第7話 ハルストという名
下宿の部屋は、三方が壁で、南に窓が一つある。
寝台と、卓と、椅子が二つ。
卓の上に、買ってきた書簡箋が二十枚ある。まだ一枚も使っていない。
下宿に移って三週間になる。木箱の中身はまだ半分しか出していない。父の文鎮と、母の櫛と、帳面が三冊。小刀は卓の抽斗に入れた。
窓の桟に肘をつくと、通りの向かいの靴屋の看板が見える。朝から見ていた。
昼前に、階下の女将が上がってきた。
「客ですよ。男の人。名乗りましたけど、聞いたことのない名で」
「どんな方」
「背は高いです。手が汚れてます」
通してもらった。
入ってきたのは、三十半ばの男である。外套は上等だが、指の先と爪のあいだが黒い。
鉛と油の匂いがした。
「ブランデルと申します。キルセン公国で印刷の工房をやっております」
「トゥーレでございます」
「存じております」
男は帽子を脇に抱えたまま、部屋の中を見ない。
「坐ってもよろしいですか」
「どうぞ」
もう一つの椅子を引いた。男は坐って、外套の内から一枚の紙を出して、卓に置いた。
紙屋の注文票の控えだった。
二枚重ねの下のほうである。折り目が一つもついていない。
「三日前に、バルク商会で買いました。十リーグ払いました。所書きが入っておりましたので、こちらへ伺いました」
「なぜ」
「あなたが書かれたものだからです」
わたくしは控えを見た。自分の字である。
「これを、どうなさるおつもりで」
「確かめました。それだけです」
男はそう言って、卓の上に手を置いた。爪の黒いほうの手である。
「右手の側面に、染みがおありでしょう。小指の付け根から下のあたりです」
わたくしは膝の上の手を動かさなかった。
「触れずとも分かります。毎日書く方にしかつきません。私にもございます」
男は手の側を上に返した。薄く、灰色がかった帯が走っている。
「本題を申し上げます。あなたの書かれた書簡を、集めて刷りたい。文例集ではなく、書簡集として。公国とヴェスタールの双方で売ります」
「外交の書状でございます」
「公示に回った分だけです。両国の書記局が写しを出したものしか入れません。機密は一通も触りません」
「わたくしの」
「初版五百部。用紙と組版と刷りで、四百二十リーグかかります。全部こちらが出します。売れれば折半にいたします」
数字を先に言う人だった。
救うと言われるのだろうと思っている。
「そして」
男は続けた。
「あなたの名前で刷ります。売れなければ、私の損です」
わたくしは窓のほうを見た。靴屋の看板がまだ揺れている。
「お断りいたします」
「理由を伺っても」
「あの書簡は、トゥーレ伯の名で出したものでございます。わたくしの名で刷れば、伯の家に迷惑がかかります」
「迷惑」
「はい」
「離縁なさったと伺いました」
「それでも、伯の名で出たものは伯のものでございます」
男はしばらく黙っていた。それから、卓の上の自分の手を見た。
「本年ヴィルデ川の水が高かったと伺いました」
窓の外の看板が揺れている。
「麦のことを案じております」
靴屋の前を、子供が二人走っていった。
「据え置きの儀につきましては、そちらの議会のご都合もございましょうから、時期はお任せいたします」
男は思い出す仕草をひとつもしなかった。目を上げも、瞬きを増やしもしない。卓の上の手を見たまま、水を注ぐような速さで言い終えた。
十年前の秋、この部屋よりもっと寒い書斎で、わたくしが四行目を消して書き直した文である。
「あなたが、それを」
「十年、読んでおります」
わたくしは椅子の背に手をかけた。立とうとしたのか、坐り直そうとしたのか、自分でも分からなかった。
十年前の秋である。
嫁いだ年だった。据え置きを求める書状に、断る余地を先に渡すという書き方は、父の帳面から取った。
あの秋は雨が多かった。書斎の窓が閉め切りで、紙が湿って、インクの乗りが悪かったのを覚えている。
書いたとき、これは通らないと思った。
通った。
旦那様は「うまくいったな」と仰る。それだけだった。
「あの一行は」
わたくしは言いかけて、止めた。
「時期はお任せいたします、のところですか」
「はい」
「あそこがあるので、あの書状は断れないんです。急かしていないから、断る理由が立たない」
男が控えを指で少し押す。
「今月の礼状には、ありませんでした」
わたくしは黙っていた。
「速やかなご決断を賜りたく、と書いてありました。あれは急かしています」
窓の下を、荷車が通っていく音がした。
「ブランデルさん」
「はい」
「わたくしが書いたと申し上げても、誰も信じません」
言ってから、自分が声を出したことに気づいた。この十年、こういう言い方をしたことがない。
「伯爵夫人が外交書簡を組んでいたなどと、誰も信じません。信じたところで、書いたのは伯で、わたくしが手を入れただけだと言われます。名を出せば、嘘をついていると言われます。嘘をついた女として残ります」
男は慰めなかった。
うなずきもしない。卓の上の手を組み替えて、それから言った。
そうですね、とも、そんなことはありません、とも言わなかった。
「嘘だと言われた場合、初版は回収になります。回収して刷り直すと、一部あたり九十リーグの損です。五百部で四万五千リーグ」
「そんな話をしているのでは」
「損の話をしています。私の損です」
男がこちらを見る。
「あなたの損ではありません」
わたくしは椅子に坐った。
「二版目は売れます。嘘だと言われた本は、みんな読みたがりますので」
そう言って、男は少しだけ口の端を上げた。笑ったのだと思う。
胸のあたりが、妙な具合になっていた。損の計算に、わたくしが入れられている。
「考えます」
「いつまでに」
「三日」
「では三日後に伺います」
男は帽子をかぶって、扉のところで振り返った。
「トゥーレ夫人。刷るときの名は、どちらにいたしますか」
「どちら、と」
「ご婚家の名か、ご実家の名か」
わたくしは答えない。
その日の夕方、兄からの手紙が届いた。
三年ぶりに、季節の挨拶以外のことが書いてあった。
トゥーレ伯から仲介の依頼が来ている。話を聞くだけでも聞いてやってはどうか。伯は反省しておられる。家の体面もある。おまえももう二十六だ。
兄の字は父に似ている。払いの止め方が同じで、読点は二つしか置かない。そこだけは似なかった。
読み終えて、卓に置いた。
書簡箋を一枚取った。二十枚のうちの一枚目である。
壺の栓を抜いて、羽根を浸した。この羽根は自分で下処理をした。軸を一晩水に浸けて、乾かしてある。
兄上へ。
そう書いて、次を考えた。
考えなくても書ける文が三つ浮かんだ。どれも、断りながら相手の顔を立てる型である。父の帳面にある。十年、旦那様のために使ってきた。
使わなかった。
顔を立てる相手が、いない。
お話を伺うつもりはございません。仲介はお断りください。
三行で終えた。読み返して、直すところがなかった。
砂を振って、傾ける。粒が卓の縁で鳴った。
インクは灰色に近い。明日には濃くなる。
三日後、ブランデルさんが来た。
「ハルストで」
そう申し上げた。
「承知しました」
それだけである。理由も訊かれなかった。
それから、この人は帽子を取って、言い直した。
「ハルスト様。契約はこちらで作ります。読んでから署名してください。読まずに署名される方が多いので、申し上げております」
ハルスト様、と呼ばれた。
十年、そう呼ばれたことがない。父が死んでからは、誰もその名でわたくしを呼ばなかった。
キルセンへ渡ったのは、その十日後である。
工房は川沿いの石造りで、中は思っていたより明るかった。窓が高いところに並んでいる。鉛と油と紙の匂いがする。
「ヘルム。扉の見本を組んでくれ」
呼ばれた男が、活字棚の前に立った。
原稿を見て、棚から一本ずつ拾っていく。目は棚を見ていない。手だけが動く。拾ったものを文選箱の溝に立てて、右から詰めていく。
「一刻で千二百拾います」とブランデルさんが言った。
ヘルムさんが箱を持って、植字台へ移った。ステッキという鉤型の金具に、六字ずつ並べていく。
マレン・ハルスト。
八本の活字が、金具の上に並んだ。
一本目を拾うとき、ヘルムさんは指の腹で活字の地の面をなでた。窪みが彫ってあるのだと、あとで教わった。上下を間違えないための印である。
一行組み終わると、ヘルムさんは薄い金属の板を挟んだ。
「インテルです」とブランデルさんが言った。「行と行のあいだに入れます」
「詰め物ですか」
「行間です。空けるために、金物を入れます」
わたくしはその板を見ていた。
「字と字のあいだも同じです。空けたいところには、クワタという金物を挟みます。余白のところは、全部込め物で埋めます」
「埋めるのですか」
「埋めないと動きますので。一頁ぶん組むと、版はかなり重くなります。余白の多い頁ほど、金物がたくさん入りますから」
「刷り終えたら、これはどうなさるのですか」
「解きます。糸をほどいて、活字を一本ずつ棚に戻します。解版と申します」
「また組めますか」
「同じものは組めません。似たものは組めますが、同じにはなりません。込め物の入り方が一本ずつ違いますので」
ヘルムさんが組み上がった一行を持ち上げた。
わたくしは近寄って、上から覗き込んだ。
鉛の面が、窓からの光で鈍く光っている。字は左右が逆になっていて、読むには裏返さなければならない。
わたくしの名が、鉛で組まれていた。




