第一章 第一章④
坂井が、もう走っていた。
腰の道具袋から、束ねたロープを引き抜きながら、沢の下手へ駆け下りていく。ヘッドライトの光が、闇の中で跳ねた。
「宮原!」
坂井が叫んだ。楓が、作吉の腕をつかんで後を追った。高槻が、航平の懐中電灯をひったくって続いた。
航平は、動けなかった。
「航平!」
祖父の声だった。源蔵が、赤子を抱いた女の肩を押さえていた。女は沢へ飛び込もうとして、真帆に腕をつかまれている。
「その子を上へ!」
赤子が、航平の腕に押しつけられた。
温かかった。濡れた布の中で、小さな体が泣き声を上げて身をよじる。重さが、腕にかかった。
足が、一歩出た。
それから、もう一歩。
航平は、赤子を胸に抱えて坂を上った。何も見えなかった。ぬかるみで二度滑り、一度は膝をついた。それでも、赤子を抱いた腕だけは下ろさなかった。上の段に、灯りのない人の固まりがあった。航平はその中の女に赤子を渡し、すぐに引き返した。
下りる途中で、杖をついた年寄りとすれ違った。足が、ほとんど前に出ていない。航平は年寄りの腕を肩に回し、また坂を上った。上りきって、また下りた。次は、子ども二人の手を引いた。その次は、腰の曲がった女の背を押した。
何往復したのか、分からなかった。数える代わりに、航平は坂の石を一つずつ、足の裏で覚えていった。
◇
沢が川に落ちる手前で、流れは岩にぶつかって渦を巻いていた。
ヘッドライトの光の中で、坂井が腰にロープを巻いていた。ロープのもう一方の端を、楓が岸の楢の太い幹に回し、手早く結んでいる。迷いのない手つきだった。作吉が、その後ろでロープを両手で握りしめていた。高槻の懐中電灯が、渦の向こうを照らしていた。
流木が折り重なったところに、小さな体が引っかかっていた。
沢が川に落ちる、ほんの手前だった。流されてから、まだいくらもたっていない。
坂井が、水に入った。
腰まで。胸まで。流れが、坂井の体を下手へ押し流そうとする。ロープが張り、楢の幹がきしんだ。楓と作吉が、足を踏ん張った。
坂井の腕が、流木の間に伸びた。
「引け!」
楓と作吉が、ロープを引いた。駆け下りてきた村の男たちが、その後ろに取りついた。坂井が、女の子を片腕に抱えて、岸へ引き上げられてきた。
航平が下りてきたのは、そのときだった。
◇
女の子は、息をしていなかった。
岸の草の上に寝かされた小さな体は、光の中で、ひどく白かった。唇が、紫に変わっていた。
真帆が、その横に膝をついていた。顎を上げ、口の中の泥を指でかき出す。小さな胸の真ん中に、片手の付け根を当てた。
押す。押す。押す。
真帆の口が、数を刻んでいた。三十まで数えると、女の子の鼻をつまみ、口を覆って、息を吹き込む。小さな胸が、わずかに上がる。また押す。
女の子の母親が、男たちに肩を押さえられたまま、獣のような声を上げていた。源蔵が、その横で何か言い続けていた。村の男たちは、見たこともないことをしている女を、雨の中で黙って囲んでいた。
雨が、真帆の背を打ち続けていた。
押す。吹き込む。押す。
どれだけ続いたのか、航平には分からなかった。真帆の腕が震え始めても、数は乱れなかった。
小さな体が、跳ねた。
女の子が、水を吐いた。咳き込み、また吐いた。それから、か細い声で泣き出した。
村の男たちが、どよめいた。
真帆が、女の子の体を横に向けた。その手が、初めて止まった。
母親が、男たちの腕を振りほどいた。泥の中に膝をつき、娘を抱き上げた。
「ちよ!」
母親は、娘の名を呼んだ。
「ちよ、ちよ……!」
何度も、何度も呼んだ。泣き声と雨の音の中で、その名だけが、はっきりと航平の耳に届いた。
真帆は、膝をついたまま動かなかった。自分の手のひらを、じっと見ていた。
◇
夜明けに、雨は上がった。
水は、引き始めていた。
いちばん下の段は、跡形もなかった。麦の畑も、畑の縁も、泥の下に消えていた。三軒の家は、どれも流されていた。地面に埋めてあった柱の根だけが、折れた歯のように泥から突き出していた。
上の段に、村の者が集まっていた。弥右衛門が、杖をついて一人ずつ顔を確かめていく。年寄りも、子どもも、赤子も。母親の腕の中で、ちよが眠っていた。
死んだ者は、一人もいなかった。
二つ目の段の土手は、崩れていた。
村の男たちが一日で直した、あの崩れの跡だ。積み上げた土が、もとの斜面との継ぎ目からきれいに剥がれ、下の段の泥の中へずり落ちていた。
坂井の土手だけが、残っていた。
突き固めた土の面が、雨に洗われて、かえってはっきりと浮かび上がっていた。角は角のまま立ち、継ぎ目のどこにも、ひびひとつ入っていない。その上の家は、水をかぶっていなかった。
男たちは、二つの土手の前で黙って立っていた。
やがて、年かさの男が一人、坂井の土手の上に上がった。坂井を指さして笑った、あの男だった。男は土手の天端を、踵でぐっと踏みつけた。少し場所をずらして、また踏む。踵は、ほとんど沈まなかった。
男は何も言わずに土手を下りた。入れ替わりに、別の男が上がって、同じように踵で踏んだ。それから、若いのが上がった。
坂井は泥だらけのまま、土手の端に座っていた。胸ポケットから濡れた煙草を一本出してくわえ、火はつけなかった。




