序章 供養碑
六月の朝の空は、雨の気配をどこにも残していなかった。
城山の麓の県立高校の校庭に、白いテントが三張り並んでいる。岸本航平は受付の長机に会場の配置図を広げ、腕時計を見た。八時四十分。出水期を前に、市の危機管理局の主任として、ひと月かけて段取りを組んだ訓練だった。
危機管理局で、航平はハザードマップと避難の計画を受け持っている。地図の上に線を引き、どこの誰がどの道を通って、何分で逃げられるかを決めるのが仕事だ。津久井の祖父の家から歩いて行ける近所に一人で住み、毎朝この城山の脇を通って市役所へ通っている。
「今日は岸本さんが班長なんでしょ。じゃあ隊長だ」
段ボールベッドの見本を抱えた作業着の女が、配置図をのぞき込んで笑った。宮原楓。宮大工で、避難所の耐震補強の仕事で何度も顔を合わせている。
「主任です」
「訓練のときは隊長! 決まり」
楓は返事も待たずに、体育館のほうへ駆けていった。
「主任。土のう、植え込みの脇でいいか」
軽トラックの荷台から、低い声がした。坂井剛。市と応援協定を結んでいる建設会社の現場監督で、相模川の護岸を長く手がけてきた男だ。作業着の腰に道具袋をいくつも提げ、ヘッドライトの付いたヘルメットを小脇に抱えている。
「はい。月の輪は、南の排水溝の前でお願いします」
「了解」
月の輪工法。大水のとき、堤防の裏の地面から水が噴き出してくることがある。放っておけば、噴き出す水が堤防の中の土を運び出し、やがて堤防ごと崩れる。その噴き出し口を土のうで丸く囲み、囲いの中に水を溜めて、噴き出す勢いを殺す。今日は坂井に、その積み方を見せてもらうことになっていた。
土のうを下ろすその手を見ると、航平はいつも、七年前の十月の夜を思い出す。台風で城山ダムが緊急放流をした夜だ。
市役所に入って半年の航平は、川沿いの現場で濁流を前にして、足が動かなくなった。
隣に来た坂井は、励ましも怒鳴りもしなかった。袋を一つ航平の手に押しつけ、次はここ、その次はここと、やることを一つずつ置いていった。気がつくと、朝まで土のうを積んでいた。
受付の向こうで、杖の先が砂利を鳴らした。
「ずいぶん立派なテントだな」
祖父の岸本源蔵は、講演の資料を挟んだ紙ばさみを抱え、航平の背負った大きなリュックを見て口元をゆるめた。訓練で見せる非常持ち出し袋の見本で、折りたたみのソーラーパネルから手回しのラジオまで入っている。
「それを背負って一日歩くのか」
「見本だから。中身を見せないと意味がないんだよ」
源蔵は何か言いかけて、やめた。代わりに航平の肩を一つ叩いた。
「終わったら、うちに寄れ。一局指すか」
「いいけど、負けても機嫌悪くならないでよ」
「ぬかせ。今日こそは分からんぞ」
祖父がそう言わなかった日はない。航平が負けた日は、もうずいぶん前から覚えがなかった。
◇
体育館のパイプ椅子は、八割がた埋まった。
元は川漁師で、今は土地の古い紙を調べている祖父は、スクリーンの年表の年号の一つひとつに、流された村の名と、そこにいた人の話を添えていった。どの家の誰が屋根に上がって助かり、どの家の誰が戻らなかったか。
「この上流の津久井湖ができたのは、昭和四十年です。わたしが十五の年でした」
源蔵は、少し間を置いた。
「湖の底になった村があります。わたしは、その村で生まれました。故郷が水の下へ消えていくのを、岸から見ておりました」
会場が静まった。祖父の声には、怒りも恨みもなかった。
「記録に残っているのは、記録を残す者がいた水害だけです」
源蔵は、年表のいちばん上の行を指した。江戸の初めの大水。それより前には、一文字も書かれていない。
「何も残らなければ、その人が生きていたことさえ、後の世には伝わりません。それでわたしは、書き残しております」
それから祖父は、年表のいちばん下の、空いた行に指を移した。
「この先の行は、まだ白紙です。ここに何が書かれるかは、今日ここにいる皆さんしだいです」
拍手の中で、航平は壇の脇から祖父の背中を見ていた。
二十年前の夏、航平の生まれた町の川が溢れた。十歳だった。二階の窓から、濁った水が家の前の道を呑んでいくのを見ていた。両親は、帰ってこなかった。
津久井へ引き取られてきた夜、祖父は涙ひとつ見せなかった。黙って温かい汁物を作り、航平の前に置いただけだった。
引き取られてから、航平は走るようになった。高校までは陸上部で、長い距離を走った。今も、朝は仕事の前に走る。道は日ごとに変え、自分が線を引いた避難路を、地区を一つずつ順に選んで走った。家々の戸口から高台まで何分かかるかを、地図の上でなく、体で覚えておきたかった。
水で人が死ぬのを、一人でも減らす。あの夏から、航平が自分に課してきたのは、それだけだった。
◇
体育館の奥の模擬の避難所では、南真帆が受付の机に消毒液のボトルを並べ直していた。総合病院の感染管理の認定看護師で、今日は避難所の感染対策の指導役だった。
「岸本さん。間仕切り、市の備蓄はこれだけですか。去年の防災会議でも聞きましたけど」
「去年も同じ答えをしたと思います」
「足りない、で済む話じゃないんですよ。避難所で一人出たら、一晩で十人になる」
「分かっています。だから今日、南さんに来てもらったんです」
真帆は言い返す言葉を探して、見つからなかったらしい。聴診器や使い捨て手袋の箱が入った肩掛けのバッグの紐を、黙って握り直した。
◇
高槻修一は、体育館の入口の脇で、首から下げた名札の紐をいじっていた。
施設担当。鍵を開け、照明をつけ、トイレの場所を案内する。誰にでもできる役目で、だからこそ、この高校で物理を教える高槻に回ってきた。ひと月前、昔の洪水の研究を参考にさせてほしいと頭を下げに来た市役所の主任を、高槻は理由も言わずに断っている。
高槻はスマホを出し、画面の中のAIに短く打ち込んだ。三尺は、何センチか。
さっき受付で、自治会の年寄りから、昭和の台風のときは水が床の上三尺まで来たと聞かされた。物理の教師が、その場で答えられなかった。
ネットにつながらなくても動く、辞書代わりのものだ。去年、自分で入れた。何を調べたかまで、どこかの会社に預ける気にはなれなかった。
返ってきた答えを一度だけ読むと、高槻はすぐに画面を消した。用のないことに電池を使う癖は、昔からない。
上着の内ポケットの上から、封筒の角を指で確かめる。先週届いた、娘の結婚式の招待状だった。何年も声を聞いていない娘の字で、宛名が書いてあった。式は十月の半ば。
なんとなく、空を見上げた。南西の稜線の向こうに、白い雲の頭がのぞいている。この季節にしては、育ちが早い。
予報では、一日晴れのはずだった。高槻は、それ以上考えるのをやめた。
◇
訓練が終わったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
「帰る前に、ちょっと付き合え。川っぷちに古い供養碑がある。昔の大水で流された人らを弔ったもんだ。出水の季節の前に、手を合わせていこうと思ってな」
校門の脇で、源蔵が言った。片付けを手伝ってくれた坂井と楓と真帆、それに鍵を閉め終えた高槻が、まだ残っていた。
「行きます!」
真っ先に手を挙げたのは楓だった。坂井は無言でヘルメットをかぶり直した。行く、という意味らしい。高槻は眉を寄せたが、真帆が「少しだけなら」と言うと、肩をすくめた。
碑は、ダムの少し下流の、川べりの木立の中にあった。
草に埋もれかけた台石の上に、胸ほどの高さの自然石が据えてある。苔に覆われ、刻まれた文字の大半は読めなかった。
「何度も水に洗われて、何度も倒れて、そのたびに土地の者が建て直してきた碑だ。誰が最初に建てたのかは、分からん」
「ここに名前が残っていない人も、いたんでしょうね」
削れた文字を見つめたまま、真帆が言った。
「おったろうな。名が残らんからって、生きてなかったわけじゃない」
源蔵は碑の前に膝をつき、手を合わせた。航平も並んで目を閉じた。川の音の中に、二十年前の夏の音が混ざりそうになって、すぐに目を開けた。
空が、暗かった。
さっきまで晴れていた空を、厚い雲が西から覆っていた。風が止み、肌にまとわりつく空気がにわかに冷える。木立の葉が、いっせいに裏返った。
「気圧が落ちている」
高槻がスマホの画面をにらんだ。
「この速さで下がる天気じゃなかったはずだ」
遠くで、雷が鳴った。
「戻りましょう。じいちゃん、立てる?」
航平が手を差し出したとき、突風が木立を叩いた。立ち上がりかけた源蔵の体が傾く。航平がその腕をつかみ、坂井が反対側から背を支えた。足を取られた楓が前のめりになり、真帆が手を伸ばす。眼鏡を押さえた高槻が、とっさに何かにつかまろうとした。
誰の手がどこに触れたのか、もう分からなかった。もつれ合った六人の手と体が、苔の湿った冷たい石の上で重なっていた。
次の瞬間、空が白く裂けた。
音よりも先に、光が来た。
そして、何も聞こえなくなった。




