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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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第十四話 宮ノ下に残された手紙



 強羅の朝は、少しばかり肌寒かった。


 窓を開けると、山の空気が部屋の中へ流れ込んでくる。春とはいえ、山の朝は町より冷える。昨夜のうちに降った雨のせいか、木々の葉には小さな水滴が残っていた。


 私は荷物をまとめながら、机の上に広げた手帳を眺めていた。


 小田原で見つけた新聞広告。

 片岡写真館に残されていた帳面。

 松風一座の興行願。

 そして、強羅の宿で聞いた、山道で子供がいなくなったという話。


 どれも新太の過去につながっているように思える。


 しかし、似ているというだけで、同じ出来事だと決めつけるわけにはいかない。


 新聞記者という仕事をしていると、つくづく思う。


 人間は、断片的な事実を並べると、その間を自分の想像で埋めたくなるものだ。


 私も例外ではない。


「文彦さん、まだ?」


 戸口から新太が顔を出した。


「もう少しだ」


「さっきから、ずっと手帳を見てるね」


「記者というものは、記録を眺めるのが仕事なのだ」


「へえ。じゃあ、旅館の朝飯を食べるのも仕事?」


「それは仕事ではない」


「残念だなあ」


 新太は笑った。


 この男は、どんな場所でも腹が減るらしい。


 だが、そういうところがいい。


 過去を探す旅に出たからといって、毎日を難しい顔で過ごす必要はないのである。


「さあ、行こう。今日は宮ノ下だ」


「うん。何か見つかるといいね」


 新太はそう言って、先に階段を下りていった。


 私は手帳を閉じ、鞄にしまった。


 さて、宮ノ下である。


 箱根の山中にあるこの地は、古くから湯治場として知られていた。山道を行き交う旅人が休み、湯に浸かり、疲れを癒やす場所である。


 明治になってからは外国人の姿も見られるようになり、宿場の町とはまた違った賑わいを見せていた。


 もっとも、我々が訪ねるのは観光案内ではない。


 明治三十七年の春、松風一座がこのあたりを通ったのかどうか。そして、「おふさ」という女が、そこにいたのかどうか。


 それを確かめるためだった。


     *


 宮ノ下に着くと、私たちは古い旅館を訪ねた。


 強羅で紹介された宿である。


 玄関には、長い年月を経た木の柱があり、磨かれた板敷きには、宿の人々の暮らしが染み込んでいるようだった。


 出迎えてくれたのは、五十代半ばの主人だった。


 名を、**山本徳次郎**という。


 背はそれほど高くないが、がっしりした体つきで、日に焼けた顔には穏やかな表情があった。祖父の代からこの宿を営んでいるという。


「強羅の宿の方から、お話は伺っております」


 徳次郎は、私たちを帳場の奥へ案内した。


「昔の帳面を調べたいとか」


「はい。明治三十七年の春ごろです。旅芸人の一座が、このあたりに滞在した記録がないかと思いまして」


「明治三十七年ですか。ずいぶん古い話ですな」


「ええ。無理を承知でお願いしております」


「いやいや、探してみましょう。祖父は帳面を捨てない人でしたから」


 徳次郎は奥の物置から、何冊かの帳面を持ってきた。


 表紙は擦り切れ、背の糸も緩んでいる。中には、宿泊客の名前や人数、泊まった日数などが、筆で細かく書かれていた。


 私は一冊ずつ、慎重にページをめくった。


 新太も隣から覗き込んでいる。


「文彦さん、これ、何て書いてあるの?」


「宿泊した人の名前だ。こちらは人数、こちらは泊まった日数だろう」


「昔の人も、ちゃんと帳面をつけていたんだね」


「宿というものは、昔から記録が大切なのだろう」


 やがて、明治三十七年三月の帳面に行き当たった。


 私は指先で日付を追った。


 そして、一つの記載に目が止まった。


 ――松風一座。


 その横には、宿泊人数と三泊という文字があった。


「ありました」


 私は思わず声を上げた。


 新太が身を乗り出す。


「松風一座?」


「ああ。小田原の役場で見た興行願と同じ名前だ」


「じゃあ、源次さんの一座なの?」


「まだ分からない。同じ名前の一座が、別にあった可能性もある」


 私は徳次郎に尋ねた。


「この松風一座について、何かお聞きになったことはありませんか」


 徳次郎は帳面を覗き込んだ。


「祖父から、旅芸人が泊まった話は聞いたことがあります。芝居をする人たちだったとか。子供も一緒だったそうです」


「子供ですか」


「ええ。小さな子供がいたと」


 新太は黙って帳面を見つめていた。


「その子供について、何か詳しい話は?」


「そこまでは聞いておりません。ただ……」


 徳次郎は少し考えた。


「祖父は、女の人のことを話していたことがあります」


「女の人?」


「ええ。おふさという名前だったかもしれません」


 私は手帳を開いた。


 新聞広告にあった「女役者 おふさ」。写真館の帳面にあった「ふさ」。そして、今度は宮ノ下の宿帳である。


「その女性は、一座の人だったのでしょうか」


「そこは分かりません。祖父の話では、子供を連れていたそうです」


 新太が尋ねた。


「その子供は、男の子だったんですか?」


「さあ、そこまでは。祖父も、ずいぶん昔の話としてしていましたから」


 私は一つずつ、確認するように質問を続けた。


 女性が一人で来たのか。

 誰かと一緒だったのか。

 いつ帰ったのか。

 子供の名前は何だったのか。


 しかし、徳次郎の答えは、どれも曖昧だった。


 祖父が亡くなってから、すでに何年も経っている。話を聞いた本人がいない以上、確かめる方法も限られていた。


 それでも、帳面に残された文字は、確かなものだった。


 松風一座が、明治三十七年三月、この宿に泊まった。


 そして、宿の家に伝わる話には、「おふさ」と呼ばれた女性と、小さな子供が登場する。


 それ以上でも、それ以下でもない。


     *


 調べものは、思いがけないところから進むことがある。


 徳次郎が古い帳面を片づけようとしたとき、奥の棚から一冊の小さな帳面を取り出した。


「こちらは、宿泊帳とは別のものです」


「何の帳面でしょう」


「忘れ物や、預かり物を書いたものです。昔は、旅人が物を忘れていくことも多かったようで」


 私はその帳面を受け取った。


 ページを開くと、日付と品物の名前が並んでいる。


 手ぬぐい、煙管、櫛、風呂敷、煙草入れ。


 その中に、気になる記載があった。


 明治三十七年三月。


 ――木彫りの根付 一つ。


 私は息を止めた。


「徳次郎さん。この根付について、何か分かりますか」


「根付ですか。さて、どうでしょう」


「預けた人の名前は?」


 徳次郎は帳面を近づけた。


 そこには、小さな文字でこう記されていた。


 ――ふさ。


 私は新太を見た。


 新太も、私を見ていた。


「文彦さん……」


「ああ」


 私は、鞄の中から新太の根付を取り出した。


 小さな木彫りの根付。


 そこには、二つの名前が刻まれている。


 新太。


 ふさ。


「これと同じものかどうか、分かりますか」


 徳次郎は根付を手に取り、表と裏を確かめた。


「似たようなものだったかもしれません。ただ、帳面には形も彫りも書いてありませんから、同じものだとは言えませんな」


「預けた後、どうなったのでしょう」


「そこが分からないのです。受け取りに来た人の名前が残っていません」


 私は帳面の次のページをめくった。


 そこには、短い書き込みがあった。


 ――持ち主、後日来訪のこと。


 しかし、その後の記載はない。


「後日、取りに来る予定だったということでしょうか」


「そうでしょうな。けれど、実際に来たかどうかまでは」


 徳次郎は首を横に振った。


 新太は根付を受け取り、しばらく眺めていた。


「ぼくの根付と、同じものだったらいいのにね」


「そうだな」


「でも、違うかもしれない」


「そうだ」


 新太は、根付を掌の上で転がした。


「何だか、少し近づいた気がするよ」


 私はその言葉を手帳に書き留めた。


     *


 徳次郎は、さらに古い書類を探してくれた。


 その中から、祖父が書き残したらしい紙片が見つかった。


 宿帳とは違い、走り書きのような文字だった。


 日付は明治三十七年三月。


 そこには、こう書かれていた。


 ――ふさという女、子供を連れて来る。

 ――一座の者と話をしていた。

 ――帰りには子供の姿なし。

 ――女は急いで山を下りたと聞く。


 私は何度も読み返した。


「これは……」


 徳次郎も、驚いたように紙片を見つめている。


「祖父の字だと思います。けれど、何を見て書いたのかまでは分かりません」


「女の人が、子供を連れて来た。そして、帰りには子供がいなかった」


「そう読めますな」


「子供を誰かに預けたのでしょうか」


「そこまでは書いてありません」


 私は紙片を机の上に置いた。


 新太は、しばらく黙っていた。


 それから、静かに尋ねた。


「文彦さん。ぼくは、この子供だったのかな」


「可能性はある」


「でも、まだ分からないんだね」


「ああ。君の名前が書かれているわけではない。年齢も、性別も記されていない」


「そっか」


 新太は、少しだけ笑った。


「でも、何もなかったわけじゃないんだね」


 私は返事をしなかった。


 この紙片は、確かに新しい手掛かりだった。


 しかし、ここに書かれていることだけで、新太の身に何が起きたのかを断定することはできない。


 女が子供を連れて来た。

 一座の者と話をした。

 帰りには子供の姿がなかった。

 女は急いで山を下りたと聞く。


 その間に何があったのか。


 誰が子供を連れて行ったのか。


 女は子供を探していたのか、それとも、何か別の事情があったのか。


 紙片は答えを与えてくれるのではなく、新しい問いを残していた。


     *


 宿を出るころには、午後の日差しが山の斜面に差し込んでいた。


 私たちは道端の茶店に入り、温かい茶を頼んだ。


 新太は、茶を一口飲んでから言った。


「文彦さん」


「何だ」


「ぼく、少し思ったんだけど」


「うん」


「もし、その女の人が、ぼくのお母さんだったとしても、ぼくは源次さんとの思い出を忘れたくない」


「忘れなくていい」


「うん。どっちも、ぼくの過去なんだよね」


「ああ」


「生まれたところも、育ったところも、どっちも自分のことだものね」


 私は、茶碗を置いた。


 新太は、窓の外を眺めていた。


 山の向こうに、春の空が広がっている。


「源次さん、元気かな」


「元気だろう。あの人は、そう簡単に参る人ではない」


「そうだね。きっと、みんなに小言を言ってるよ」


「君にも言っていたな」


「ぼくは、よく叱られたからね」


 新太は笑った。


 その笑顔を見て、私は思った。


 この旅で、新太は自分の過去を探してきた。


 けれど、彼が探していたのは、ただ生まれた場所の名前ではなかったのかもしれない。


 自分が誰で、誰と生きてきたのか。


 そして、これから誰に逢いに行きたいのか。


 それを確かめる旅でもあったのだろう。


     *


 宿に戻ると、私は机に向かった。


 今日見つかった記録を、手帳に整理する。


 明治三十七年三月、宮ノ下の宿に松風一座が宿泊した。


 同じ時期、「ふさ」という女性が子供を連れて来たという記録がある。


 その女性は一座の者と話をしていたらしい。


 後日、子供の姿が見えなくなり、女性は山を下りたと伝えられている。


 木彫りの根付が一つ、宿に預けられた記録もある。預けた人物は「ふさ」と記されている。


 しかし、根付が新太のものと同じかどうかは不明。


 子供が新太だったという証拠もない。


 私は、最後に一行を書き加えた。


 ――これらの記録が、同じ出来事を示しているのか。さらに確認を要する。


 筆を置く。


 私は窓の外を見た。


 新太は、手紙を書いていた。


 源次に宛てたものだろう。


 時折、書く手を止めては、何かを考えている。


「新太」


「なに?」


「源次さんに、何を書いているんだ」


「今日見つけたこと。それから、強羅で思い出したことも」


「そうか」


「あとね」


「うん?」


「早く帰って、みんなに逢いたいって」


 新太は、少し照れたように笑った。


「旅に出る前は、自分のことを知りたいと思っていたんだけどね。今は、逢いたい人がいるんだ」


 私は、その言葉を聞いて、胸の中で何かが静かに動くのを感じた。


 作家になりたいと思っていた私は、これまで物語とは、何か特別な出来事を書くものだと考えていた。


 人が生まれ、運命に翻弄され、苦しみ、最後に何かを得る。


 そうした大きな筋書きこそが、小説になるのだと思っていた。


 しかし、目の前の新太は違う。


 過去を知りたいと願いながら、今ある暮らしを大切にしている。


 自分の生まれた場所を探しながら、育ててくれた人のところへ帰ろうとしている。


 それは、決して矛盾ではない。


 人の人生は、一つの出来事だけでできているのではないのだ。


「文彦さん」


「何だ」


「明日、もう一度、確認しよう」


「ああ。最後まで調べよう」


「それが済んだら、帰ろうね」


「そうだな」


 新太は手紙を折り、封筒にしまった。


 私は机の上の原稿用紙を引き寄せた。


 そして、今日の出来事を書き始めた。


 宮ノ下で見つかったのは、古い帳面と、一枚の紙片だった。


 そこに記されていたのは、まだ確かな答えではない。


 けれど、誰かが誰かを探していたこと。

 誰かが、子供の行方を気にかけていたこと。

 そして、長い年月を経ても、記録が残っていたこと。


 それだけは、確かだった。


 明日は、最後の確認をする。


 新太の過去に、どんな名前が刻まれているのか。


 そして、私たちは誰に逢いに帰るのか。


 その答えは、もうすぐそこまで来ているように思えた。


 窓の外では、山の夕暮れが静かに深まっていた。

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