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『大正の迷ゐ子』  作者: 久世 文彦


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第十二話 舞台の向こう



 小田原に来てから、何日が過ぎただろう。


 私たちは、古い帳面や写真、新聞記事を手掛かりに、明治三十七年の春を追いかけていた。


 松風一座。


 興行主、松吉。


 女役者、おふさ。


 それぞれの名前は、別々の場所に残されていた。


 役場の興行願綴。写真館の帳面。地方新聞の広告。そして、松吉の旧住所に残されていた商家の記録。


 それらが同じ一座を指している可能性は高まっている。


 しかし、源次の一座と松風一座が同じだったという証拠は、まだなかった。


 その日の朝、私たちは、前日に教えてもらった人物を訪ねることにした。


 名前は、高瀬徳蔵。


 七十を過ぎた老人で、若い頃から芝居や興行に関する古い資料を集めているという。


 もちろん、明治三十七年当時のことを直接知っているわけではない。


 だが、父親や祖父から聞いた話、古い芝居番付、興行の記録などを、長年にわたって調べてきたらしい。


 こういう人に会うとき、新聞記者としては少し緊張する。


 こちらが知らないことを、相手は何十年も調べているかもしれないからだ。


 もっとも、新太はそんなことを気にしていない。


「おはようございます!」


 案内された家の戸口で、彼は元気よく挨拶した。


 中から現れた老人は、白い髭を短く整え、背筋を伸ばしていた。


「はいはい。高瀬はわしですが」


「突然お邪魔して申し訳ありません。私、地方新聞の記者をしております久世と申します。こちらは朝倉新太です」


「どうも」


 新太が頭を下げる。


「松風一座という旅芸人の一座について、調べておりまして」


「松風一座?」


 高瀬老人の目が、少し動いた。


「明治三十七年の春に、小田原で興行していたようなのです」


「明治三十七年か。ずいぶん古い話だな」


「はい。役場の記録にも、その名前が残っていました」


 私は、写しを差し出した。


 高瀬老人は眼鏡をかけ、紙面をゆっくりと読んだ。


「松吉……おふさ……。なるほどな」


「何か、ご存じでしょうか」


「松風一座という名前は、聞いたことがある」


「本当ですか」


「ただし、ひとつ気をつけた方がいい」


「と申しますと?」


「旅芸人の一座というのは、いつも同じ名前を名乗っていたとは限らん。興行する土地や、世話をする人間によって、呼び名が変わることもある」


「昨日も、似たような話を聞きました」


「そうだろう。だから、松風一座という名前だけで、同じ一座だと決めてはいかん」


 私は手帳を開いた。


「では、松風一座について、ほかに記録は残っていないのでしょうか」


「ちょっと待ちなさい」


 高瀬老人は奥へ入っていった。


 しばらくすると、古い木箱を抱えて戻ってきた。


 箱の中には、紙の束や、芝居の番付らしきものが入っていた。


「これが、昔から集めていたものだ。大したものではないがね」


 そう言って、一枚の紙を取り出した。


 それは、芝居の番付だった。


 色はすっかり褪せているが、役者の名前や演目が記されている。


「これは、明治三十年代のものだ」


 高瀬老人は、紙の端を押さえた。


「ここを見なさい」


 そこには、松風一座の文字があった。


 私は、思わず身を乗り出した。


「松風一座ですね」


「そうだ。こちらは、明治三十七年の春頃のものだと聞いている」


「この番付は、どこで手に入れられたのですか」


「昔、芝居小屋をやっていた家から譲り受けた。正確な場所は、もう記憶が曖昧だがね」


 高瀬老人は、番付の別の部分を指した。


「この名前を見てごらん」


 そこには、おふさ、と書かれていた。


「おふさ……」


 新太が小さく声を出した。


「役者の名前ですか」


「そうだろうな。女役者として出ている」


「写真館の帳面にも、ふさという名前がありました」


「同じ人物かもしれん。しかし、そこはまだ分からん」


 私は、その言葉を聞いて、手帳に書き留めた。


「この一座は、小田原のあと、どこへ行ったのでしょう」


「興行は一か所で終わるものではない。町を移りながら、芝居を続ける。次の場所は、箱根方面だったという話を聞いたことがある」


「箱根ですか」


「湯本の方だったかな。旅館や湯宿に泊まる客を相手に、興行をした一座もあった」


「松風一座が、箱根へ行ったという記録はありますか」


「この番付だけでは、そこまでは分からん」


 高瀬老人は、木箱の中をもう一度探した。


「ただ、昔の興行のことなら、湯本の旅館に古い記録が残っているかもしれん。旅芸人が泊まった宿なら、何か書き残している可能性もある」


「なるほど」


「小田原から箱根へ向かった一座は、珍しくなかったからな」


 私は、すぐに地図を取り出した。


 小田原から箱根湯本までは、そう遠くない。


 だが、私たちがそこへ向かう理由は、単に近いからではない。


 明治三十七年の春、松風一座が小田原で興行していた可能性があり、その一座が箱根方面へ移動したという話がある。


 次の手掛かりを探す場所としては、十分に意味があった。


「高瀬さん、ありがとうございました」


「いやいや。古い話を聞いてくれる人がいるのは、こちらも嬉しいものだ」


 高瀬老人は、番付を丁寧に箱へ戻した。


「しかし、君たちはどうして、そんな昔の一座を調べているんだね」


 私は、新太を見た。


 新太は少し考えたあと、自分で答えた。


「ぼくが、小さい頃に旅芸人の一座にいたんです」


「ほう」


「その一座にいた頃のことを、調べているんです」


 高瀬老人は、新太の顔を見た。


「そうか。何か分かるといいな」


「ありがとうございます」


 新太は、いつもの明るい顔で頭を下げた。


     *


 高瀬老人の家を出たあと、私たちは近くの古い芝居小屋の跡地を訪ねた。


 建物はもう残っていない。


 そこには、別の建物が建っていた。


 ただ、道の曲がり方や、周囲の家並みには、昔の面影が残っているようにも思えた。


「ここで芝居をしていたんだね」


 新太が、何もない場所を見つめた。


「ああ。高瀬さんの話では、このあたりに芝居小屋があったらしい」


「どんな舞台だったんだろう」


「さあな。大きな劇場ではなかったのかもしれない」


「源次さんたちも、こういうところで芝居をしたのかな」


「そうかもしれない」


 新太は、少し笑った。


「ぼく、舞台に出るのが好きだったんだ」


「そうなのか」


「うん。小さい頃は、何をしているのか、よく分かっていなかったけどね。みんなが舞台に出るから、自分も出るんだと思ってた」


「どんな芸をしたんだ」


「最初は、ただ走り回るだけだったよ」


「それも芸なのか」


「失礼だなあ。ちゃんと役があったんだよ」


 新太は笑いながら、舞台のあった場所を歩いた。


「一度ね、舞台の途中で転んだことがあるんだ」


「怪我をしたのか」


「ううん。転んだ拍子に、ちょうど客席の方を向いてしまってね。お客さんが大笑いしたんだ」


「それは大変だったな」


「源次さんは、怒るかと思ったんだけど、舞台が終わったら笑ってた」


「そうか」


「でも、そのあと、ちゃんと叱られたよ。舞台の上で転んでも、ふざけてはいけないって」


「なるほど。芸人らしい教えだな」


「うん。源次さんは、そういうところは厳しかった」


 新太は、少し遠くを見るような目をした。


「でも、転んで膝をすりむいたとき、薬を塗ってくれたのも源次さんだった」


 私は、その話を聞きながら、手帳を取り出しかけた。


 しかし、やめた。


 これは取材ではない。


 新太が、自分の思い出を話しているのだ。


 記録に残すために聞くのではなく、ただ聞いていたいと思った。


「ほかにも、思い出はあるのか」


「いっぱいあるよ」


 新太は、すぐに答えた。


「寒い冬に、みんなで火鉢を囲んだこともあるし、雨が降って興行が中止になった日に、源次さんが団子を買ってくれたこともある」


「団子か」


「うん。みんなで分けて食べたんだ。ぼくは、もっと食べたかったけどね」


「君らしいな」


「それから、初めて遠くの町へ行ったとき、道に迷いそうになって、源次さんの手を握って歩いたこともある」


 私は、その言葉に目を上げた。


「手を?」


「うん。小さい頃だからね。人が多いところは怖かったんだと思う」


「そうか」


「源次さんの手は、大きかったよ」


 新太は、自分の手のひらを見つめた。


「今でも覚えている気がする」


 その言葉は、静かなものだった。


 新太は、自分の生まれた家のことを知らない。


 誰と暮らしていたのか、どこで生まれたのか、どうして一人になったのか。


 その記憶は、まだ戻っていない。


 しかし、源次の手の大きさは覚えている。


 舞台で転んだ日のことも、団子を分けてもらった日のことも。


 それらは、彼の中に確かに残っている。


「文彦さん」


「何だ」


「ぼく、源次さんとの思い出を、忘れたくないな」


「忘れる必要はないだろう」


「うん」


 新太は、うなずいた。


「ぼくの昔を調べていると、知らないことばかり出てくる。でも、源次さんと一座のみんなとのことは、ちゃんと覚えているんだ」


「そうだな」


「ぼくの過去は、そこにもあるんだよね」


 私は、答えを急がなかった。


 新太が今、口にしたことは、私が原稿に書くために考えた言葉ではない。


 彼自身が、思い出し、感じ、見つけた言葉だった。


     *


 その日の昼食は、少し遅くなった。


 新太が選んだのは、町の小さな食堂だった。


 品書きには、箱根の山菜を使った料理や、魚の定食が並んでいる。


「文彦さん、これにしよう」


 新太が指さしたのは、山菜の天ぷら定食だった。


「山菜か」


「うん。箱根の方にも、こういうものがあるんだって」


「まだ箱根へ行くと決まったわけではないぞ」


「でも、行くんでしょう?」


「その可能性は高い」


「じゃあ、先に食べておこうよ」


「どういう理屈だ」


「旅先のものは、食べておくに限るんだよ」


 私は、結局、新太と同じものを注文した。


 やがて運ばれてきた膳には、山菜の天ぷらが盛られていた。


 ふきのとう、たらの芽、こごみ。


 衣は薄く、揚げたての香りが立っている。


 ふきのとうは、口に入れると、ほろ苦さが広がった。


 たらの芽には、独特の香りがある。


 こごみは、柔らかく、少し歯ごたえが残っていた。


 塩を少しつけて食べると、山菜そのものの味がよく分かる。


「おいしいね」


 新太は、飯を口に運びながら言った。


「ああ。春らしい味だ」


「春って、いいね」


「何がいいんだ」


「新しいものが、いろいろ出てくるから」


「食べ物の話か」


「それもあるよ」


 新太は笑った。


「でも、知らないものを見つけるのって、楽しいじゃないか」


 私は、味噌汁を一口飲んだ。


 この旅で、新太は自分の知らない過去を探している。


 だが、同時に、知らなかった町の景色や、知らなかった食べ物にも出会っている。


 それらは、これから彼の記憶になっていくのだろう。


 過去を探す旅が、新しい思い出をつくっている。


 そのことが、私には少し不思議に思えた。


     *


 宿に戻ると、私は今日の話を整理した。


 高瀬徳蔵氏の所蔵する古い番付に、松風一座の名前があったこと。


 そこに、おふさという女役者の名前が記されていたこと。


 そして、松風一座が箱根方面へ移動した可能性があること。


 ただし、箱根での興行については、まだ確認できていない。


 源次の一座と同じであるかどうかも、分からないままだ。


 私は、手帳を閉じた。


 今日、新太が話してくれた思い出は、新聞記事に書くための証言とは違う。


 舞台で転んだこと。


 団子を分けてもらったこと。


 源次の大きな手を握って歩いたこと。


 それらは、古い帳面には載っていない。


 しかし、新太の人生を考えるうえで、何よりも大切な記憶なのかもしれない。


 私は机に向かい、原稿用紙を取り出した。


 そして、今日の最後に、こう書いた。


 ――人は、生まれた場所を知らなくても、育った場所を覚えている。誰かの手の温かさや、みんなで食べた団子の味は、年月が過ぎても消えるものではない。


 書き終えたところで、新太が部屋の戸口から顔を出した。


「文彦さん、明日は箱根?」


「ああ。まずは湯本の方で、古い宿の記録が残っていないか調べてみよう」


「楽しみだね」


「何がだ」


「新しい町だよ」


 新太は、にっこりと笑った。


「それに、何かおいしいものがあるかもしれない」


「結局、それか」


「大事なことだよ」


 私は笑った。


 小田原での調査は、ひとまず一区切りを迎えようとしている。


 けれど、旅は終わらない。


 新太の過去を探す旅であると同時に、私たち二人の新しい思い出をつくる旅でもあるのだから。


 明日は、箱根へ向かう。


 その先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。

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