第二章 石に立つ柱①
宮原楓は、腐った柱の根を、まだ捨てられずにいた。
お堂の縁の下に、杉の葉をかぶせて置いてある。きのう、流れた家の跡の泥から、自分で引き抜いたものだった。
楓は縁にしゃがんで、それをもう一度引っぱり出した。
朝の光の中で見ると、腐れは思っていたより上まで来ていた。地面の際から、こぶし二つぶん。外は乾いて見えても、中はもう柱ではなかった。指で押すと、湿った木屑がほろほろと落ちた。
――あの家、柱を土に埋めてるだけですね。水来たら一発じゃないですか。
坂井の土手の横を通りがかったとき、自分で言った言葉だった。アニメだと、だいたい最初に流されるやつ、とまで言った。
言ったとおりになった。
坂の下から、足音が上がってきた。
航平だった。泥だらけの足のまま杉の下を抜け、楓に気づくと、少し困った顔で頭を下げた。手に、くしゃくしゃの紙を一枚握っている。夜明け前に出ていったのは知っていた。何をしていたのかは、聞きそびれた。
縁の先の平たい石には、航平の折りたたみのソーラーパネルが広げてあった。晴れた日は昼のあいだそこに置いてモバイルバッテリーに溜め、六人のスマホと坂井のヘッドライトを、一台ずつ順に充電している。
曇れば、ほとんど溜まらない。これから梅雨なら、なおさらだ。
スマホは、時間を測ることと、数を書き留めることにしか使わない。そう決めたのは高槻だった。楓のスマホは、着いた日の夜から、一度も画面をつけていなかった。
◇
建て直しは、その日の昼から始まった。
弥右衛門が最初に決めたのは、ちよの家だった。赤子と五つの娘を抱えた家が、いちばん狭いところで親類の世話になっている、ということらしい。
場所も、前の川べりではなかった。川べりの段は、出水で土ごと削られて、拳ほどの石が転がる河原になっていた。乙名が杖で示したのは、同じ下の段の、山寄りの端だった。前の家の跡より、背丈ひとつぶんほど高い。
「あのおじいさん、ちゃんと考えてるね」
楓が言うと、隣で源蔵がうなずいた。今日も朝から村じゅうに呼ばれていて、ここへも通訳に引っぱられてきたのだ。
普請を仕切っているのは、年かさの男だった。坂井の土手を指さして笑い、出水の翌朝には真っ先にその天端に上がって、踵で踏んでいた男だ。名を権六という、と源蔵が教えてくれた。
権六の指図で、男たちが地面に穴を掘っていく。四隅と、その間に一本ずつ。深さは膝ほど。山から伐り出してきた栗の丸太は皮が剥かれて白く、土に入る側の端だけが、焚き火で黒く焦がしてあった。
楓は、その焦げ跡を見た。
焼けば、土の中で腐るのが少し遅くなる。祖父の若い頃は、宮大工の家でもそうしたと聞いたことがある。この人たちは、柱が土で腐ることを知っている。知っていて、少しでも遅らせようとしている。
それでも、埋めれば腐る。
楓は根を抱えて、普請場に下りた。
「源蔵さん、訳して。お願い」
権六の前に立つと、男たちの手が止まった。楓は腐った根を権六に見せ、それから地面の穴を指さした。
「柱を、土に埋めないでほしいんです。平たい石を据えて、その上に立てる。そうすれば根元が水を吸わないから、腐らない。それと、床を上げたい。膝より上まで。水が少しくらい来ても、中は濡れません」
源蔵が、区切りながら訳していく。権六は腐った根を見て、それから楓を見た。作業着。安全靴。後ろでひとつに結んだ髪。
権六が何か言った。短く、低い声だった。男たちが笑った。
源蔵が、少し間を置いて訳した。
「女子が、普請場に立つな、と」
権六は、もうひと言足した。顎で、地面の穴を示している。
「石に載せただけの柱が、立っておるものか。埋めねば、風で倒れる。……そう言っとる」
権六は楓に背を向け、男たちに手を振った。穴掘りが、また始まった。若い男の一人が楓のほうを見て、坂の上を指さした。上へ戻れ、ということらしかった。
楓は、言い返せなかった。
腐った根を抱えた腕に、力が入った。湿った木屑が、作業着の胸に冷たく染みた。現場で女だからと軽く見られたことなら、何度もある。それでも、話の中身も聞かれないまま背を向けられたのは、初めてだった。
喉の奥が、熱くなった。楓はそれを飲み込むように、頭の中で、知っている別の絵を探した。
――きた。
女が職人の現場に入って、引っ込んでろと言われる。主人公は言い返さない。黙って梁を組んで、腕で男たちを黙らせる。アニメでも漫画でも、何度も見た。いちばん気持ちのいい場面の、前振りだ。
そう思うと、少しだけ息ができた。口の端が、勝手に上がりかけた。
「楓。笑っとる場合か」
源蔵が、呆れたように言った。
「笑ってないです。……ちょっとしか」
坂を上りかけて、楓は振り返った。穴を掘る男たちの中に、一人だけ手を止めている若い男がいた。作吉だった。鍬を握ったまま、楓の顔ではなく、楓の腰の道具袋を見ていた。
◇
お堂の前では、坂井が突き棒の先を鉈で削り直していた。
楓が普請場のことを話すと、坂井は手を止めずに聞いていた。
「向こうの言うことも、半分は合ってるんだ」
削りくずを払って、坂井は言った。
「埋めた柱は、土が掴んでるから倒れねえ。石に載せただけなら、何も掴んでねえ。押せば倒れる。分かってんだろ」
「分かってる。だから、柱同士をつなぐの。足元と、胴のところに横木を通して、楔で締める。そうすれば、柱が一本ずつじゃなくて、家ごとひとつの箱になる」
「貫か」
「さすが親方」
「親方じゃねえ」
坂井は突き棒を立てかけた。
「で、穴は何であける」
楓は、答えようとして口を開けた。
お堂の縁に腰を下ろして、道具袋の口をほどいた。中身を、ひとつずつ板の上に並べていく。
メジャー。鉛筆が一本。カッター。軍手がひと組。手のひらに収まる、気泡の水平器。
それで全部だった。
楓は、並べた物をしばらく見ていた。
鑿がない。鋸もない。玄能も、差金も、墨壺もない。いつもの道具は、訓練の日に乗りつけた車の荷台に積んだままだ。電動の丸鋸も、充電式のドライバーも。その車は、四百七十年先の駐車場にある。
アニメの主人公は、いつも道具を持っていた。持っていなくても、次の場面では、どこからか出てきた。
貫を通すには、柱に穴をあけなければならない。柱は、栗の丸太だ。カッターの刃では、皮に傷をつけるのがやっとだった。
坂の下から、穴を掘る音が、途切れずに上がってきていた。




