第一章 第一章③
雨は、四日目の昼過ぎに来た。
最初は、麦を刈る女たちの背に、ぱらぱらと落ちてくる程度だった。女たちは空を見上げ、刈る手を早めた。真帆もその中にいた。慣れない鎌で、自分の指を切らないようにするのが精一杯のようだった。
航平は源蔵と二人で、弥右衛門の家を訪ねた。前の日に突き棒を上げ下ろしし続けた腕は、朝になっても肩より上に上がらなかった。腰も背中も、ゆうべは寝返りを打つたびに軋んだ。
言うことは、朝から組み立ててきた。いちばん下の段は、川に近すぎる。岸の土は崩れやすい。あの楢の枝の流木の高さまで水が来れば、下の三軒は持たない。だから、堤を積むべきだ。せめて今夜は、下の三軒の者を上の段へ移すべきだ。
組み立てるたびに、言葉に詰まった。浸水想定区域。避難。危険水位。毎日のように使ってきた言葉は、どれもこの時代にはない。
弥右衛門の家の土間には囲炉裏が切られ、年かさの男たちが火を囲んでいた。土手で坂井を笑った男も、その中にいた。
航平は土間に膝をつき、話し始めた。源蔵が訳す。弥右衛門は、火を見たまま聞いていた。
「水は毎年来る、と言っとる」
源蔵が、乙名の言葉を追いかけた。
「来れば、下の段は諦める。家の者は上へ逃げる。水が引けば、また土を積む。親の代も、その前の代も、そうしてきた、と」
「あの楢の枝の流木は」
航平が言い、源蔵が訳すと、弥右衛門が初めて顔を上げた。
「わしが子どもの時分の大水よ。あれほどの水は、一代に一度じゃ」
「一代に一度なら、いつ来てもおかしくないってことです。今年かもしれない」
源蔵が訳すと、男の一人が短く笑った。弥右衛門だけは、表情を変えなかった。火箸で囲炉裏の灰をならしながら、ゆっくりと言った。源蔵の声が低くなった。
「それで、おぬしは何をせよと言うのか。堤を積めと言うのか。誰が積む。積むあいだ、誰が食わせる。麦刈りは、待ってはくれん」
航平は、答えられなかった。
どれだけの人手が要るのか。何日かかるのか。土をどこから運ぶのか。どれも分からなかった。ここに堤が要る、ということだけは分かる。だが現代なら、それを設計するのも築くのも、航平ではなかった。航平は、地図の上に線を引けばよかった。
ここには、その線を受け取る誰かがいない。
「では、せめて今夜だけでも、下の家の人たちを――」
「水の音が変われば、下の者は上がってくる。昔から、そうしておる」
弥右衛門は、もう火のほうに目を戻していた。
◇
夜になって、雨は太くなった。
お堂の板葺きの屋根を、途切れなく雨が打つ。高槻は、お堂の前の、軒から離れた平たい石の上に、航平の空のペットボトルを置いていた。昼のうちに口を切り落とし、溜まった水の深さを、外側に刻んだ目盛りで読めるようにしたものだ。
「一時間で、三センチを超えた」
懐中電灯を手で絞って目盛りを読み、高槻はスマホの計算機を叩いた。
「この谷の広さと、山の傾きと、この降り方だ。降った水が川に集まるまで、そう間はない」
高槻は顔を上げ、闇の向こうの川の音を聞いた。昼の音ではなかった。もっと低い、腹の底に響く音が、谷の底で重たく転がり続けている。
「……今夜だ。夜半すぎには、あの楢の枝に届く」
誰も、すぐには動かなかった。
航平は立ち上がった。膝が、少しだけ震えていた。
「下の三軒を起こします。坂井さん、灯りを。じいちゃんは――」
「行く」
源蔵は、もう杖を握っていた。
◇
坂は、昼とは別のものだった。
足もとはぬかるみ、並べた平たい石は泥をかぶって見えない。坂井のヘッドライトが、雨の筋を白く照らしながら先を行く。真帆が源蔵の腕を取り、楓と高槻が続いた。
いちばん下の段の、最初の家の戸を叩いた。
「起きてください! 水が来ます! 上へ逃げてください!」
戸が細く開いた。男が、ヘッドライトの光に目を細めた。男は航平の顔を見て、それから濡れた作業着とヘルメットを見て、何か怒鳴った。戸が閉まった。
二軒目も、三軒目も、同じだった。夜更けに戸を叩くよそ者の言葉は、半分も通じない。通じたところで、聞く理由がない。
源蔵が、航平を押しのけて前に出た。杖で戸を叩き、雨の音に負けない声で叫んだ。
「水ぞ! 水が来るぞ! 上へ上がれ! 物は捨てよ、身一つで上がれ!」
古文書の言葉ではなかった。子どもの頃に谷の古老たちから聞いた言葉を、祖父は腹の底から引きずり出していた。航平が一度も聞いたことのない、祖父の声だった。
戸が開いた。中から、赤子を抱いた女が顔を出した。それから男が、年寄りの手を引いて出てきた。上の段の家々にも、灯りのない騒ぎが広がっていく。作吉が、雨の中を駆け下りてきた。
航平は、川のほうを見た。
いちばん下の畑が、もうなかった。
ヘッドライトの光の届くかぎり、黒い水がうねっていた。刈り残した麦も、畑の縁も、水の下にある。盛り上がった水面が岸を舐め、家の裏手まで迫っていた。
足が、動かなくなった。
十歳の夏だった。二階の窓から、濁った水が家の前の道を呑んでいくのを見ていた。走っていく人たちの背中を見ていた。窓の内側で、見ていることしかできなかった。
あのときと同じ音が、足もとから湧き上がってきた。
頭では分かっていた。人を上へ。今すぐ。それでも、膝から下が自分のものではなかった。
女の悲鳴が、雨を裂いた。
沢が川へ落ちるあたりだった。上へ逃げる道は、そこで沢を渡る。水かさの増した沢が、渡りの石を越えて、黒く流れていた。その縁で、赤子を抱いた女が、空いたほうの手を水へ伸ばして叫んでいた。
女の手の先には、もう何もなかった。
ヘッドライトの光が、沢の流れを追った。
光の輪の中を、小さな頭が一つ、川のほうへ流れていった。
土手を掘り返すよそ者を、戸口でじっと見ていた、あの女の子だった。




