表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたが仰った愛の言葉は、すべてわたくしが書いたものです  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/10

第8話 四十年見てまいりました

初冬の夜は長い。日が落ちてから明けるまで、十四時間ある。


僕は日暮れに書斎へ入って、扉を閉めた。


明後日までに三通いる。東方の書記官への詫び状が一通。長官への近況報告が一通。南の諸侯からの祝いに対する礼が一通。


どれも急ぎではない。急ぎでないものが溜まっている。


急ぎのものは、もう来ない。東方が止まってから、外務長官はこちらへ案件を回されなくなった。


蝋燭を四本立てた。二本では手元が暗い。


マレンは二本で書いていた。立ててみると、二本では紙の右半分に影が落ちる。


壺を左に置いた。右に置くと袖が触れると、ヨストに言われている。


一通目にかかった。


東方の書記官へ。先の書状につきまして。


そこで止まった。


先の書状につきまして、の次に、何を書くのか。急かしたことを詫びる。急かしたつもりはなかった、と書けば言い訳になる。言い訳にならないように詫びるには、どう書けばいいのか。


先方には先方の議会がある。長官はそう仰った。議会に触れればよいのだろうか。


蝋燭が一本目の半分まで来た。


紙を替えた。


東方の書記官へ。過日の書状にて、こちらの意を正しくお伝えできず。


書きながら、これは前に読んだ形だと思った。文例集の第二章にある。写しになる。相手はこちらの文例集を持っていないが、写しかどうかは読めば分かる。マレンの文と、僕の文の差が読めた人たちである。


急かすという意が、正しく伝わったから怒られた。


紙を替える。


三通目の紙で、僕はまた最初の行に戻った。


二通目までは、まだ手が動いた。三通目は、羽根を持ったまま動かなかった。


東方の書記官へ。


そこから動かなくなった。


蝋燭が二本目にかかったころ、廊下でヨストの足音がした。


「旦那様。灯をお替えいたしましょうか」


「いい」


「砂を切らしておられるようでしたので、お持ちしました」


扉が開いて、ヨストが吸取砂の小箱を置く。


僕は書いていない紙を裏返した。裏返してから、裏返す必要のないことに気づいた。何も書いていないのだから、見られて困るものがない。


ヨストは紙のほうを見なかった。


「もう休め」


「はい」


ヨストは下がった。


砂の小箱を、僕は使わなかった。吸わせるインクがない。


小箱の蓋は、開けたまま夜が明けた。


夜半を過ぎた。


四本目の蝋燭が短くなって、机の上の影が動く。


僕は椅子にもたれて、天井を見た。


去年の冬、マレンが熱を出した晩がある。


朝までに三通いると僕が言って、マレンは書斎に入った。翌朝、机の上に三通あった。僕はその日、長官と昼を食べて、書簡の出来を褒められた。


熱があると言ったのは、マレンではない。侍女が僕にそう伝えに来た。マレンは何も言わなかった。


あのとき、マレンは何時間机に向かっていたのか。


考えたことがなかった。


僕は紙を見た。十四時間で、東方の書記官へ、の七文字である。


窓の外が白みはじめた。


鳥が鳴いている。庭師が来るのは六時で、それまでにはまだ間がある。


扉が叩かれた。


「旦那様」


「入れ」


ヨストが入ってきた。両手で何かを抱えている。


紐で束ねた紙束が、いくつも重なっていた。ヨストが机の端に置く。置くときに、机が鳴った。


「なんだ、これは」


「下書きの控えでございます」


僕は紙束を見た。十束ある。背にあたるところに年が書いてある。いちばん古いのが十年前で、いちばん新しいのが今年だった。


「焼けと言ったはずだ」


「はい」


「十年前に言った」


「承っております」


ヨストはそれ以上言わなかった。


僕は上から二つ目の束を取った。


重い。紙だけでこれほど重いとは思わなかった。片手では持ち上がらず、両手を使った。


紐を解いた。


いちばん上の一枚は、四年前の春のものである。北の伯爵家への弔辞の下書きだった。


字は濃い。紫がかった黒で、紙に食い込んでいる。四年前に置かれたインクが、いまいちばん濃い。


読んだ。覚えがある。読み上げた記憶がある。


僕の字ではない。


弔辞は、僕が北の伯爵家の霊前で読んだ。


次の一枚。夜会の挨拶。これも覚えがある。これも僕の字ではない。


次。商会への礼状。


その次。婚礼の祝辞。


次。叙任の口上。


次。年始の挨拶。


その次。領地の作柄の照会。


次。長官への就任の祝い。これは三年前で、あのとき長官は僕の肩を叩いて、若いのに古い言い方をよく知っていると仰った。


また次。西の司教への見舞い。


次。ドゥブレ男爵家への招待の返書。


次。贈り物に添える札。今年の秋のもので、六通り作ってある。四番目に丸が付いていた。僕の字である。


四番目は、銀の文鎮に添えて馬車の中で渡している。文はヨストに考えさせたと、僕はそのとき言った。


僕は一枚ずつめくる。めくる速さが上がっていった。四年前の束をめくり終えて、三年前の束に手を伸ばした。


紐が固い。爪を立てて解いた。


三年前の秋。


一枚目。


言葉にすると薄くなる気がして、これまで言わずにきた。ずいぶん、待たせた。


四行ある。見覚えのある四行だった。


これを僕は、寝室で言った。三年前ではない。この秋である。マレンの髪に触れながら、この四行を言った。


そして三年前には、この四行を別の宛先に送っている。


紙の右上に、小さな印が二つ付いていた。


墨で丸を描いてある。一つは薄い。もう一つは濃い。二回、この一枚を使った印である。


薄いほうも、置かれた当時は濃かったはずである。インクは日が経つと濃くなる。濃さの違いは、時の隔たりである。


一つ目は三年前。相手の名は出さない。二つ目は去年の秋で、ドゥブレ嬢である。


同じ紙から、二人に送った。


そして今年、同じ四行を妻に言った。


四行のうち三行目までは、そのまま使ってある。四行目だけ、二度目に少し直っていた。直したのは僕ではない。


僕は三年前の束を置いた。


置いてから、いちばん古い束に手を伸ばした。十年前である。


一枚目。婚礼の祝辞。従弟のものだ。


宛名の欄がある。ほかの頁は空白だが、この一枚だけ、紙の表が薄く削られていた。指でなぞると、そこだけざらつく。


何が書いてあったのかは分からない。削ってあるから読めない。


削り方は丁寧だった。深すぎず、浅すぎず、何度も往復させてある。


僕は十束を机に並べた。


僕はいちばん新しい束を開いた。今年のぶんである。三十七枚あった。指で数えた。


三十七枚とも、マレンの字だった。


一年に四十枚として、十年で四百枚。


その四百枚のうち、僕が書いたものは何枚あるのか。


一枚ずつ確かめる必要はなかった。ヨストが清書したものは全部ここにある。


離縁状が一通。


マレンへの復縁の手紙が一通。文例集から写したものだ。


二通。


十年で、二通である。そのうち一通は写しだから、一通。


その一通も、三行で、ヨストに形式を二度直された。


僕は机の上の十束を見ていた。


「ヨスト」


「はい」


「これは、なぜ焼かなかった」


ヨストは机の端に立ったままでいる。


「控えは焼くものではございませんので」


「僕が焼けと言った」


「はい」


「なぜ従わなかった」


ヨストは答えずに、机の上の十束を一つずつ揃えはじめた。角を合わせ、紐をかけ直し、背の年が並ぶように置き直していく。四十年やってきた手つきだった。


十束目の紐を結び終えて、それから僕のほうを向いた。


「旦那様。奥様の字は、四十年のうち十年ぶん見てまいりました。旦那様の字は、一度も」


紐の端が、机の縁から垂れている。


窓の外で、庭師の鋏が二度鳴って、止まった。


返す言葉が、一つも出てこない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ