第10話 宛名から
キルセンの春は遅い。
四月の半ばになって、川の氷がやっと切れた。工房の窓を開けると、水の匂いが入ってくる。
二版の刷りが上がったのは、その週の水曜だった。
「五百部です」
ヘルムさんが刷り台の脇で紙を数えている。二十枚ずつ束ねて、束の数を口の中で言いながら積んでいく。
「初版は三日で切れました。書店から催促が来まして、親方が組み直しを決めまして」
使節の間のことが王都の茶の席で回ったのだと、ブランデルさんは仰った。嘘だと言われた本は、みんな読みたがりますので、とも仰った。前に一度、下宿で聞いた言い方である。
「同じものを刷るのに、組み直すのですか」
「初版の版は、もう解いてあります」
ヘルムさんはそう言って、活字棚のほうを指した。
「解版すると、活字は一本ずつ棚に戻ります。同じ版は二度と組めません。込め物の入り方が一本ずつ違いますので」
「では、これは」
「同じ本を、別の版で刷ったものです」
わたくしはその言い方を、しばらく頭の中で置いていた。
同じ本を、別の版で。
十年ぶんは戻らない。戻らないものと、また作れるものがある。どちらがどちらかを、この二週間で覚えた。
工房の朝は音が多い。刷り台の軋みと、紙を繰る音と、ヘルムさんが活字を溝に立てる音。
わたくしは工房の二階に住んでいる。梯子で上がる部屋で、机が一つと寝台が一つある。机の左にインク壺、正面に紙、右にペン立てと吸取砂の小箱。並べ方は変えていない。
父の文鎮も、母の櫛も、帳面三冊も、木箱から出して並べてある。小刀は机の抽斗に入れた。
ブランデルさんが帳場から上がってきた。
「注文の束が届いています」
紙の束を机に置かれた。書店からの追加注文と、個人からの直接注文が混じっている。個人のものは封筒で来る。
いちばん上の封筒に、見覚えのない字があった。
丸みのある字で、払いが短い。書き慣れていない手である。
ヴェスタール王国、ドゥブレ男爵家。
わたくしは封を切った。
書簡集を一部、お送りいただきたく。代金は同封いたします。以上でございます。
三行だった。三行の下に、名前がある。
ノエミ・ドゥブレ。
わたくしはその三行を、二度読んだ。
自分の字で書いておられる。手紙の型は正しくない。書き出しの挨拶がなく、結びもない。ただ、要件と代金と名前がある。
去年の秋まで、この方が受け取っていた手紙には、書き出しも結びもあった。届くたびに三度読んで、覚えるまで読み返しておられた。
代金は、封筒の中に硬貨で入っていた。一部十二リーグ、きっかりである。
「返事は」とブランデルさんが訊かれた。
「送ります。品だけで」
「承知しました」
わたくしは注文票を書いて、束の上に置いた。
刷り上がったものを、一部だけ手に取った。
表紙は藍で、背に箔押しがある。開くと、扉がある。
マレン・ハルスト
ヴェスタール王国外交書簡集
二行が中央に置いてある。
指の腹で、名前のところをなぞった。
初版の一冊を、わたくしは使節の間で持っていた。表紙に手を置いていただけで、扉は開かなかった。開く場ではない。
活版は、紙に字を押し込む。押されたところは、わずかに凹んで、その縁が盛り上がる。
わたくしの名の七文字に、その膨らみがあった。
七文字を、端から順になぞった。マ、レ、ン、ハ、ル、ス、ト。中黒の点にも膨らみがある。活字にすれば八本になる。
インクはまだ薄い。刷ったばかりの黒で、日が経てば濃くなる。十年経てば、紫がかった黒になる。この本が誰かの棚にあるあいだ、字は濃くなり続ける。
「解版にかかります」
ヘルムさんの声がした。
わたくしは梯子を下りた。
植字台の上に、二版の版が置いてある。頁ごとに木綿糸で四辺を縛ってある。糸は太くない。それでも、この糸がほどければ千を超える活字が散る。
ヘルムさんが糸の結び目に指をかけた。
ほどく。
糸が緩んで、版の縁がわずかに動いた。
そこから先は速かった。ヘルムさんは活字を一本ずつ抜いて、棚の元の位置へ戻していく。目は棚を見ていない。手が場所を覚えている。
込め物が外れて、金物の受け皿に落ちた。落ちるたびに音が鳴る。行間のインテルと、字間のクワタと、余白を埋めていた大きな込め物と。
余白の分が、いちばん多かった。
版が軽くなっていく。
持ち上げてみると、はじめに置かれたときの半分ほどの重さになっていた。埋めていたものが抜けた分である。
わたくしは棚の前に立って、自分の名の八本が戻っていくのを見ていた。マの一本。レの一本。ンの一本。それぞれ別の抽斗に帰っていく。八本が並んでいたのは、この二週間だけである。
戻された一本を、ヘルムさんに断って手に取った。爪の先ほどの面に、字が逆さに彫ってある。地のほうに窪みがあって、指の腹で触ると分かる。上下を間違えないための印である。
軽い。これ一本では、何の重さもない。
「これで、この版はもうありません」とヘルムさんが仰った。
「はい」
「同じ本は、また組めばできます。同じ版は、できません」
戸口で音がした。
荷馬車が着いたらしい。ブランデルさんが出ていって、少ししてから戻ってこられた。後ろに、人がいた。
「ヨストさん」
「マレン様」
六十八の老人が、旅の外套のまま立っていた。荷は少ない。手に持てる鞄が一つと、脇に抱えた木箱が一つである。
「校正の者を探しておられると伺いました」
「ブランデルさんが」
「募集の紙を書店に出しておりました」とブランデルさんが仰った。「字を四十年見てきた人が要ります。うちのヘルムは速いが、意味では読みません」
ヘルムさんが手を止めずに言った。
「意味で読むと遅くなります」
ヨストさんは工房の中を見回した。刷り台と、植字台と、活字棚と。
「鉛でございますか」
「鉛です。触るとよくないので、手はよく洗ってください」
「承知しました」
それから、わたくしのほうを向かれた。
「旦那様は、書記局におられます。写しの整理を担当なさっております」
「そう」
「わたくしは先月、暇をいただきました」
それだけだった。ヨストさんは、それ以上ヴェスタールの話をなさらなかった。
訊けば、もう少し話されるのだと思う。訊かなかった。
ブランデルさんが植字台のほうへ歩いていって、空になった版枠を持ち上げる。
「次は、何を組みましょう」
そう訊かれた。
わたくしは棚を見ていた。八本の活字が戻った抽斗である。次に組めば、また別の八本が拾われる。
「父の帳面を出そうと思っております」
「お父上の」
「宮廷書記の言い回しを、二十年ぶん書き写した帳面が三冊ございます。誰の名でも出ておりません。書いた人の名は、どれも残っておりませんので」
父は「覚えるな、写せ」と言った。写した手が覚えるのだと。三冊のうち二冊は父の代の文で、三冊目はわたくしがこの十年に組んだものである。
「それは、あなたの名で出すことになりますが」
「はい」
わたくしは棚から目を離して、ブランデルさんのほうを見た。
「わたくしの言葉を、わたくしの名前で」
ブランデルさんは版枠を台に置いて、しばらくそのままにしておられる。
「マレン」
はじめて、名前で呼ばれた。
「刷ります。用紙の見積もりを出しますので、三日ください」
「お願いします」
それから、訊いた。訊くつもりはなかったのだけれど、口が先に開いた。
「ブランデルさんは、なぜ十年もお読みになったのですか」
ブランデルさんは版枠の縁に指をかけたまま、しばらく黙っておられる。
「答えに詰まります。二十年、詰まっております」
「二十年」
「役所にいたころから、理由を訊かれるたびに答えられませんでした。文がよかった、としか言えません」
台に置いた版枠が、少し鳴った。
「いまは、書いた人がわかりました。それだけです」
ヨストさんが、脇の木箱を持ち上げた。
「マレン様。お渡しするものがございます」
木箱を机に置いて、留め具を外される。中には紙が一枚だけ入っていた。
薄い、古い紙である。
十年前の、婚礼の祝辞の下書きだった。
字は真っ黒になっている。十年ぶんの黒で、紙に食い込んでいる。書いた晩は、こんな色ではなかった。壺から出したばかりのインクは、灰に近い色をしていた。
わたくしは紙を持ち上げる。
宛名の欄に、字が入っていた。
マレン・ハルスト
ヨストさんの字である。傾きが揃っていて、払いのところで少し止まる。四十年、この字を見てきた。
この字で清書された文書が、王宮の書庫に何百とある。どれにも、この人の名はない。
削り取ったところの上に、書いてある。紙が薄くなっているので、そこだけインクが少しにじんでいた。
「焼けと言われた紙を、四十年で一枚だけ焼きませんでした」
ヨストさんはそう仰った。
「奥様が削っておられるのを、廊下から見ておりました。朝でございました。声はかけませんでした」
削るには、まず書かなければならない。
嫁いだ年の秋の終わりに、わたくしは宛名の欄へ自分の名を入れた。翌朝、小刀で削いだ。清書のとき旦那様が別の名を入れる。空けておかなければならない。そう考えて、削った。
考えたことは、誰にも言わなかった。
「返す機会を、探しておりました」
ヨストさんは一礼して、旅の外套を脱いだ。それから袖をまくって、洗い場のほうへ歩いていかれた。手はよく洗ってくださいと言われたからである。
工房の音が続いている。刷り台の軋み。ヘルムさんが活字を溝に立てる音。川の氷が切れた匂い。
わたくしは机に向かった。
紙を一枚取って、壺の栓を抜いた。羽根は自分で下処理をしてある。軸を一晩水に浸けて、乾かしたものである。
インクを浸けて、紙の上へ運ぶ。
穂先が触れる前に、手が止まった。書き出しの型が三つ浮かんだからである。
三つとも、使わなかった。
見積もりは三日で出る。それまでに、こちらから一通渡しておきたい。
書く相手の名を、わたくしはまだ声で呼んだことがない。
今度は、宛名から書きはじめた。




