第9話 使節の間にて
キルセンの使節団は、十二人だった。
うち一人は、活版印刷の工房主である。公国では職能で叙爵する制度があって、ブランデルさんは三年前に男爵位を受けておられる。
わたくしはその十二人の後ろに立っていた。
外套は借り物である。キルセンの仕立てで、袖が少し長い。手を下ろすと指の第二関節まで隠れる。右手の側面の染みが隠れる長さだった。
「随行の名簿には、ハルストと書いてあります」とブランデルさんは仰った。「著者として同行いただきます。式の間は、こちらの列にいてくださればけっこうです」
書簡集は先月刷り上がった。公国で二百部、ヴェスタールで三百部。ヴェスタール宮廷の書記局が四十部まとめて買い上げたという話は、キルセンで聞いた。
扉には名前が二行で入っている。上にマレン・ハルスト。下に、ヴェスタール王国外交書簡集、と。
使節の間は、王宮の南翼にある。
朝から人が入っていた。床は磨き直したばかりで、蝋の匂いがする。
天井が高い。両側に柱が十本ずつ並んでいて、床は磨いた石で、足音がよく響く。ここへ入ったのは二度目である。一度目は嫁いだ年に、夫の随行として壁ぎわに立った。
あのときは名を呼ばれなかった。随行の名簿に妻の名は載らない。
正面の壇の下に、ヴェスタール側が並んでいる。
並び順は席次で決まる。誰がどこに立つかを見れば、この半年で誰が上がり誰が下がったかが分かる。
外務長官がおられる。北向きの執務室で暖炉を焚かせない方である。その隣に儀典長、その後ろに諸家の当主が二列。
ドゥブレ男爵がおられた。
その後ろに、水色の外套の娘が立っている。ドゥブレ嬢である。
男爵は書簡集を持っておられた。表紙の色でわかる。
そして、右の三人目に、トゥーレ伯が立っておられた。
外交伯としての席ではない。宮廷書記局付きの列である。東方の件のあと、外務の任は解かれたと聞いた。
書記局付きは、書簡の受け渡しと整理を担う職である。文を組む仕事ではない。運ぶ仕事である。
わたくしは列の後ろで、書簡集を一冊持っていた。表紙に手を置いて、指の腹で扉の厚みを確かめた。
式が始まった。
儀典長が公国の使節を紹介する。読み上げの型は宮廷書記局のもので、二十年変わっていない。父が現役だったころの型である。
名を先に、職を次に、用向きを最後に置く。用向きが長いときは、途中で息を継げるように読点を三つ入れる。父がそう組んだ。
「キルセン公国、ブランデル男爵。活版印刷業。両国書簡集の刊行につきまして」
ブランデルさんが一歩出て、頭を下げた。
「著者、マレン・ハルスト」
名を呼ばれる。
わたくしは前に出て、頭を下げた。
床の石に、自分の靴の音が響いた。
顔を上げたとき、長官と目が合った。長官が少し眉を動かして、それからうなずかれる。書記のハルストの、下の娘である。
去年の夜会で、この方はわたくしの名を出さなかった。父の名だけを出して、よいご縁でしたな、と仰った。
正面の列で、何人かがこちらを見る。
トゥーレ伯も、こちらを見ておられた。
式次第では、次にヴェスタール側の挨拶がある。
儀典長が名を呼んだ。
「トゥーレ伯」
伯が一歩出た。
上着は去年の仕立てである。肩の線が少し落ちている。痩せられたらしい。
「本日は、遠路をお運びいただき」
そこまでは出た。
「両国のあいだに、これまで積み重ねてまいりました」
そこで止まった。
積み重ねてきたものが何なのかを、言わなければならない。信頼か、通商か、歳月か。
去年までなら、ここに川の名か、港の名か、相手の議会の名が入っていた。土地のものを一つ出して、それから積み重ねの語に戻る。そう組んであった。
伯は口を開いたまま、二秒ほど立っておられた。
わたくしは、その二秒を数えた。
書いている者は、人の息を数える癖がつく。読み上げる者がどこで詰まるかを、書く前に測るからである。
「積み重ねてまいりました、その」
床の音がしなくなった。誰も動かない。
その、で四拍。四拍あれば、一行書ける。
キルセンの使節の一人が、隣の者に何か囁いた。
儀典長が伯のほうを見た。
伯はこちらを向かれた。
正面の列から、うしろの列へ。人と人のあいだを通して、まっすぐに。
「マレン」
呼ばれた。
「頼む。いつものように、やってくれ」
いつものように。
十年で、この方が仕事の中身を名指しでお呼びになったのは、これで二度目である。一度目は離縁の朝で、文を組めるのは君だけだと仰った。二度とも、引き留めるためだけに出てきた言い方である。
石の床が、音を返した。誰かが足を動かしたのだと思う。
わたくしは、書簡集の表紙に置いた手をそのままにしていた。
十年、この方の言葉を組んできた。詰まったところを埋めてきたのは、この場所の外である。誰も見ていないところで、紙の上で、渡す前に。
埋めた紙は残らないことになっていた。焼けと言われていたからである。
いまは、人の前だった。
「ご自分の口で、はじめからどうぞ」
そう申し上げた。
どうぞ、で切った。切るところまで書いてから言った言葉ではない。口から先に出た。
声は荒げなかった。荒げる必要がない。この部屋は音がよく響く。
伯の顔が、いくらか白くなった。
石の床は音を返すだけで、間は返してくれない。書いた紙なら、詰まったところを一晩かけて直せる。声はそうならない。
「マレン」
「トゥーレ伯」
わたくしはそう呼び直した。十年、そう呼んだことがない。
「戻ってきてくれ」
伯はそう仰った。
戻らないことは、離縁状へ署名した日に決まっている。あの紙には、灰色のインクの粒が一つ落ちている。いまはもう黒い。
儀典長が咳をした。長官が伯の肩に手を伸ばしかけて、途中で下ろされた。
キルセンの使節が十二人、こちらを見ている。ヴェスタールの諸家が二列。ドゥブレ男爵と、そのうしろのドゥブレ嬢。
それから、書簡集を手に持った人が、この部屋に何人かいる。表紙の色が、列のあいだに三つ四つ見えた。
ブランデルさんは、一歩も前に出ない。
わたくしのほうだけを見て、それから床に目を落とされた。任せる、という形の動きだった。
わたくしは書簡集の表紙から手を離す。
離した手を、そのまま下ろした。袖が長いので、指の第二関節まで隠れる。
「三年前の秋の四行を、わたくしは四度書いております」
伯が瞬きをした。
「四度目を、あなたは二度お使いになりました」
儀典長が式次第の紙を握り直す音がした。
「一度目の宛先を、わたくしは存じません」
ドゥブレ男爵が、うしろを振り返った――二度目の宛先が、そこにいる。
ドゥブレ嬢は動かなかった。顔を上げて、まっすぐわたくしのほうを見ておられる。それから、誰にも見えない程度に頭を下げられた。
この部屋で、あの四行を最後まで言える者が二人いる。ひとりは書いた者で、ひとりは覚えた者である。
伯は、そこに入っていない。
「十年のあいだ、愛を仰っていたのはあなたで、書いていたのはわたくしです」
伯は何も仰らなかった。
口は開いている。言葉が出てくる形に開いている。
出てこなかった。
待った。この部屋の全員が待った。儀典長も、長官も、キルセンの十二人も、ドゥブレ男爵も。
儀典長が式次第の紙をめくる音がした。誰かが小さく咳をして、それきり静かになった。
長官が一歩前に出られる。
「使節をお待たせしている。続きは書記局で」
そう仰って、伯のほうは見なかった。
そのとき、列のいちばん端が動いた。
ヨストである。
六十八になる。四十年、この家の書簡を清書してきた男である。伯が書記局付きになってから、ヨストも一緒に王宮へ通っている。
ヨストは前に出て、伯の前に立った。
歩き方が遅い。膝が悪いのだと、嫁いだ年から知っている。それでも歩幅は変えない。四十年、この歩幅でこの王宮の廊下を歩いてきた人である。
上着の内から、小さなものを出した。
封蝋用の印章である。トゥーレ家の紋章の彫ってある、銀の柄のもの。いつも冷たいところに置いてあった。温まると蝋を引くからである。
「旦那様。お返しいたします」
伯は受け取らない。手を出さなかった。
ヨストは待った。十を数えるくらい待った。蝋が固まるのを待つときと同じ長さである。
ヨストは印章を、伯の足元の石の上に置いた。置いてから、一礼した。
「四十年、清書をしてまいりました。控えは焼いておりません。宮廷書記局に、写しを一部お預けしております」
長官が顔を上げられた。書記局、という語に反応なさったのだと思う。
伯は印章を見ていた。
紋章の印は、本人の署名の代わりとして扱われる。誰が字を組んだかは、どこにも残らない。嫁いだ年の冬に、ヨストがそう教えてくれた。
押される前の紙が、書記局にある。
儀典長が次の名を読み上げた。
キルセン公国の、通商の担当者である。
その人が前に出て、頭を下げた。式は進んだ。
ブランデルさんが名簿の紙を繰る音がした。次の頁を出しておくための音である。仕事の音だった。
伯はまだ、そこに立っておられた。口はもう閉じておられる。
誰も、伯の次の言葉を待たなくなった。




