第一章 第一章①
岸本航平は、川の音で目を覚ました。
聞き慣れた音ではなかった。岩を噛み、石を転がし、谷じゅうを震わせる、荒い音だった。
見上げた空には、雲ひとつなかった。供養碑の前で空を覆っていた雷雲は、どこにもない。
身を起こすと、すぐそばに五人がいた。坂井はもう立って、周りを見回している。楓は草の上に座り込んだまま、口を開けていた。高槻は眼鏡を拾い、袖でレンズを拭いている。真帆は自分の手足を順に動かしてから、源蔵のそばに膝をつき、手首に指を当てた。
「……脈は落ち着いてる。源蔵さん、分かりますか」
祖父が小さくうなずくのを見て、航平はようやく息を吐いた。
碑が、なかった。
さっきまで六人がしゃがみこんでいた、胸ほどの高さの苔むした石。目を開けて航平が最初に探したそれは、どこにもなかった。木立はある。川の音もする。だが、草に埋もれかけた台石も、削れた文字も、見当たらない。
「……ここで、合ってますよね」
楓が、草をかき分けながら言った。坂井は黙って地面にしゃがみ、指で土を掘った。台石を据えた跡なら、土に角が残る。指は、柔らかい腐葉土に沈むだけだった。
源蔵が、木立の奥の、少し盛り上がった地面に杖を立てた。
「ここだ。川からの間も、木立の向きも、合っとる」
そこには、ひと抱えほどの自然石が一つ、半分土に埋まっているだけだった。文字は、どこにも刻まれていなかった。
高槻が、その石の前に膝をついた。何も言わずに、手のひらを苔の上に当てた。少し間を置いて、真帆がその隣に手を置いた。楓が置き、坂井が置き、源蔵が置いた。航平も、最後に手を重ねた。
誰も、笑わなかった。
風が木立を抜けていった。空は青いままで、雲は一つも湧かなかった。
しばらくして、高槻が手を離した。立ち上がって膝の土を払い、それきり石のほうを見なかった。
航平は、川のほうを振り返った。
ダムの下の、深い緑の静かな流れは、どこにもなかった。白い飛沫を上げた急流が、岩だらけの川床を削って駆け下りていく。岸には流木が折り重なっていた。
「護岸がねえ」
坂井が、岸の土を握ったまま言った。
「コンクリも、石積みも。全部、川がつけたまんまだ」
「ねえ、あれ」
楓が、真上を指さした。
城山の頂だった。山の形は同じだ。ただ、頂の木が切り払われ、柵が巡らされて、尾根の端に物見櫓らしい影が一つ突き出していた。
「山城ですよ、あれ。ダムがなくて、護岸がなくて、城があるってことは……」
「冗談はやめてくれ」
高槻の声が、思いのほか強く響いた。楓は口をつぐんだ。その先は、誰も言わなかった。
航平はスマホを出した。圏外。手回しのラジオは、どの周波数も雑音しか返さない。最後に、リュックの外ポケットから紙のハザードマップを抜いて広げた。
尾根の形は合っている。谷の曲がり方も合っている。なのに、道がない。橋がない。家がない。上流に立っているはずの灰色の堤体も、その向こうの湖もなかった。谷はただ谷として、奥へ深く続いていた。
「航平」
源蔵が、真帆の手を借りて立っていた。杖の先が震えている。祖父は、上流から目を離さなかった。
「おれは、この谷を知っとる」
杖がゆっくりと上がり、急流の向こうの、日の当たる平らな段を指した。青葉の雑木と丈の高い草のほかに、何もない段だった。
「あの瀬の向こうの、平らなところ。あそこに、おれの家があった」
祖父が十五の年に、湖の底へ沈んだ村だった。水が這い上がっていくのを岸から見ていた、と、今朝の講演でも話していた。
その谷が、湖になる前の姿で、目の前にあった。
「主任」
坂井が、航平を見ていた。
「どうする」
五人の目が、航平に集まった。
何が起きたのかさえ、分からなかった。分からないことが多すぎて、手のつけどころが見えない。濁流の前で足がすくんだ、あの十月の夜と同じだった。
あの夜、坂井がしてくれたのは、やることを一つずつ置いていくことだった。
「日が暮れるまでに、水と、夜を越せる場所を探します」
声に出すと、少しだけ足元が固まった。
「上だ」
源蔵が、かすれた声で言った。
「こっちの岸を、上へ行け。村がある」
あった、ではなく、ある、と祖父は言った。
◇
岸沿いの細い道を上るあいだ、五人はそれぞれ、別のものを見ていた。
斜面の畑の脇に、道具小屋が一つあった。楓はその前で足を止め、地面に穴を掘って立てただけの柱を見つめた。皮を剥いだ跡が、まだ白い。「……本物だ」と、声が漏れていた。
坂井は一度だけ川原に下り、岸の土を指で揉んで、ほろほろと崩れるのを黙って見ていた。
高槻は、川岸の楢の木を見上げていた。頭よりはるか上の枝の股に、流木が一本、引っかかっている。水が置いていったものだ。高槻はしばらくそれを見て、目をそらした。
沢の分かれ目では、真帆がしゃがみこんでいた。ぬかるみに、裸足の足跡と蹄の跡。その少し上の、沢のすぐ脇に、牛か馬の糞が落ちていた。真帆は眉を寄せたまま、何も言わなかった。
沢沿いの道を上りきると、視界が開けた。
斜面がそこだけ緩やかになり、広い段に、茅葺きの屋根が十いくつか寄り添っていた。どの屋根からも、薄い煙が立っている。段から川へ向かって、黄色く色づいた麦の畑が、階段のように下っていた。
航平の目は、いちばん下の畑に吸い寄せられた。坂井が土を崩した、あの岸のすぐ上だった。高槻が見上げていた楢の枝の高さまで水が来れば、あの畑は跡形もない。その上の段にも届く。家のいくつかは――。
頭の中で、村に色が塗られていく。浸水の深さごとに、薄い黄色から濃い紫まで。仕事で何百枚と作ってきた地図の色だった。
◇
最初に六人に気づいたのは、沢の水場にいた娘だった。
十五か、十六か。桶を抱えたまま、娘は叫ばなかった。見開いた目が、航平の顔から坂井のヘルメットへ、真帆の上着の胸の文字へ、源蔵の杖へと、一つずつ止まっていく。
「さくきち」
娘が低く呼ぶと、家の陰から若い男が飛び出してきた。肩幅の広い男が、娘の前に立ちはだかって鉈を構えた。刃は、まっすぐ航平に向いていた。
「待ってください。怪しい者じゃ――」
男が何か叫んだ。半分も聞き取れなかった。知っている言葉の切れ端が聞こえる気がするのに、つながらない。日本語なのに、日本語ではなかった。
家々から男たちが出てきた。鎌や、先を削った竹を手にしている。六人は、半円に囲まれた。坂井が源蔵の前に半歩出た。
男たちの後ろから、杖をついた年寄りが出てきた。白髪を後ろで結い、目だけが鋭い。年寄りは六人を頭からつま先まで眺めて、短く言った。
「どこの手の者じゃ」
それだけは、航平にも聞き取れた。
答えようとして、口が開いたまま固まった。何を言えばいい。何を言っても、通じない。
杖が、土を突いた。
源蔵が坂井の肩を叩いてどかせ、前に出ていた。膝が震えている。それを杖で押さえつけて、年寄りの前に立った。
「いずれの手の者にても、ござらぬ。道を失うた者にござる。害をなす気は、毛頭ござらぬ」
古文書の言葉だった。祖父が半生かけて読んできた、紙の上の言葉だ。年寄りの眉が、わずかに動いた。
「どこから来た」
源蔵は答えに詰まり、年寄りの背後の斜面に目をやった。それから杖で、細い沢を指した。
「その右手の沢は、蛇沢と申さぬか。下の淵は、姥淵」
年寄りの顔色が変わった。
源蔵は、名を並べた。向こう岸の段の名、岩の名、瀬の名。湖に沈む前の村で、古老たちから聞き集め、手帳の中にだけ残してきた名だった。
男たちがざわめき、鎌の先が下がった。年寄りだけは、ざわめきに加わらなかった。源蔵の顔と、杖を握る手を、もう一度ゆっくりとたどっていた。
「おぬし、この谷の者か」
源蔵は、答えなかった。
年寄りは杖で地面を二度叩き、男たちに何か言いつけた。
「弥右衛門様、よいので」
男の一人が言った。年寄りは取り合わなかった。
「今宵は、上のお堂に置く。見張りをつけよ。城へ知らせるかは、明日決める」
杉の木立の中の坂を上りながら、源蔵が航平の横に並んだ。
「あの乙名は、勘定したんだ」
息を切らしながら、祖父は低く言った。
「追い出せば、村のことをどこで喋られるか分からん。城に知れれば、なぜ村に入れたと咎められる。手元に置いて見張るのが、いちばん安い」
それから源蔵は、前を行く年寄りに声をかけた。
「年寄りの物忘れにて、ご容赦を。今年は、天文の何年でござったかな」
年寄りは妙な顔をして振り向いた。
「天文の、二十二年じゃ。そんなことも忘れたか」
源蔵は頭を下げ、坂の途中で足を止めた。航平にだけ聞こえる声だった。
「天文二十二年。……一五五三年だ」
谷の底で、川が鳴り続けていた。




