プロローグ 思いがけない、出逢い 改訂版
【登場人物】
◾️久世文彦
二十六歳。地方新聞社に勤める新聞記者。
仕事には誠実だが、胸の内には小説家になりたいという夢を抱いている。尾崎紅葉の作品を愛読し、いつか自分の物語を書きたいと思っている。ある旅芸人一座の芝居を観たことから、朝倉新太と出会う。
◾️朝倉新太
二十二歳。旅芸人一座で育った青年。
幼いころ、座長の源次に拾われたが、自分がどこから来たのか、誰の子なのかを知らない。明るく人懐こく、芝居と食べることが大好き。自分の過去を知るため、文彦と旅に出る。
◾️源次
旅芸人一座の座長。
新太を幼いころから育ててきた。口数は多くないが、情に厚く、一座の者たちからも慕われている。新太にとっては、育ての親であり、帰る場所でもある。
◾️田辺
文彦が勤める新聞社の同僚。
三十歳を過ぎた、実務に長けた男。文彦の取材や調査に助言を与える。事実と推測を区別することの大切さを、文彦に教える存在でもある。
この物語は、ひとりの青年が自分の過去を探す旅であり、もうひとりの青年が、自分の書くべき物語を見つける旅でもある。
大正十年。
人と人との出会いというものは、案外、たいそうな理由などなく訪れるものらしい。
少なくとも、私の場合はそうだった。
その日、私は仕事を休んでいた。
新聞社の仕事は嫌いではない。むしろ、世の中で起きていることを自分の目で確かめ、人の話を聞き、それを文章にして読者へ届ける仕事には、いささか誇りを持っている。
ただ、休みの日まで新聞のことを考えていたのでは、いささか息が詰まる。
それに私は、もう一つ、捨てきれない夢を持っていた。
小説家になりたいのである。
尾崎紅葉先生の『金色夜叉』を初めて読んだとき、私はすっかり参ってしまった。あれほど人の心を揺さぶる文章を書けるものかと、何度も読み返したものだ。
もちろん、私にあのような作品が書けるとは思っていない。
しかし、思うだけなら自由である。
その日、私が出かけたのは、町外れに設けられた小さな芝居小屋だった。
旅芸人の一座が春の興行を打っているという。
新聞に載るような大きな芝居ではない。立派な劇場もなければ、名の知れた役者が出るわけでもない。
それでも、町の人々が楽しみにしているらしい。
私は、そういう芝居が嫌いではなかった。
芝居小屋の前には、子供を連れた夫婦や、仕事帰りらしい男たちが集まっていた。入口では、若い男が声を張り上げて客を呼んでいる。
「さあさあ、始まりますよ! 春の一座の大芝居! どうぞお入りください!」
呼び込みの声につられ、私も木戸をくぐった。
小屋の中は、思いのほか賑わっていた。
板敷きの客席には人が詰めかけ、子供たちは前の方に陣取っている。舞台の上には、簡素ながらも色鮮やかな幕が掛かり、左右には小道具が並べられていた。
私は空いている場所に腰を下ろした。
さて、どんな芝居を見せてくれるのか。
やがて、太鼓が鳴った。
三味線の音が続き、幕が開く。
物語は、さほど複雑なものではなかった。旅先で親を探す子供と、その子を助ける人々の話である。
ところが、舞台に登場した一人の若者が、実に面白かった。
年の頃は二十歳を少し過ぎたあたりだろうか。身のこなしが軽く、声にも張りがある。台詞の間合いがよく、客席の笑いを誘うところも心得ている。
とりわけ、子供の役者を相手にした場面では、舞台の空気が一変した。
若者がほんの少し目を動かすだけで、客席の視線がそちらへ集まる。
私は思わず身を乗り出した。
これは、なかなかのものだ。
大きな劇場で名のある役者を見るのとは違う。目の前の人間が、その場で生きているように見える。
芝居が進むにつれ、私はすっかり夢中になっていた。
終幕になると、客席から拍手が起こった。
子供たちは舞台の前まで駆け寄り、役者たちに手を振っている。
先ほどの若者も、舞台の上で笑顔を見せていた。
私は、その笑顔が少し気になった。
舞台の上では、あれほど器用に人を笑わせていた男が、幕が下りると、どんな顔をするのだろう。
小説家志望というものは、どうも余計なことを考える癖がある。
私は、帰りかけた足を止めた。
「失礼。先ほどの芝居、とても面白かったですよ」
舞台裏へ続く脇の通路で、私はその若者に声を掛けた。
若者は振り返り、少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます。楽しんでもらえましたか」
「ああ。特に、あなたの演技がよかった」
「そいつは嬉しいなあ」
若者は、屈託なく笑った。
「私は新聞記者をしている者です。今日は休みで、純粋に芝居を見に来たのですが、あまりに面白かったので、少しお話を伺いたくなりましてね」
「新聞記者さんですか」
「ええ。もし差し支えなければ、一座のことを記事にしてもよいでしょうか」
「もちろん。みんな喜びますよ」
話が早い。
私は懐から手帳を取り出した。
「まず、お名前を聞かせてください」
「朝倉新太です。あさくら、あらた」
「新太さん。おいくつですか」
「二十二です」
「この一座には、いつから?」
「小さい頃からですよ。ずっと一緒です」
「なるほど。では、役者としての経験も長いわけですね」
「まあ、そうですね。物心ついた頃には、もう舞台に立っていました」
新太は、質問に気持ちよく答えてくれた。
一座の名前、興行の場所、演目、座長のこと。聞けば聞くほど、興味深い話が出てくる。
私は手帳に書き留めながら、ふと尋ねた。
「ところで、新太さんは、この一座の座長の息子さんですか」
新太は、少し首を傾げた。
「息子みたいなものですけど、血はつながっていません」
「そうですか」
「ぼく、小さい頃に源次さんに拾われたんです」
私は、手帳を持つ手を止めた。
「拾われた?」
「ええ。五つくらいのときだったそうです。ぼく、自分がどこから来たのか、知らないんですよ」
その言い方には、暗さも、悲しみもなかった。
まるで、今日の天気について話すような調子だった。
「ご両親のことも?」
「何も知りません。自分の名前は、新太っていうのだけは分かっていたらしいんですけど」
「それは……」
私は、言葉を選んだ。
新聞記者としてなら、もう少し踏み込んで尋ねることもできただろう。
しかし、目の前にいるのは記事の材料ではない。一人の青年である。
「そのことを、知りたいと思ったことはありませんか」
新太は、少し考えてから答えた。
「ありますよ。そりゃあ、自分のことですからね」
そして、また笑った。
「でも、今は源次さんもいるし、一座のみんなもいます。毎日、面白いことばかりですよ」
私は、その言葉を手帳に書こうとして、やめた。
どう書けばよいのか、すぐには分からなかったからである。
「そうですか」
「新聞記者さんは、小説も書くんですか」
突然、そう尋ねられた。
私は少し驚いた。
「どうしてそう思うんです?」
「さっきから、ぼくの話を聞くとき、なんだか考え込んでいるから。新聞の記事を書く人って、もっと早く書くものかと思っていました」
これは、なかなか手厳しい。
私は苦笑した。
「実は、小説家にもなりたいと思っているんです」
「へえ! じゃあ、今度はぼくを主人公にしてくださいよ」
「それは面白いですね」
「でも、格好よく書いてくださいね」
「事実と違うことを書くわけにはいきませんよ」
「小説なんだから、いいじゃないですか」
新太は声を立てて笑った。
私は、その笑いにつられて笑ってしまった。
この青年は、どうにも人を調子づかせるところがある。
そのとき、奥から太い声がした。
「新太、いつまで話しておる。片付けを手伝え!」
「はあい!」
新太は振り返って返事をした。
「すみません。呼ばれちゃいました」
「いや、こちらこそ。お時間を取らせました」
「新聞、楽しみにしていますよ」
そう言って、新太は小屋の奥へ走っていった。
私はその後ろ姿を見送った。
さて、どうしたものか。
新聞記事にするなら、一座の興行を中心に書けばよい。芝居の面白さも、役者たちの工夫も、町の人々に伝える価値がある。
だが、私の頭には、別のことが残っていた。
自分がどこから来たのかを知らない青年。
それでも、今いる場所を大切にして、明るく生きている青年。
彼は、自分の過去を知りたいと言った。
その言葉は、何気ないものだったが、私の胸のどこかに引っ掛かった。
私は、懐から手帳を取り出し、先ほど書きかけた言葉を見つめた。
「朝倉新太、二十二歳。五歳の頃、旅芸人の一座に拾われる。出生地、家族、不明」
そこまで書いて、私は鉛筆を止めた。
この先を、私はまだ知らない。
知らないことを、知っているかのように書くわけにはいかない。
それは新聞記者としても、小説家を夢見る者としても、守らなければならないことだろう。
私は手帳を閉じた。
この日の出会いが、私をどこへ連れていくことになるのか。
そのときの私は、まだ何も知らなかった。
ただ、芝居小屋を出ると、春の風が頬を撫でた。
町の向こうには、夕暮れが近づいていた。
私は、もう一度だけ、芝居小屋を振り返った。
あの青年の笑顔が、なぜか心に残っていた。




