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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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エピローグ 



大正十年、秋。


私は、久しぶりに芝居小屋へ足を運んだ。


町では、このところ評判になっている旅芸人の一座があるという。


演目は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』。


あの長大な物語を、旅芸人の一座が舞台にかけるというのだから、なかなか大胆な話である。


しかも、評判がよい。


新聞記者としてなら、どんな工夫をしているのか、誰が脚本をまとめたのか、どこで興行をしてきたのか、いろいろと尋ねてみたいところだ。


だが、今日は取材ではない。


私は、ただ芝居を見に来たのである。


木戸をくぐると、客席はすでに大勢の人で埋まっていた。


子供たちの声が聞こえ、年配の男たちは、これから始まる芝居についてあれこれ話している。


私は空いている席を見つけ、腰を下ろした。


やがて、太鼓が鳴った。


幕が上がる。


八犬士が登場すると、客席から小さなどよめきが起こった。


衣装も立派だ。大きな舞台装置こそないが、見せ場を心得た演出で、役者たちの動きにも勢いがある。


それに、台詞がよい。


難しい物語を、客に分かるように見せる工夫が随所にある。


私は、いつの間にか身を乗り出していた。


あの一座は、こんな芝居をするようになったのか。


舞台の上では、役者たちが懸命に演じている。


一人ひとりの動きに無駄がなく、台詞の受け渡しも気持ちよい。客席の笑いが起きるところでは、役者もまた楽しそうに演じている。


私は、ふと、あの日の芝居小屋を思い出した。


春の興行。


初めて見た一座の芝居。


舞台の上で、ひときわ生き生きと動いていた青年。


朝倉新太。


私の大親友である。


あれから、ずいぶん時間が経ったような気もするし、つい昨日のことのようにも思える。


あの青年は、今も舞台に立っているのだろうか。


そう思いながら、私は舞台を眺めた。


八犬士が勢ぞろいする場面では、客席から大きな拍手が起こった。


私も、思わず手を叩いた。


面白い。


実に面白い芝居だった。


幕が下りると、客席は拍手と歓声に包まれた。


私は立ち上がり、周囲の人々に混じって出口へ向かった。


舞台裏へ回れば、新太に会えるかもしれない。


声をかければ、きっと、あの調子で笑うだろう。


「文彦さん、また来たんですか」


そんな声が聞こえてくるような気もする。


けれど、私はそのまま帰ることにした。


今日は、観客として芝居を見に来たのだ。


それで十分だった。


外へ出ると、秋の風が吹いていた。


私は歩きながら、もう一度、芝居の場面を思い返した。


八犬士の勇ましい姿。

役者たちの声。

客席の笑い。

幕が下りたときの拍手。


そして、あの青年の笑顔。


元気にやっているのだろう。


きっと、相変わらず舞台の上で、客を笑わせているに違いない。


そう考えると、なんだか嬉しくなった。


私は懐に手を入れ、手帳を確かめた。


そこには、あの旅の記録が残っている。


新太と歩いた道。

訪ねた町。

聞いた話。

一緒に食べたもの。

そして、帰る場所のこと。


あの旅で、私は小説を書き上げた。


けれど、書き終えたからといって、あの時間が終わったわけではない。


友人というものは、毎日顔を合わせなくても、友人でいられるものらしい。


私は、少しだけ笑った。


「おもしろい芝居だったな」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。


秋の夕暮れの道を、私はゆっくり歩いていった。


明日も新聞社へ行く。

記事を書き、取材をし、いつもの仕事をする。


そして、いつかまた、何かを書くだろう。


小説家への道は、まだ始まったばかりである。


それでも、今の私は、以前より少しだけ、自分の書くものを信じられる気がしていた。

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