↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/17

第十五話 「ありがとう」を、云いたい日



 箱根の山を下りる朝、私は鞄の中の手帳を確かめた。


 宮ノ下で見つけた古い宿帳の写し。

 松風一座の宿泊記録。

 「ふさ」という名の女性と、子供について記された紙片。

 そして、木彫りの根付を預かったという記録。


 これらを並べれば、一つの出来事が浮かび上がってくる。


 けれど、まだ分からないこともある。


 あの子供が新太だったのか。

 ふさという女性が、新太の母親だったのか。

 なぜ二人は離れ離れになったのか。


 確かなことと、そうでないことを分けておく。


 それが新聞記者の仕事であり、今の私が小説を書くうえで忘れてはならないことでもあった。


「文彦さん、出発するよ」


 新太が駅の方から手を振った。


「ああ、今行く」


「帰るんだね」


「そうだな」


「源次さん、びっくりするかな」


「手紙を出してあるのだから、帰ることは知っているだろう」


「それでも、顔を見たらびっくりするよ」


 新太は、そう言って笑った。


 その顔には、旅に出る前とは違う明るさがあった。


 何かを思い出したからだろうか。

 それとも、何かを知ったからだろうか。


 私には、まだ分からない。


 ただ、新太が帰りたい場所を見つけていることだけは分かった。


     *


 小田原へ戻る列車の中で、新太は窓の外を眺めていた。


 山の景色が遠ざかり、やがて町の家並みが見えてくる。


「文彦さん」


「何だ」


「ぼくの名前、どうして新太なんだろうね」


「根付に刻まれていたからだろう」


「うん。でも、ふさという名前も一緒に刻まれていた」


「そうだな」


「やっぱり、あの人は、ぼくのことを知っていたんだろうね」


「その可能性は高いと思う」


「お母さんだったのかな」


 私は、すぐには答えなかった。


「そうかもしれない。けれど、今の記録だけでは断定できない」


「うん」


「君が知りたいと思う気持ちは分かる。しかし、分からないことを、分かったように書くわけにはいかない」


「文彦さんらしいね」


「どういう意味だ」


「新聞記者だなあ、と思って」


 新太は笑った。


「でも、ぼくは、あの人のことを知りたいと思うよ。もしお母さんだったら、どんな人だったのかなって」


「そうだな」


「会ってみたかったな」


 その言葉は、寂しそうではあったが、悲しみに沈んではいなかった。


 私は、窓の外に目を向けた。


 新太の過去には、まだ空白が残っている。


 しかし、空白があるからといって、彼の人生が欠けているわけではない。


     *


 小田原の町に戻ると、私たちはまず、宿へ荷物を置いた。


 それから、源次の一座が興行をしている場所へ向かった。


 遠くから、太鼓の音が聞こえる。


 見慣れた幟が風にはためいていた。


 新太は歩く速度を少しだけ速めた。


「源次さん!」


 先に気づいたのは、一座の若い男だった。


「おう、新太じゃないか!」


 その声に、何人かが振り返る。


「帰ってきたのか!」


「お帰り!」


「元気だったか!」


 新太は、次々に声をかけられた。


「ただいま!」


 その声は、旅立つ前と変わらず、よく通った。


 やがて、奥から源次が出てきた。


 大きな肩、日に焼けた顔、少し白くなった髪。


 源次は新太を見ると、しばらく何も言わなかった。


「源次さん」


「……おう」


「帰ってきたよ」


「見れば分かる」


「元気だった?」


「それは、こっちの台詞だ」


 源次は新太の肩を、ぽんと叩いた。


「痩せたか?」


「そうかな」


「飯は食っていたのか」


「食べていたよ。文彦さんと、ずいぶんいろいろ食べた」


「そうか」


 源次は、今度は私の方を見た。


「久世さん。ご苦労だったな」


「いえ。こちらこそ、お世話になりました」


「新太は、迷惑をかけなかったか」


「それは、もう」


「文彦さん!」


 新太が抗議する。


「ははは。冗談だ」


 源次は笑った。


 私は、その笑い声を聞きながら、ようやく旅が一区切りついたような気がした。


     *


 その日の夕方、私たちは源次に、宮ノ下で見つけた記録を見せた。


 源次は、手帳の写しを一枚ずつ読んでいった。


 松風一座。

 おふさ。

 子供を連れた女。

 そして、木彫りの根付。


 源次は、しばらく黙っていた。


「この松風一座というのは、わしらの一座かもしれん」


「やはり、そう思われますか」


「昔は、土地によって一座の名前を変えることもあった。世話人が違えば、看板も変わる。松風という名を使ったことは、確かにあった」


「では、宮ノ下に泊まった一座は……」


「わしらだった可能性はある」


「おふさという女性について、何か覚えていませんか」


 源次は、目を閉じて考えた。


「ふさ……。そう呼ばれていた女がいたような気もする」


「女役者だったのでしょうか」


「そうだったかもしれん。だが、はっきりとは覚えておらん」


「子供を連れていたという話もあります」


「小さな子供がいたことは覚えている。だが、それが新太だったのか、別の子だったのか……」


 源次は、そこで言葉を切った。


「わしが新太を見つけたのは、明治三十七年の春だった。あの子は一人でおった。誰かを探しているようにも見えたが、何も言わんかった」


「そのとき、名前は?」


「新太と、ふさ。その二つが根付に刻まれていた」


「それで、新太と呼ぶことにしたのですね」


「ああ。本人が何と呼ばれていたか分からんかったからな。だが、そこに名前があった。それなら、まずはその名で呼んでやろうと思った」


 源次は、新太を見た。


「お前が何者なのか、わしにも分からんかった。ただ、ひとりで置いておくわけにはいかなかった」


 新太は、源次の顔を見つめていた。


「源次さん」


「何だ」


「ぼく、ずっと考えていたんだ」


「うん」


「ふさという人が、ぼくのお母さんだったのかもしれない。そう思うと、どんな人だったのか知りたい」


「そうだな」


「でも、源次さんがぼくを見つけてくれたことも、みんなと暮らしてきたことも、なくならないよね」


「当たり前だ」


 源次は、短く答えた。


「わしが育てたからといって、お前の生まれた場所まで変わるわけじゃない。だが、お前がここで過ごした年月も、なくなるわけではない」


 新太は、うなずいた。


「うん。ぼく、そう思うようになった」


 源次は、少しだけ目を細めた。


「それなら、よかった」


 それ以上、二人は何も言わなかった。


 私は、手帳を閉じた。


 ここで聞いた言葉を、私はそのまま記録することにした。


 余計な飾りはいらない。


     *


 夕方になると、一座のみんなが集まってきた。


 新太が旅の話をするというのである。


「小田原では、古い写真を見つけたんだよ」


「写真?」


「うん。ガラスの板に写した写真なんだ」


「へえ、そんなものがあるのか」


「それから、新聞も調べた。町役場の古い帳面も見たよ」


「新太が新聞を読むようになったのか」


「読むよ。文彦さんが教えてくれたからね」


「それで、何か分かったのか」


 新太は、少し考えてから答えた。


「分かったこともあるし、分からないこともある」


「そうか」


「ぼくの生まれた家のことは、まだ全部は分からない。でも、ふさという人がいたことは分かった」


「そうか」


「その人が、ぼくのお母さんだったのかもしれない」


 一座の者たちは、黙って新太の話を聞いていた。


「ぼくは、その人のことを知りたいと思う。でもね、ここで過ごしたことを忘れたいわけじゃないんだ」


「そんなこと、忘れるなよ」


 誰かが言った。


「忘れるわけないよ」


 新太は笑った。


「初めて舞台に立った日も、転んで源次さんに叱られた日も、雨で興行が中止になって、みんなで団子を食べた日も。ちゃんと覚えているよ」


「お前、あのときは泣いていたじゃないか」


「泣いてないよ」


「泣いてたぞ」


「泣いてないってば!」


 みんなが笑った。


 源次も笑っていた。


 私は、その様子を少し離れたところから見ていた。


 新太は、ここにいる。


 旅に出る前と同じ場所に、同じ人たちがいる。


 だが、同じではない。


 新太は、自分の過去を知ろうとして旅に出た。


 その旅で、彼は自分が育った場所を、改めて見つめ直したのだ。


 そして、それを自分の人生として受け入れようとしている。


     *


「さて、飯にするか」


 源次がそう言うと、一座の者たちが一斉に動き始めた。


「今日は何だい?」


「大したものはないぞ」


「大したものじゃなくていいよ!」


 新太が声を上げた。


「腹が減った!」


「お前は、旅から帰ってきても、それか」


「旅は腹が減るんだよ!」


 私は思わず笑ってしまった。


 やがて、みんなが集まる場所に、食事が並べられた。


 大きな盆に、握り飯が山のように積まれている。


 梅干しの入ったもの。

 甘辛く煮た昆布を入れたもの。


 それから、豆腐とわかめの味噌汁。


 湯気が立ち、味噌の香りが広がっていた。


「さあ、食え」


 源次が言った。


「いただきます!」


 新太は、まず梅干しのおにぎりを手に取った。


 一口かじる。


「うまい!」


「当たり前だ。飯を炊いて握っただけだ」


「それがいいんだよ」


 新太は、今度は昆布のおにぎりを取った。


「こっちも、うまい!」


「ゆっくり食え。誰も取らん」


「取られる前に食べるんだよ」


「まったく、お前は」


 源次は呆れたように笑った。


 私は味噌汁を一口すすった。


 豆腐の柔らかさと、わかめの香り。温かい汁が、旅の疲れをゆっくりとほどいていく。


 特別な料理ではない。


 けれど、これほどおいしい食事があるだろうか。


 食卓の向こうでは、みんなが話している。


 旅の話。

 舞台の話。

 次の興行の話。

 誰かが失敗した話。


 新太は、その真ん中にいた。


 私は、その光景を眺めていた。


「文彦さん」


 新太が、梅干しのおにぎりを持ったまま、こちらを向いた。


「何だ」


「食べないの?」


「食べている」


「もっと食べなよ」


「君ほどではない」


「旅をしたんだから、食べないと」


「それは、君の理屈だろう」


「そうだよ」


 新太は笑った。


 私は、もう一つおにぎりを取った。


     *


 食事が終わり、みんなで後片づけをした。


 新太は源次のそばに座っていた。


「源次さん」


「何だ」


「ぼく、ありがとうって言いたかったんだ」


「何を今さら」


「今さらでも、言いたかったんだよ」


「そうか」


「ぼくを拾ってくれて、育ててくれて、ありがとう」


 源次は、しばらく新太を見ていた。


「礼を言うようなことじゃない」


「でも、ぼくは言いたいんだ」


「そうか」


「みんなにも、ありがとう」


 一座の者たちが顔を上げた。


「舞台のことも、旅のことも、いろんなことを教えてくれた。ぼく、ここで過ごした時間が好きだよ」


「お前がいなけりゃ、舞台もつまらんかった」


「そうそう。よく笑わせてくれたからな」


「今だって、よく食うしな」


「それは関係ないだろ!」


 また、笑い声が起こった。


 源次は、新太の頭に手を置いた。


「これからも、食って、笑って、元気でいろ」


「うん」


「行きたいところがあれば、行けばいい。知りたいことがあれば、調べればいい」


「うん」


「ただし、帰ってくる場所を忘れるな」


 新太は、源次の手を見た。


 大きく、節くれだった手だった。


 小さいころ、人混みの中で握っていた手。

 転んだ膝に薬を塗ってくれた手。

 雨の日に団子を買ってくれた手。


 新太は、その手に自分の手を重ねた。


「忘れないよ」


 それだけ言って、笑った。


     *


 私は、夜遅くまで原稿を書いていた。


 机の上には、旅の間に集めた記録が広がっている。


 新太の生まれた場所について、分かったことはある。


 しかし、すべての答えが見つかったわけではない。


 ふさという女性が誰だったのか。

 新太がどうして一人になったのか。

 その後、彼女がどこへ行ったのか。


 今の私には、書けないことが残っている。


 だが、書けないことがあるからといって、この旅が無意味だったわけではない。


 新太は、自分の過去を知ろうとした。


 私は、その姿を見てきた。


 そして、彼が帰りたい場所を持っていることを知った。


 私は原稿用紙に向かい、書き始めた。


 人は、どこで生まれたかだけで、自分のすべてが決まるわけではない。


 誰と出会い、誰に育てられ、誰と笑い、誰を思い出すのか。


 それもまた、その人の人生をつくっていく。


 私は、そこで筆を止めた。


 これまで私は、小説を書くために、何か特別な題材を探していた。


 尾崎紅葉のような文章を書きたいと思い、立派な物語を作ろうとしていた。


 けれど、今は少し違う。


 目の前にいる人間の暮らしを、きちんと見ていたい。


 その人が何を大切にし、誰に逢いたいと思っているのか。


 そこにあるものを、私自身の言葉で書いてみたい。


 私は、原稿用紙の一番上に題名を書いた。


 『大正の迷ゐ子』


 そして、その下に、久世文彦と署名した。


     *


 翌朝、私は新聞社へ戻る支度をした。


 十日間の休暇は、とうに終わりに近づいている。


 田辺には、旅の記録を整理してから報告するつもりだった。


 新太は、私の荷物を見て言った。


「もう帰るの?」


「ああ。新聞社に戻らなければならない」


「そっか」


「君は、まだ一座と一緒にいるのだろう」


「うん。次の興行もあるからね」


「そうか」


「文彦さん」


「何だ」


「また来てよ」


「もちろんだ」


「今度は取材じゃなくて、遊びに来てね」


「そうだな。今度は、原稿用紙を持たずに来よう」


「約束だよ」


「ああ、約束する」


 新太は、いつものように笑った。


 私は鞄を持ち、玄関へ向かった。


 振り返ると、源次が立っていた。


「久世さん」


「はい」


「新太のこと、よろしく頼む」


「私にできることがあれば」


「いや、もう十分だ。あの子は、自分で歩いていける」


「そうですね」


「また来てくれ。飯くらいは食わせる」


「ありがとうございます」


 源次は、少しだけ笑った。


 新太が横から口を挟む。


「今度は、もっと大きなおにぎりにしてよ」


「お前は、まだ食うつもりか」


「もちろん!」


 みんなが笑った。


 私は、その笑い声を背に、歩き始めた。


 旅の終わりは、何かを失うことではない。


 また逢いたい人がいる。

 帰ってくる場所がある。

 そして、明日からも続いていく暮らしがある。


 新太は、もう迷子ではないのかもしれない。


 いや、迷子であっても構わない。


 人は、ときどき道に迷う。

 知らない町へ行き、知らない人と出会い、自分の知らなかった過去を知る。


 それでも、逢いたい人のいる場所へ帰っていける。


 私は、そんなことを考えながら、駅へ向かった。


 背中の方から、新太の声が聞こえた。


「文彦さん!」


 振り返ると、新太が手を振っていた。


「またね!」


「ああ、また!」


 私は手を上げて答えた。


 そして、今度こそ前を向いた。


 帰ったら、田辺に話そう。


 旅のことを。

 新太のことを。

 そして、自分が書こうとしている小説のことを。


 私には、まだ書きたいことがある。


 明日からも、書いていこう。


 そう思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。