第一章 第一章⑤
その日の昼、お堂の戸口に、見張りの姿はなかった。
着いた日の夕方から、昼も夜も、そこには村の若い男が一人座っていた。その場所に、今は濡れた杉の葉が数枚落ちているだけだった。
昼過ぎに、村の男たちが坂井を呼びに来た。崩れた土手の前に坂井を連れていき、崩れを指さし、坂井を指さし、それから自分の胸を指した。言葉は、要らなかった。坂井はうなずき、突き棒を拾い上げた。
流された三軒の者たちは、上の段の親類の家に分かれて身を寄せた。
航平は、流れた家の跡に立っていた。
楓が、泥の中にしゃがんでいた。柱の根を一本、両手で泥から引き抜いている。土に埋まっていたところが黒く腐り、指で押すと、ぼろぼろと崩れた。
楓は、それを長いこと見ていた。アニメの話は、しなかった。
◇
お堂に戻ると、戸口に小さな包みが置いてあった。
大きな葉にくるんだ、ひと握りの麦だった。真帆が包みを開き、それから坂の下に目をやった。赤子を背負った女の背中が、上の段の家の陰に消えるところだった。
家も畑も流された家の、流されずに残った麦だった。
真帆は包みを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
◇
夕方、源蔵が、弥右衛門の家から戻ってきた。
お堂への坂の途中で、膝に手をついた。航平が駆け寄って腕を取ると、その腕は思っていたよりずっと細かった。ゆうべは雨の中で叫び続け、今日は朝から村じゅうに呼ばれていた。
「あの乙名は、勘定し直したんだ」
源蔵は、息を整えながら言った。
「一日で積んで一晩で崩れる土手と、二日かけて積んで残った土手。言葉の分からん流れ者が夜中に戸を叩いて、そのおかげで誰も死ななんだ。置いておく得のほうが、危うさより重くなった。見張りを外したのは、そういうことだ」
「……ゆうべ、おれがいくら戸を叩いても、誰も出てこなかった。じいちゃんが叫ばなかったら、下の三軒は寝たまま水に呑まれてた」
源蔵は、しばらく黙っていた。
「なら、村の言葉を覚えろ」
源蔵は、前を向いたまま言った。
「危ないと思ったら、おれの口を通さずに、お前の口で村の者に言えるようにしろ。下手でいい。半分しか通じなくていい。お前の言葉で、あの連中に言え」
杖が、土を突いた。
「おれは、いつまでもおらんぞ」
航平は、何も言えなかった。祖父の腕を取ったまま、ゆっくりと坂を上った。
その夜、源蔵は手帳を膝に広げていた。スマホの明かりを最小にして、ボールペンを動かしている。航平は、そっとのぞき込んだ。
村の者の名を書き並べたページの、次のページだった。いちばん上の行に、一行だけ書いてあった。
天文二十二年五月三日 出水。下の段の家三軒流る。死人なし。
祖父が体育館で指した年表の、いちばん上の行より、ずっと前の年だった。
◇
翌朝、航平は夜明け前に起き出した。
誰も起こさないように戸を開け、坂を下りる。流れた家の跡の、泥の上に立った。おとといの夜、あの母親が赤子を抱えて立っていたあたりだ。
航平はスマホを取り出し、ストップウォッチを押した。
走った。
泥をかぶった平たい石。沢の渡り。肩がこすれるほど狭い抜け道。あの夜、何も見えないまま足の裏で覚えた石を、一つずつ踏んでいく。ここで滑る。ここは、二人並んでは通れない。
お堂の杉の下で、ストップウォッチを止めた。
数字を見た。これは、三十の男が、身一つで、晴れた朝に走った数字だった。
航平は坂を下り、もう一度上った。今度は走らなかった。坂の途中で膝に手をついた祖父の足を思い出しながら、その速さで歩いた。狭い抜け道では、壁に手をつく。沢の石の前では、ひと呼吸待つ。
お堂の下に着いたとき、ストップウォッチの数字は、さっきの何倍にもなっていた。
航平は訓練で配るはずだったマイ・タイムラインの手引を取り出し、裏の白いところに、二つの数字を書きつけた。走った数字と、歩いた数字。
ふと、視線を感じた。
水場の脇に、志乃が立っていた。桶を抱えたまま、夜明けの坂を走って上り、また歩いて上ってくるよそ者を、首をかしげて見ていた。
航平は、小さく頭を下げた。志乃は、何も言わずに水を汲み始めた。
お堂に戻ると、源蔵が起きていた。泥だらけの航平の足と、手に握った手引に目をやり、何も言わずに目を閉じた。
十歳の夏、二階の窓から逃げていく人たちの背中を見ていた日から、航平がなぜ走り続けてきたのか。それを知っているのは、この祖父だけだった。




