第8話 四十年見てまいりました
初冬の夜は長い。日が落ちてから明けるまで、十四時間ある。
僕は日暮れに書斎へ入って、扉を閉めた。
明後日までに三通いる。東方の書記官への詫び状が一通。長官への近況報告が一通。南の諸侯からの祝いに対する礼が一通。
どれも急ぎではない。急ぎでないものが溜まっている。
急ぎのものは、もう来ない。東方が止まってから、外務長官はこちらへ案件を回されなくなった。
蝋燭を四本立てた。二本では手元が暗い。
マレンは二本で書いていた。立ててみると、二本では紙の右半分に影が落ちる。
壺を左に置いた。右に置くと袖が触れると、ヨストに言われている。
一通目にかかった。
東方の書記官へ。先の書状につきまして。
そこで止まった。
先の書状につきまして、の次に、何を書くのか。急かしたことを詫びる。急かしたつもりはなかった、と書けば言い訳になる。言い訳にならないように詫びるには、どう書けばいいのか。
先方には先方の議会がある。長官はそう仰った。議会に触れればよいのだろうか。
蝋燭が一本目の半分まで来た。
紙を替えた。
東方の書記官へ。過日の書状にて、こちらの意を正しくお伝えできず。
書きながら、これは前に読んだ形だと思った。文例集の第二章にある。写しになる。相手はこちらの文例集を持っていないが、写しかどうかは読めば分かる。マレンの文と、僕の文の差が読めた人たちである。
急かすという意が、正しく伝わったから怒られた。
紙を替える。
三通目の紙で、僕はまた最初の行に戻った。
二通目までは、まだ手が動いた。三通目は、羽根を持ったまま動かなかった。
東方の書記官へ。
そこから動かなくなった。
蝋燭が二本目にかかったころ、廊下でヨストの足音がした。
「旦那様。灯をお替えいたしましょうか」
「いい」
「砂を切らしておられるようでしたので、お持ちしました」
扉が開いて、ヨストが吸取砂の小箱を置く。
僕は書いていない紙を裏返した。裏返してから、裏返す必要のないことに気づいた。何も書いていないのだから、見られて困るものがない。
ヨストは紙のほうを見なかった。
「もう休め」
「はい」
ヨストは下がった。
砂の小箱を、僕は使わなかった。吸わせるインクがない。
小箱の蓋は、開けたまま夜が明けた。
夜半を過ぎた。
四本目の蝋燭が短くなって、机の上の影が動く。
僕は椅子にもたれて、天井を見た。
去年の冬、マレンが熱を出した晩がある。
朝までに三通いると僕が言って、マレンは書斎に入った。翌朝、机の上に三通あった。僕はその日、長官と昼を食べて、書簡の出来を褒められた。
熱があると言ったのは、マレンではない。侍女が僕にそう伝えに来た。マレンは何も言わなかった。
あのとき、マレンは何時間机に向かっていたのか。
考えたことがなかった。
僕は紙を見た。十四時間で、東方の書記官へ、の七文字である。
窓の外が白みはじめた。
鳥が鳴いている。庭師が来るのは六時で、それまでにはまだ間がある。
扉が叩かれた。
「旦那様」
「入れ」
ヨストが入ってきた。両手で何かを抱えている。
紐で束ねた紙束が、いくつも重なっていた。ヨストが机の端に置く。置くときに、机が鳴った。
「なんだ、これは」
「下書きの控えでございます」
僕は紙束を見た。十束ある。背にあたるところに年が書いてある。いちばん古いのが十年前で、いちばん新しいのが今年だった。
「焼けと言ったはずだ」
「はい」
「十年前に言った」
「承っております」
ヨストはそれ以上言わなかった。
僕は上から二つ目の束を取った。
重い。紙だけでこれほど重いとは思わなかった。片手では持ち上がらず、両手を使った。
紐を解いた。
いちばん上の一枚は、四年前の春のものである。北の伯爵家への弔辞の下書きだった。
字は濃い。紫がかった黒で、紙に食い込んでいる。四年前に置かれたインクが、いまいちばん濃い。
読んだ。覚えがある。読み上げた記憶がある。
僕の字ではない。
弔辞は、僕が北の伯爵家の霊前で読んだ。
次の一枚。夜会の挨拶。これも覚えがある。これも僕の字ではない。
次。商会への礼状。
その次。婚礼の祝辞。
次。叙任の口上。
次。年始の挨拶。
その次。領地の作柄の照会。
次。長官への就任の祝い。これは三年前で、あのとき長官は僕の肩を叩いて、若いのに古い言い方をよく知っていると仰った。
また次。西の司教への見舞い。
次。ドゥブレ男爵家への招待の返書。
次。贈り物に添える札。今年の秋のもので、六通り作ってある。四番目に丸が付いていた。僕の字である。
四番目は、銀の文鎮に添えて馬車の中で渡している。文はヨストに考えさせたと、僕はそのとき言った。
僕は一枚ずつめくる。めくる速さが上がっていった。四年前の束をめくり終えて、三年前の束に手を伸ばした。
紐が固い。爪を立てて解いた。
三年前の秋。
一枚目。
言葉にすると薄くなる気がして、これまで言わずにきた。ずいぶん、待たせた。
四行ある。見覚えのある四行だった。
これを僕は、寝室で言った。三年前ではない。この秋である。マレンの髪に触れながら、この四行を言った。
そして三年前には、この四行を別の宛先に送っている。
紙の右上に、小さな印が二つ付いていた。
墨で丸を描いてある。一つは薄い。もう一つは濃い。二回、この一枚を使った印である。
薄いほうも、置かれた当時は濃かったはずである。インクは日が経つと濃くなる。濃さの違いは、時の隔たりである。
一つ目は三年前。相手の名は出さない。二つ目は去年の秋で、ドゥブレ嬢である。
同じ紙から、二人に送った。
そして今年、同じ四行を妻に言った。
四行のうち三行目までは、そのまま使ってある。四行目だけ、二度目に少し直っていた。直したのは僕ではない。
僕は三年前の束を置いた。
置いてから、いちばん古い束に手を伸ばした。十年前である。
一枚目。婚礼の祝辞。従弟のものだ。
宛名の欄がある。ほかの頁は空白だが、この一枚だけ、紙の表が薄く削られていた。指でなぞると、そこだけざらつく。
何が書いてあったのかは分からない。削ってあるから読めない。
削り方は丁寧だった。深すぎず、浅すぎず、何度も往復させてある。
僕は十束を机に並べた。
僕はいちばん新しい束を開いた。今年のぶんである。三十七枚あった。指で数えた。
三十七枚とも、マレンの字だった。
一年に四十枚として、十年で四百枚。
その四百枚のうち、僕が書いたものは何枚あるのか。
一枚ずつ確かめる必要はなかった。ヨストが清書したものは全部ここにある。
離縁状が一通。
マレンへの復縁の手紙が一通。文例集から写したものだ。
二通。
十年で、二通である。そのうち一通は写しだから、一通。
その一通も、三行で、ヨストに形式を二度直された。
僕は机の上の十束を見ていた。
「ヨスト」
「はい」
「これは、なぜ焼かなかった」
ヨストは机の端に立ったままでいる。
「控えは焼くものではございませんので」
「僕が焼けと言った」
「はい」
「なぜ従わなかった」
ヨストは答えずに、机の上の十束を一つずつ揃えはじめた。角を合わせ、紐をかけ直し、背の年が並ぶように置き直していく。四十年やってきた手つきだった。
十束目の紐を結び終えて、それから僕のほうを向いた。
「旦那様。奥様の字は、四十年のうち十年ぶん見てまいりました。旦那様の字は、一度も」
紐の端が、机の縁から垂れている。
窓の外で、庭師の鋏が二度鳴って、止まった。
返す言葉が、一つも出てこない。




