「何も悪いことは言ってませんよ」
「お前は、いつも口が達者なんだ」
二人のやりとりを見て、私は思わず笑った。
この青年は、ずいぶん人に慣れている。
旅芸人として育ったせいだろうか。初対面の相手にも物怖じしない。言葉の返しも早く、場の空気を読むのがうまい。
私は、彼にいくつか質問をしてみた。
「朝倉君は、ずっとこの一座にいるのですか?」
「そうですね。物心ついたころから、ここにいます」
「生まれも、このあたりなのですか?」
何気なく尋ねたつもりだった。
ところが、新太は一瞬だけ、表情を変えた。
「生まれたところは、知らないんです」
「知らない?」
「はい。五つくらいのときに、親分に拾われたそうです。それより前のことは、ほとんど覚えていません」
私は、手帳に書きかけた鉛筆を止めた。
「拾われた、というのは?」
「旅の途中で、ひとりでいたところを見つけてもらったらしいです。詳しいことは、親分の方が知っています」
新太は、さほど深刻そうでもなく言った。
私は源次を見た。
源次は、少しだけ眉を寄せていた。
「この子のことは、あまり簡単に話したくないんだがね」
「申し訳ありません。差し支えのない範囲で結構です」
「そうかい。まあ、昔のことだ。わしらが見つけたときには、ひとりでいた。泣いていたのか、疲れていたのか、それもはっきり覚えていない。ただ、放っておくわけにもいかなかった」
「それで、引き取られたのですか?」
「そういうことだ」
源次は、それ以上詳しく語ろうとはしなかった。
私は、無理に尋ねるのをやめた。
新聞記者としては、気になる話である。
五歳の子どもが、ひとりで旅先にいた。
親はどこにいたのか。なぜ、ひとりだったのか。誰かが探していたのではないか。
事故だったのか、それとも何か事情があったのか。
しかし、今の段階では何ひとつ分からない。
分からないことを、分かったように書くわけにはいかなかった。
「ご自分の名前は、どうして分かったのですか?」
私は、新太に尋ねた。
「これですよ」
新太は懐に手を入れ、小さな根付を取り出した。
古びてはいるが、丁寧に使われてきた様子がある。表面には細かな傷がついていた。
「親分が見つけたとき、これを持っていたそうです」
新太は、根付を私の方へ差し出した。
そこには、二つの名前が刻まれていた。
表には「新太」。
裏には「ふさ」。
「新太、というのが君の名前なのですね」
「そうだと思います。親分が、そう呼ぶようになったんです」
「では、こちらの『ふさ』というのは?」
「分かりません」
新太は、根付を裏返して見つめた。
「誰の名前なのか、俺にも分からないんです」
「ご家族の方でしょうか」
「さあ。母親かもしれないし、姉さんかもしれない。親戚の人かもしれない。あるいは、まったく違う人かもしれません」
「気になりませんか?」
「気になりますよ」
新太は、あっさりと答えた。
「自分がどこで生まれたのか、誰と暮らしていたのか。知りたいと思わないわけがないでしょう」
その声には、さっきまでの軽さとは違う響きがあった。
「でも、知らないものは知らないんです。思い出そうとしても、何も出てこない。だから、今の俺には、この根付しか手がかりがないんですよ」
私は、根付を見つめた。
新太という名前。
ふさという名前。
その二つが、同じ小さな根付に刻まれている。
偶然だろうか。
それとも、何か意味があるのだろうか。
「その根付、大切なものですね」
「ええ。これがなかったら、俺は自分の名前さえ分からなかったかもしれません」
新太は、根付を大事そうに懐へしまった。
私は、その仕草を見ていた。
この青年にとって、根付は単なる持ち物ではない。自分が何者なのかを知るための、たったひとつの手がかりなのだ。
そのとき、私の中で、何かが動いた。
新聞記者としての好奇心だったのか。
小説家志望の人間としての欲だったのか。
それとも、目の前の青年に対する、ただの人間としての関心だったのか。
その三つを、私はまだ区別できなかった。
*
取材を終えるころには、日が傾き始めていた。
私は手帳を閉じ、源次に礼を言った。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「いやいや。新聞に載せてもらえるなら、ありがたいことだ」
「記事にする際には、事実を確認させていただくこともあると思います。そのときは、またお願いします」
「分かったよ」
新太も、舞台の脇から声をかけてきた。
「久世さん、また来てくださいよ。次は芝居も見ていってください」
「ええ。ぜひ」
「新聞に載ったら、俺にも見せてくださいね」
「もちろんです」
「約束ですよ」
新太は笑った。
私はその笑顔を見ながら、ふと思った。
この青年は、自分の過去を知らないと言った。
しかし、今の暮らしを悲観しているようには見えない。
源次を親分と呼び、一座の人々と暮らし、旅を続けている。彼にとって、ここが家なのだろう。
それでも、知らない故郷を探したいと思っている。
人間というものは、不思議なものだ。
自分が今いる場所を大切にしながら、まだ見たことのない場所を求める。
私は、そのことを記事に書けるだろうか。
いや、記事にする前に、もう少し彼のことを知りたいと思った。
*
町へ戻る途中、私は一軒の牛鍋屋に立ち寄った。
昼から何も食べていなかったので、腹が減っていた。
店に入ると、醤油と砂糖の甘辛い匂いが鼻をくすぐった。鉄鍋の中では、牛肉と葱が煮えている。客たちの話し声に、箸が器に当たる音が混じっていた。
私は牛鍋を注文し、手帳を取り出した。
新聞記事に必要なことを整理する。
旅芸人の一座。座長の源次。若い座員、朝倉新太。
五歳のころ、ひとりでいたところを拾われた。
そのとき持っていた根付には、「新太」と「ふさ」の二つの名前。
現在のところ、本人の出生地も、家族の所在も不明。
ここまでは、取材で得られた事実である。
しかし、記事にするには、まだ確認が足りない。
源次の話をもう一度聞く必要がある。新太が見つかった場所も、できれば確かめたい。根付の由来についても、何か手がかりがあるかもしれない。
私は、手帳の端に小さく書き加えた。
――朝倉新太の過去について、継続取材。
そこで、筆が止まった。
もう一枚、別の紙を取り出した。
こちらは新聞記事ではない。
私が小説を書くために使っている原稿用紙だった。
私は、しばらく何も書かずに考えた。
朝倉新太という青年。
生まれた場所を知らない。
幼いころの記憶を持たない。
名前だけが残されている。
その名前のほかに、もうひとつ、知らない人間の名前が刻まれている。
これだけでも、物語の始まりとしては十分ではないか。
私は、原稿用紙に書いた。
『朝倉新太は、自分の故郷を知らない。』
そして、しばらく眺めた。
悪くない書き出しだと思った。
だが、すぐに鉛筆を置いた。
私は、新太の故郷を知らない。
彼が何を覚えていて、何を忘れているのかも、まだ十分には知らない。
それなのに、彼の人生を勝手に物語にしてよいのだろうか。
新聞記事なら、本人の話を聞き、裏付けを取ればよい。
だが、小説は違う。
人の心を描こうとすれば、書き手は想像しなければならない。想像しなければ物語にならない。しかし、想像したことが事実であるかのように書いてしまえば、それは新太の人生を別のものにしてしまう。
私は、原稿用紙の一文に線を引いた。
そして、その下に書き直した。
『朝倉新太は、自分がどこで生まれたのか知らない。少なくとも、本人はそう言っている。』
今度は、少しだけ納得できた。
私は彼のことを、まだ知らない。
だからこそ、知りたい。
それが新聞記者としての仕事であり、小説家を夢見る私の好奇心でもあった。
*
翌日、私は再び一座を訪ねた。
今度は新聞記事の追加取材という名目だったが、正直に言えば、新太に会いたかった。
源次は、私の顔を見るなり言った。
「また来たのかい」
「昨日のお話で、少し確認したいことがありまして」
「新聞屋さんは、ずいぶん熱心だね」
「仕事ですから」
「ふうん」
源次は、私の顔をじっと見た。
「それだけかい?」
私は、返事に困った。
すると、後ろから新太の声がした。
「久世さん!」
振り返ると、新太がこちらへ歩いてくる。
「本当に来たんですね」
「ええ。昨日のお話を、もう少し聞きたいと思いまして」
「俺のことですか?」
「そうです。君が五歳のころのことを、少しでも知りたいのです」
「俺は、あまり覚えていませんよ」
「覚えていなくても構いません。源次さんのお話を伺いたいのです」
「なるほど。じゃあ、親分に聞いてください。俺より詳しいですから」
新太は、気軽に言った。
「ところで、久世さん。飯は食べました?」
「いえ、まだです」
「そうですか。じゃあ、ちょうどいい。今日は、うまいものを食べに行きませんか?」
「取材の途中ですよ」
「腹が減っては、話もできませんよ」
新太は笑った。
「それに、久世さん。新聞記者なら、土地のうまいものも取材しなきゃ」
「それは、そうかもしれませんが……」
「じゃあ、決まりですね」
私は、少しばかり押し切られる形になった。
新太は、誰かと食事をすることに何のためらいもないようだった。初対面に近い私を、まるで以前からの知り合いのように扱う。
源次は、そんな新太を見て、呆れたように笑った。
「新太、お前は本当に人懐っこいな」
「そうですか?」
「そうだよ。誰にでもついて行くんじゃないぞ」
「久世さんは新聞記者ですよ」
「新聞記者だって、どんな人間か分からんだろう」
「じゃあ、親分も一緒に来ますか?」
「わしは仕事がある」
そんなやりとりを聞きながら、私は思った。
新太は、旅に慣れている。
知らない土地へ行くことも、知らない人間と話すことも、彼にとっては日常なのだ。
私の方が、よほど旅に不慣れなのかもしれない。
*
その日の昼、私たちは牛鍋屋に入った。
新太は店に入るなり、慣れた様子で席を選んだ。
「ここは、牛鍋がうまいんですよ」
「よく来るのですか?」
「この町に来たときにはね。旅の途中で、うまいものを見つけるのも楽しみですから」
「なるほど」
「久世さんは、牛鍋はお好きですか?」
「嫌いではありません」
「じゃあ、たくさん食べましょう」
新太は、店の者に注文した。
ほどなくして、鉄鍋が運ばれてきた。
熱した鍋に牛脂が引かれ、牛肉が置かれる。じゅう、と音がして、甘辛い割り下の香りが立ちのぼった。葱や豆腐も加わり、鍋の中が賑やかになっていく。
「いい匂いですね」
「でしょう?」
新太は、まるで自分が料理したかのように得意げだった。
「さあ、冷めないうちに」
私は箸を取った。
牛肉を口に運ぶと、甘辛い味が広がった。柔らかい肉に、葱の香りがよく合う。
「これは、うまい」
「そうでしょう。旅をしていると、土地ごとにうまいものがあるんです。食べずに通り過ぎるのは、もったいないですよ」
「新太さんは、食べることがお好きなのですね」
「もちろんです。芝居も好きですけど、飯も好きです」
「ははは。正直ですね」
「腹が減っては芝居もできませんからね」
新太は、牛肉をもう一切れ取った。
私は、彼の食べっぷりを見ていた。
よく食べる。よく笑う。人の話を聞くときは、相手の目をまっすぐ見る。
過去のことを尋ねるときには、少しだけ表情が変わる。しかし、それを長く引きずることはない。
この青年は、今を生きている。
そのことが、私には妙に印象的だった。
「久世さんは、どうして新聞記者になったんです?」
新太が尋ねた。
「人の話を聞くのが好きだったからでしょうか」
「じゃあ、向いている仕事ですね」
「そうかもしれません」
「でも、さっきから何か考えているようですね」
「分かりますか?」
「分かりますよ。新聞記者さんは、飯を食べながらでも頭の中で記事を書いているんでしょう?」
「それは、否定できませんね」
「じゃあ、俺のことも記事にするんですか?」
「君の話は、もう少し調べてからにしたいと思っています」
「どうしてです?」
「今のところ、分からないことが多すぎるからです」
「それなら、分かることから聞けばいいじゃありませんか」
「そうですね」
「俺だって、何もかも知らないわけじゃありませんよ。旅のことなら、いろいろ話せます」
「それは、ぜひ聞きたいですね」
「じゃあ、次は俺が案内しますよ。久世さんが知らない土地を」
その言葉に、私は箸を止めた。
「案内してくれるのですか?」
「ええ。俺は旅に慣れていますから」
「それは頼もしい」
「ただし、飯代は久世さん持ちで」
「おやおや」
新太は声を上げて笑った。
私もつられて笑った。
そのとき、私は初めて、新太と一緒に旅をする自分の姿を想像した。
新聞記者として、彼の過去を追う。
小説家志望として、彼との旅を文章にする。
そして、ひとりの人間として、彼と同じ道を歩いてみる。
三つの思いが、私の中で重なり始めていた。
*
牛鍋を食べ終えると、新太は満足そうに息をついた。
「いやあ、食べましたね」
「ずいぶん召し上がりましたね」
「旅先では、食べられるときに食べておかないと」
「それは、旅の知恵ですか?」
「そうですよ。次にいつ食べられるか分からないんですから」
新太は、そう言って笑った。
私は勘定を済ませ、店を出た。
春の風が通りを抜けていく。祭りの賑わいは、まだ続いていた。
「久世さん」
「はい?」
「昨日、俺の話を聞きたいと言っていましたよね」
「ええ」
「俺も、知りたいんです」
「何をです?」
「自分がどこから来たのか。あの根付にある『ふさ』という名前が、誰のものなのか」
新太は、懐に手を入れた。
「親分は、俺を育ててくれました。あの一座が俺の家だと思っています。それは本当です。でも、自分が生まれた場所を知らないままでいいのかと、ときどき考えるんです」
「探してみたいのですか?」
「はい。いつかは」
新太は、少し遠くを見るような目をした。
「ただ、どこから探せばいいのか分かりません。名前だけじゃ、どうにもならないでしょう?」
「根付のことを、もう少し詳しく調べてみましょう。刻まれた文字や、作られた時期など、何か手がかりがあるかもしれません」
「そんなことも分かるんですか?」
「調べてみなければ分かりません」
「なるほど。さすが新聞記者さんですね」
「いえ、まだ何も分かっていませんよ」
「でも、調べるんでしょう?」
新太は、まっすぐに私を見た。
「だったら、俺も手伝います」
私は、すぐには答えられなかった。
彼は、自分の過去を探したい。
私は、その過程を知りたい。
新聞記者としてなら、取材を続ける理由はある。小説家志望としてなら、これほど興味を引かれる題材もない。
しかし、彼の人生は、私のためにあるわけではない。
そのことを、忘れてはならないと思った。
「新太さん」
「はい」
「ひとつ約束してください」
「何です?」
「分からないことを、無理に思い出そうとしないことです。分からないことは、分からないままでいい。手がかりをひとつずつ探しましょう」
新太は、少し考えてから頷いた。
「分かりました。じゃあ、久世さんも約束してください」
「何をです?」
「俺のことを、勝手に決めつけないこと」
私は、思わず苦笑した。
「それは、新聞記者としても、小説家志望としても、気をつけなければいけませんね」
「小説家志望?」
新太が首を傾げた。
「ああ、まだ話していませんでしたね。私は新聞記者をしていますが、本当は小説家にもなりたいと思っているのです」
「へえ! 小説家ですか」
「まだ志望しているだけですよ。作品を世に出したこともありません」
「でも、書いているんでしょう?」
「ええ。少しずつ」
「じゃあ、いつか有名な作家になるかもしれませんね」
「そう簡単にはいきませんよ」
「分かりませんよ。何がきっかけになるかなんて」
新太は、あっけらかんと言った。
「俺だって、親分に拾われなかったら、どうなっていたか分かりませんからね」
その言葉に、私は返事を失った。
新太は、過去を知らない。
しかし、過去を知らないからといって、何も持っていないわけではない。
彼には、育ててくれた人がいる。帰る場所がある。旅の経験がある。そして、まだ知らない自分の故郷を探したいという願いがある。
そのすべてが、彼を形作っているのだ。
私は、手帳を取り出した。
そこに、ひとつ書き加えた。
――朝倉新太。出生地不明。根付に「新太」「ふさ」の二名。本人は過去を知りたがっている。
その下に、もう一行。
――本人の意思を確かめながら、調査を続けること。
さらに、私は別の小さな手帳を取り出した。
小説のための手帳である。
そこには、今日の出来事を書き留めた。
牛鍋をうまそうに食べる青年。
自分の過去を知らないのに、よく笑う青年。
名前の刻まれた根付を、大切そうに懐へしまう青年。
私は、そのページの最後に書いた。
『この青年は、どこから来たのだろう。』
その問いに、まだ答えはない。
だが、答えを探す旅なら、始められるかもしれない。
*
その夜、私は宿の机に向かっていた。
新聞記事の原稿は、ひとまず書き終えた。
旅芸人の一座が春祭りに参加していること。座長の源次が、土地の人々に親しまれていること。若い座員たちが、芝居や踊りで祭りを盛り上げていること。
それらは、新聞に載せることのできる事実だった。
しかし、私の頭の中には、もうひとつの文章が浮かんでいた。
小説の書き出しである。
私は、原稿用紙を広げた。
『朝倉新太は、自分がどこで生まれたのか知らない。』
今度は、その一文を消さなかった。
ただし、その先は慎重に書かなければならない。
新太が覚えていないことを、私が勝手に書いてはいけない。
源次が話さなかったことを、想像だけで埋めてはいけない。
根付の「ふさ」が誰なのかも、まだ分からない。
分からないことは、分からない。
それでも、物語は始められる。
私は、二行目を書いた。
『彼の手元には、二つの名前が刻まれた小さな根付が残されていた。』
筆が進んだ。
私は、少しだけ嬉しくなった。
尾崎紅葉のような小説を書けるとは思わない。
けれど、いつか自分の文章で、誰かの心に何かを残すことができたら。
それが、今の私の夢である。
翌朝、私は新聞社へ向かう前に、一座をもう一度訪ねるつもりだった。
源次に、もう少し詳しい話を聞くために。
新太と、これからのことを相談するために。
そして、もし彼が望むなら、根付に刻まれた名前の手がかりを探すために。
新聞記者としての取材は、まだ始まったばかりだった。
小説家としての私の物語も、まだ一行目を書いたばかりだった。
そして、朝倉新太の旅も、まだ始まっていない。
だが、私には分かっていた。
この青年と歩くことになれば、きっと退屈はしないだろう。
何しろ、彼は自分の故郷を知らないのに、旅のことなら私よりずっとよく知っているのだから。
私は原稿用紙を閉じた。
表紙に、仮の題を書いた。
『記憶にない、ふるさと』
それが、この物語の題になるかどうかは、まだ分からない。
ただ、私はその題を、しばらく眺めていた。
朝倉新太が探すもの。
久世文彦が書こうとしているもの。
それは、同じ場所にたどり着くのだろうか。
答えを知るためには、まず歩き始めなければならない。
こうして、私と朝倉新太の物語は始まった。




