第十五話 「ありがとう」を、云いたい日
箱根の山を下りる朝、私は鞄の中の手帳を確かめた。
宮ノ下で見つけた古い宿帳の写し。
松風一座の宿泊記録。
「ふさ」という名の女性と、子供について記された紙片。
そして、木彫りの根付を預かったという記録。
これらを並べれば、一つの出来事が浮かび上がってくる。
けれど、まだ分からないこともある。
あの子供が新太だったのか。
ふさという女性が、新太の母親だったのか。
なぜ二人は離れ離れになったのか。
確かなことと、そうでないことを分けておく。
それが新聞記者の仕事であり、今の私が小説を書くうえで忘れてはならないことでもあった。
「文彦さん、出発するよ」
新太が駅の方から手を振った。
「ああ、今行く」
「帰るんだね」
「そうだな」
「源次さん、びっくりするかな」
「手紙を出してあるのだから、帰ることは知っているだろう」
「それでも、顔を見たらびっくりするよ」
新太は、そう言って笑った。
その顔には、旅に出る前とは違う明るさがあった。
何かを思い出したからだろうか。
それとも、何かを知ったからだろうか。
私には、まだ分からない。
ただ、新太が帰りたい場所を見つけていることだけは分かった。
*
小田原へ戻る列車の中で、新太は窓の外を眺めていた。
山の景色が遠ざかり、やがて町の家並みが見えてくる。
「文彦さん」
「何だ」
「ぼくの名前、どうして新太なんだろうね」
「根付に刻まれていたからだろう」
「うん。でも、ふさという名前も一緒に刻まれていた」
「そうだな」
「やっぱり、あの人は、ぼくのことを知っていたんだろうね」
「その可能性は高いと思う」
「お母さんだったのかな」
私は、すぐには答えなかった。
「そうかもしれない。けれど、今の記録だけでは断定できない」
「うん」
「君が知りたいと思う気持ちは分かる。しかし、分からないことを、分かったように書くわけにはいかない」
「文彦さんらしいね」
「どういう意味だ」
「新聞記者だなあ、と思って」
新太は笑った。
「でも、ぼくは、あの人のことを知りたいと思うよ。もしお母さんだったら、どんな人だったのかなって」
「そうだな」
「会ってみたかったな」
その言葉は、寂しそうではあったが、悲しみに沈んではいなかった。
私は、窓の外に目を向けた。
新太の過去には、まだ空白が残っている。
しかし、空白があるからといって、彼の人生が欠けているわけではない。
*
小田原の町に戻ると、私たちはまず、宿へ荷物を置いた。
それから、源次の一座が興行をしている場所へ向かった。
遠くから、太鼓の音が聞こえる。
見慣れた幟が風にはためいていた。
新太は歩く速度を少しだけ速めた。
「源次さん!」
先に気づいたのは、一座の若い男だった。
「おう、新太じゃないか!」
その声に、何人かが振り返る。
「帰ってきたのか!」
「お帰り!」
「元気だったか!」
新太は、次々に声をかけられた。
「ただいま!」
その声は、旅立つ前と変わらず、よく通った。
やがて、奥から源次が出てきた。
大きな肩、日に焼けた顔、少し白くなった髪。
源次は新太を見ると、しばらく何も言わなかった。
「源次さん」
「……おう」
「帰ってきたよ」
「見れば分かる」
「元気だった?」
「それは、こっちの台詞だ」
源次は新太の肩を、ぽんと叩いた。
「痩せたか?」
「そうかな」
「飯は食っていたのか」
「食べていたよ。文彦さんと、ずいぶんいろいろ食べた」
「そうか」
源次は、今度は私の方を見た。
「久世さん。ご苦労だったな」
「いえ。こちらこそ、お世話になりました」
「新太は、迷惑をかけなかったか」
「それは、もう」
「文彦さん!」
新太が抗議する。
「ははは。冗談だ」
源次は笑った。
私は、その笑い声を聞きながら、ようやく旅が一区切りついたような気がした。
*
その日の夕方、私たちは源次に、宮ノ下で見つけた記録を見せた。
源次は、手帳の写しを一枚ずつ読んでいった。
松風一座。
おふさ。
子供を連れた女。
そして、木彫りの根付。
源次は、しばらく黙っていた。
「この松風一座というのは、わしらの一座かもしれん」
「やはり、そう思われますか」
「昔は、土地によって一座の名前を変えることもあった。世話人が違えば、看板も変わる。松風という名を使ったことは、確かにあった」
「では、宮ノ下に泊まった一座は……」
「わしらだった可能性はある」
「おふさという女性について、何か覚えていませんか」
源次は、目を閉じて考えた。
「ふさ……。そう呼ばれていた女がいたような気もする」
「女役者だったのでしょうか」
「そうだったかもしれん。だが、はっきりとは覚えておらん」
「子供を連れていたという話もあります」
「小さな子供がいたことは覚えている。だが、それが新太だったのか、別の子だったのか……」
源次は、そこで言葉を切った。
「わしが新太を見つけたのは、明治三十七年の春だった。あの子は一人でおった。誰かを探しているようにも見えたが、何も言わんかった」
「そのとき、名前は?」
「新太と、ふさ。その二つが根付に刻まれていた」
「それで、新太と呼ぶことにしたのですね」
「ああ。本人が何と呼ばれていたか分からんかったからな。だが、そこに名前があった。それなら、まずはその名で呼んでやろうと思った」
源次は、新太を見た。
「お前が何者なのか、わしにも分からんかった。ただ、ひとりで置いておくわけにはいかなかった」
新太は、源次の顔を見つめていた。
「源次さん」
「何だ」
「ぼく、ずっと考えていたんだ」
「うん」
「ふさという人が、ぼくのお母さんだったのかもしれない。そう思うと、どんな人だったのか知りたい」
「そうだな」
「でも、源次さんがぼくを見つけてくれたことも、みんなと暮らしてきたことも、なくならないよね」
「当たり前だ」
源次は、短く答えた。
「わしが育てたからといって、お前の生まれた場所まで変わるわけじゃない。だが、お前がここで過ごした年月も、なくなるわけではない」
新太は、うなずいた。
「うん。ぼく、そう思うようになった」
源次は、少しだけ目を細めた。
「それなら、よかった」
それ以上、二人は何も言わなかった。
私は、手帳を閉じた。
ここで聞いた言葉を、私はそのまま記録することにした。
余計な飾りはいらない。
*
夕方になると、一座のみんなが集まってきた。
新太が旅の話をするというのである。
「小田原では、古い写真を見つけたんだよ」
「写真?」
「うん。ガラスの板に写した写真なんだ」
「へえ、そんなものがあるのか」
「それから、新聞も調べた。町役場の古い帳面も見たよ」
「新太が新聞を読むようになったのか」
「読むよ。文彦さんが教えてくれたからね」
「それで、何か分かったのか」
新太は、少し考えてから答えた。
「分かったこともあるし、分からないこともある」
「そうか」
「ぼくの生まれた家のことは、まだ全部は分からない。でも、ふさという人がいたことは分かった」
「そうか」
「その人が、ぼくのお母さんだったのかもしれない」
一座の者たちは、黙って新太の話を聞いていた。
「ぼくは、その人のことを知りたいと思う。でもね、ここで過ごしたことを忘れたいわけじゃないんだ」
「そんなこと、忘れるなよ」
誰かが言った。
「忘れるわけないよ」
新太は笑った。
「初めて舞台に立った日も、転んで源次さんに叱られた日も、雨で興行が中止になって、みんなで団子を食べた日も。ちゃんと覚えているよ」
「お前、あのときは泣いていたじゃないか」
「泣いてないよ」
「泣いてたぞ」
「泣いてないってば!」
みんなが笑った。
源次も笑っていた。
私は、その様子を少し離れたところから見ていた。
新太は、ここにいる。
旅に出る前と同じ場所に、同じ人たちがいる。
だが、同じではない。
新太は、自分の過去を知ろうとして旅に出た。
その旅で、彼は自分が育った場所を、改めて見つめ直したのだ。
そして、それを自分の人生として受け入れようとしている。
*
「さて、飯にするか」
源次がそう言うと、一座の者たちが一斉に動き始めた。
「今日は何だい?」
「大したものはないぞ」
「大したものじゃなくていいよ!」
新太が声を上げた。
「腹が減った!」
「お前は、旅から帰ってきても、それか」
「旅は腹が減るんだよ!」
私は思わず笑ってしまった。
やがて、みんなが集まる場所に、食事が並べられた。
大きな盆に、握り飯が山のように積まれている。
梅干しの入ったもの。
甘辛く煮た昆布を入れたもの。
それから、豆腐とわかめの味噌汁。
湯気が立ち、味噌の香りが広がっていた。
「さあ、食え」
源次が言った。
「いただきます!」
新太は、まず梅干しのおにぎりを手に取った。
一口かじる。
「うまい!」
「当たり前だ。飯を炊いて握っただけだ」
「それがいいんだよ」
新太は、今度は昆布のおにぎりを取った。
「こっちも、うまい!」
「ゆっくり食え。誰も取らん」
「取られる前に食べるんだよ」
「まったく、お前は」
源次は呆れたように笑った。
私は味噌汁を一口すすった。
豆腐の柔らかさと、わかめの香り。温かい汁が、旅の疲れをゆっくりとほどいていく。
特別な料理ではない。
けれど、これほどおいしい食事があるだろうか。
食卓の向こうでは、みんなが話している。
旅の話。
舞台の話。
次の興行の話。
誰かが失敗した話。
新太は、その真ん中にいた。
私は、その光景を眺めていた。
「文彦さん」
新太が、梅干しのおにぎりを持ったまま、こちらを向いた。
「何だ」
「食べないの?」
「食べている」
「もっと食べなよ」
「君ほどではない」
「旅をしたんだから、食べないと」
「それは、君の理屈だろう」
「そうだよ」
新太は笑った。
私は、もう一つおにぎりを取った。
*
食事が終わり、みんなで後片づけをした。
新太は源次のそばに座っていた。
「源次さん」
「何だ」
「ぼく、ありがとうって言いたかったんだ」
「何を今さら」
「今さらでも、言いたかったんだよ」
「そうか」
「ぼくを拾ってくれて、育ててくれて、ありがとう」
源次は、しばらく新太を見ていた。
「礼を言うようなことじゃない」
「でも、ぼくは言いたいんだ」
「そうか」
「みんなにも、ありがとう」
一座の者たちが顔を上げた。
「舞台のことも、旅のことも、いろんなことを教えてくれた。ぼく、ここで過ごした時間が好きだよ」
「お前がいなけりゃ、舞台もつまらんかった」
「そうそう。よく笑わせてくれたからな」
「今だって、よく食うしな」
「それは関係ないだろ!」
また、笑い声が起こった。
源次は、新太の頭に手を置いた。
「これからも、食って、笑って、元気でいろ」
「うん」
「行きたいところがあれば、行けばいい。知りたいことがあれば、調べればいい」
「うん」
「ただし、帰ってくる場所を忘れるな」
新太は、源次の手を見た。
大きく、節くれだった手だった。
小さいころ、人混みの中で握っていた手。
転んだ膝に薬を塗ってくれた手。
雨の日に団子を買ってくれた手。
新太は、その手に自分の手を重ねた。
「忘れないよ」
それだけ言って、笑った。
*
私は、夜遅くまで原稿を書いていた。
机の上には、旅の間に集めた記録が広がっている。
新太の生まれた場所について、分かったことはある。
しかし、すべての答えが見つかったわけではない。
ふさという女性が誰だったのか。
新太がどうして一人になったのか。
その後、彼女がどこへ行ったのか。
今の私には、書けないことが残っている。
だが、書けないことがあるからといって、この旅が無意味だったわけではない。
新太は、自分の過去を知ろうとした。
私は、その姿を見てきた。
そして、彼が帰りたい場所を持っていることを知った。
私は原稿用紙に向かい、書き始めた。
人は、どこで生まれたかだけで、自分のすべてが決まるわけではない。
誰と出会い、誰に育てられ、誰と笑い、誰を思い出すのか。
それもまた、その人の人生をつくっていく。
私は、そこで筆を止めた。
これまで私は、小説を書くために、何か特別な題材を探していた。
尾崎紅葉のような文章を書きたいと思い、立派な物語を作ろうとしていた。
けれど、今は少し違う。
目の前にいる人間の暮らしを、きちんと見ていたい。
その人が何を大切にし、誰に逢いたいと思っているのか。
そこにあるものを、私自身の言葉で書いてみたい。
私は、原稿用紙の一番上に題名を書いた。
『大正の迷ゐ子』
そして、その下に、久世文彦と署名した。
*
翌朝、私は新聞社へ戻る支度をした。
十日間の休暇は、とうに終わりに近づいている。
田辺には、旅の記録を整理してから報告するつもりだった。
新太は、私の荷物を見て言った。
「もう帰るの?」
「ああ。新聞社に戻らなければならない」
「そっか」
「君は、まだ一座と一緒にいるのだろう」
「うん。次の興行もあるからね」
「そうか」
「文彦さん」
「何だ」
「また来てよ」
「もちろんだ」
「今度は取材じゃなくて、遊びに来てね」
「そうだな。今度は、原稿用紙を持たずに来よう」
「約束だよ」
「ああ、約束する」
新太は、いつものように笑った。
私は鞄を持ち、玄関へ向かった。
振り返ると、源次が立っていた。
「久世さん」
「はい」
「新太のこと、よろしく頼む」
「私にできることがあれば」
「いや、もう十分だ。あの子は、自分で歩いていける」
「そうですね」
「また来てくれ。飯くらいは食わせる」
「ありがとうございます」
源次は、少しだけ笑った。
新太が横から口を挟む。
「今度は、もっと大きなおにぎりにしてよ」
「お前は、まだ食うつもりか」
「もちろん!」
みんなが笑った。
私は、その笑い声を背に、歩き始めた。
旅の終わりは、何かを失うことではない。
また逢いたい人がいる。
帰ってくる場所がある。
そして、明日からも続いていく暮らしがある。
新太は、もう迷子ではないのかもしれない。
いや、迷子であっても構わない。
人は、ときどき道に迷う。
知らない町へ行き、知らない人と出会い、自分の知らなかった過去を知る。
それでも、逢いたい人のいる場所へ帰っていける。
私は、そんなことを考えながら、駅へ向かった。
背中の方から、新太の声が聞こえた。
「文彦さん!」
振り返ると、新太が手を振っていた。
「またね!」
「ああ、また!」
私は手を上げて答えた。
そして、今度こそ前を向いた。
帰ったら、田辺に話そう。
旅のことを。
新太のことを。
そして、自分が書こうとしている小説のことを。
私には、まだ書きたいことがある。
明日からも、書いていこう。
そう思った。




