第一章 第一章②
お堂の夜は、暗かった。
灯り一つない村の上で、川の音だけが谷の底から湧き上がってくる。航平が懐中電灯を天井に向けて床に置くと、薄明かりの中に五人の顔が浮かんだ。
「天文二十二年。西暦で、一五五三年だ」
源蔵が、もう一度言った。誰も、すぐには何も言わなかった。
「戦国だ」
楓が小さく言った。昼間、高槻に遮られた言葉だった。今度は、誰も遮らなかった。
「同じ日本語だろう。どうして、あそこまで通じない」
高槻が、低く言った。
「音が違う。言い回しも違う。四百七十年あれば、言葉はそれだけ動く」
源蔵は短く答え、航平のハザードマップを引き寄せた。老眼鏡をかけ、指で相模川の青い線をたどる。城山。ダム。その上流に広がる、湖の青。
源蔵の指は、湖の真ん中で止まった。
「おれたちが今いるのは、ここだ」
湖を示す青の下には、何も描かれていない。地図の上では、この村は、最初からないことになっていた。
誰も、地図から顔を上げなかった。
「……帰り方って」
楓が言いかけて、口をつぐんだ。それから、わざと軽い声を出した。
「雷、待ちます? もう一回、あそこで」
誰も、笑わなかった。
高槻が、眼鏡を外した。
「タイムスリップという言葉はある。だが、我々の生きてきた世界に、それを説明できた者はいない。確かめた者もいない」
「理論がなければ、因果も測れない」
高槻は、外した眼鏡を袖で拭いた。拭く必要のない眼鏡だった。
「ここに来た理由も、帰る手立ても……少なくとも、私には探れない」
昼間、あの石にいちばん先に手を当てたのは、高槻だった。その高槻が、最初に、帰り道はないと言った。
航平は、懐中電灯の明かりを少し絞った。
「……明日のことを、決めましょう」
水を汲む場所。火の借り方。誰が何をして、何を食べさせてもらうか。一つずつ並べているあいだは、ほかのことを考えずに済んだ。
夜更けに、紙をこする小さな音で、航平は目を開けた。
源蔵が、スマホの明かりを最小にして、手帳に何か書きつけていた。のぞき込むと、今日会った村の者が並んでいた。桶の娘。鉈の若者。杖の乙名。まだ名の分からない者は、顔つきと、着ているもので。
記録に残っているのは、記録を残す者がいた水害だけです。今朝、祖父が体育館で言った言葉だった。
航平は声をかけずに、目を閉じた。
◇
翌朝、乙名が来た。
後ろに、鉈の若者と、年かさの男が二人ついている。源蔵が、乙名の言葉を短く区切りながら訳した。
「名は弥右衛門。この村の乙名、まとめ役だそうだ。城には知らせぬ、と。働けば食わせる。怪しい真似をすれば、叩き出す」
源蔵は少し間を置いて、続けた。
「坂井さんと航平は、畑の土手の直し。高槻さんは男衆と薪取り。南さんは、水場の娘について麦刈りだ。あの娘は、志乃というそうだ。おれは、呼ばれたところへ回る」
「わたしは?」
楓が聞くより先に、鉈の若者が一歩前に出て、早口で何か言った。弥右衛門は顔をしかめ、面倒くさそうに手を振った。
「作吉が、水場の樋を直すのに、楓の手を借りたいそうだ」
作吉と呼ばれた若者は、楓ではなく、楓の腰の道具袋を見ていた。
◇
崩れていたのは、川から数えて二つ目の段の土手だった。
人の背丈ほどの土手が、幅にして十メートルほど、下の段へずり落ちている。
村の男たちは鍬で崩れた土をかき寄せ、畚に盛っていく。縄で編んだ網の四隅を一本の棒に吊るした運び具で、二人で棒の前と後ろを肩に担ぎ、崩れた跡まで運んではあける。
あけた土は、鍬の背で叩いて固めていた。手際がいい。慣れた仕事なのだろう。
坂井は、その横で崩れの縁にしゃがみ込んでいた。指が、上の土と下の土の境目をなぞっている。言われなければ航平には見えない、斜めの筋が一本走っていた。
「ここから上が、滑った。下が緩んだままだ。このまま上に積んだら、次の大雨で、同じところから持っていかれる」
坂井は借りた鍬を二、三度振って重さを手に覚えさせると、男たちが積んだばかりの土を掘り返し始めた。
男たちが声を上げ、それから笑った。年かさの一人が坂井を指さして何か言い、もう一人が肩をすくめる。やがて三人は、隣の段の小さな崩れへ移っていった。勝手にしろ、ということらしかった。
坂井は、緩んだ土を全部どけた。坂井が鍬で掘り、航平が鋤で畚に盛る。
足で踏んで刺し、腰で起こせ、と坂井は言った。言われたとおりにしたつもりでも、土は畚に届く前に半分こぼれた。昼を過ぎる頃には、航平の手のひらに豆ができていた。
「隊長、それ、楽しい?」
上の道から、楓の声がした。割った竹を担いだ作吉と並んで、水場へ下りていくところだった。楓は足を止め、いちばん下の段に並ぶ三軒の家を見下ろした。
「あの家、柱を土に埋めてるだけですね。石の上に立ててない。あれ、水来たら一発じゃないですか。アニメだと、だいたい最初に流されるやつ」
軽い口ぶりだった。航平は、笑えなかった。
三軒のうち、いちばん川に近い家の戸口に、五つくらいの女の子が座っていた。土手を掘り返すよそ者を、膝を抱えて、じっと見ていた。
◇
夕方、薪取りから戻った高槻の両手は、潰れた豆だらけだった。
「背負える薪が、村の子どもの半分だ。斜面で三度転んで、誰も助け起こさなかった」
真帆に布を巻かれながら、高槻は顔をしかめた。それから、お堂の前で西の空を見上げた。
傾いた日の周りに、薄い光の輪がかかっていた。
「暈だ」
高槻が呟いた。
「空の高いところに、薄い雲が広がってきている。南西から、湿った風も入っている」
「雨ですか」
航平が聞いた。高槻はしばらく黙り、川のほうへ目をやった。
「……二日のうちに降る。この時期のこの崩れ方なら、たぶん、長い雨の始まりだ」
言ってから、高槻は自分の言葉に顔をしかめ、お堂に入っていった。
坂井が、手の土を払いながら言った。
「なら、明日で締め終える」
◇
次の日、坂井は土を積んだ。
脇に山にしておいた土をひとつかみ握る。指の間から、湿りがにじむ。坂井はそれを平らに広げて日に当て、昼過ぎにもう一度握った。握った形が残り、押すと素直に割れた。
「握って固まって、押して割れりゃいい」
坂井は川原から、ふくらはぎほどの太さの流木を二本拾ってきた。水場から作吉を呼んで鉈を借り、胸ほどの長さに切りそろえて、片方の端を平らに落とす。突き棒だ、と坂井は言った。土を指三本ほどの厚さに撒き、突き棒を落として突き固める。済んだら、また撒く。また突く。
「一度に積んだら、駄目なんですか」
「突いて力が届くのは、表から少しだけだ。厚く積めば、下は締まらねえまま残る」
航平も、もう一本の突き棒で突いた。坂井は百ほど突くたびに手を止めて水を飲み、航平にも休めと顎で示した。それでも、昨日の豆が昼前に潰れた。
「握りしめるんじゃないんだ。持ち上げたら、手は離さずに添えるだけにして、棒を手の中ですべらせて落とす。叩きつけなくていい。突くのは棒の重さだ」
隣の段では、男たちがとうに崩れを直し終えていた。一日で積んで、表を叩いて仕上げてある。坂井の土手より、ずっと早く、きれいに見えた。
昼過ぎに、弥右衛門が源蔵を連れて見に来た。乙名は、指三本分ずつ積み上がっていく土の面を、長いこと見下ろしていた。
「築地の真似事か、と言っとる」
源蔵が訳した。
「寺や城の土塀は、土を少しずつ突き固めて造る。それを畑の縁にやるのか、とな」
「城だろうが畑だろうが、土は同じだ」
坂井はそれだけ言い、突き棒を落とした。
弥右衛門は鼻を鳴らし、男たちの何人かが笑った。止めろとは、誰も言わなかった。
日が山の端にかかる頃、坂井は最後に、土手のいちばん上の平らな面、天端を突き棒で叩き、それきり何も言わなかった。
航平は土手の上から、いちばん下の段の三軒を見下ろした。戸口に、もうあの女の子はいなかった。
西の空が、鈍い色に濁り始めていた。




