第6話 この人ではなかった
十一日ぶりに、手紙が来た。
朝の便で、いつもと同じ封筒で、いつもと同じ紋章が押してある。蝋の色は深い赤で、押しの深さも同じだった。
紋章は葡萄の房と鍵を組み合わせた形で、房の粒が七つある。
わたしは廊下で受け取って、そのまま部屋まで走った。
窓際の椅子に坐って、封を切る。
紙を開いた。
字は、いつもの字だった。
折り目は三つ。
トゥーレ家の書記の方が清書なさるのだと、いつか聞いた。丁寧で、傾きが揃っていて、払いのところで少しだけ止まる。この字を、わたしは十一か月見ている。
ノエミ。
このところ会えていない。忙しくしている。
僕は君のことを考えている。よく考えている。
僕が落ち着いたら会いたい。落ち着いたら、必ず。
元気でいてほしい。僕は元気だ。
また書く。
読み終えて、もう一度はじめから読んだ。
二度読んで、裏を返した。
いつもなら、三度読む。一度目は速く、二度目はゆっくり、三度目は声に出さずに口を動かして読む。
裏には何もなかった。
わたしは紙を膝に置いて、しばらく窓の外を見ていた。庭の梨の木の葉が、半分ほど黄色くなっている。
十一日のあいだ、わたしは毎朝、玄関のほうの音を聞いていた。
もう一度、紙を持ち上げた。
行が六つある。そのうち三つに、僕、という字が入っている。
いつもは入っていない。
いつもの手紙には、わたしの側のものが必ず一つ書いてある。うちの庭の梨のこと。去年の雪が三日で溶けたこと。わたしが返事に書いた、詩をよく知らないという一言。書いてあるのは一行だけで、褒めてもいないし、持ち上げてもいない。ただ、名を出してある。
その一行があるのとないのとで、手紙の重さがまるで違う。
今日の手紙には、それがない。
わたしは立ち上がって、寝台の下から箱を出した。
紫檀の箱で、十三の誕生日に父からもらったものである。中に手紙が入っている。
日の順に綴じてある。
いちばん古いのが上になるように紐で束ねて、届いた順に足していく。前からそうしていたけれど、それでよいと言ってくださった方がいた。夜会で、柱のところに立っておられた方である。
わたしはそのとき、失礼なことを申し上げてしまって、それでもその方は怒らずに、大切になさってくださいませ、と仰った。
お名前は、トゥーレ夫人という。
あとで思い返して、顔から火が出た。トゥーレ夫人の前で、そのご主人のお手紙のことを話してしまった。
紐を解いた。
いちばん上が、去年の秋のものだ。
字が濃い。真っ黒に近い。インクは日が経つと濃くなるのだと、書記の家の方が言っていたと聞く。一年経った字は、こんなに黒くなる。
読んだ。覚えている。覚えているけれど、読んだ。
言葉にすると薄くなる気がして、これまで言わずにきた。
ずいぶん、待たせた。
この二行を、わたしは夜会で暗唱している。五行目で恥ずかしくなって止めた。あのとき輪の方々が笑って、わたしも笑った。
次の一通。
冬のもの。うちの庭に雪が積もった日のことが書いてある。積もった日を、この方は知っていた。
その次。
春のもの。梨が咲いたと書いてある。梨が咲くのは四月の終わりで、この方はうちに来たことがない。
来たことがないのに、知っている。
梨が咲いたと、わたしが先に書いたからである。三月の終わりの返事に、蕾がふくらんだと書いた。
わたしは紙を一枚ずつ、膝の上に並べていった。十一か月ぶんで、二十四通ある。
並べていくと、色が変わっていくのが見えた。
古いものは黒い。新しいものは、少しずつ灰色に近づいていく。いちばん新しい今日のものは、まだ灰に近い色をしていた。
並べると、順番が色でわかる。日の順に綴じなくても、色を見れば並べ直せる。
いちばん古い一通と、今日の一通を、両手に持って並べた。
字は同じだった。傾きも、払いも、行間も、寸分違わない。同じ人が書いている。
言葉が、別人だった。
似ているところを探す。言い回しでも、句の切り方でも、どこか一つ重なっていればよかった。
重なっているのは、字だけだった。
わたしは膝の上の紙を、しばらく見ていた。
窓の外で、庭師が梨の枝を切っている音がする。
「わたし、この方の字は好きでした」
声に出して言った。誰も聞いていない。
言ってから、それが正しくないことに気づいた。
字が好きだったのなら、今日の手紙も好きなはずである。字は同じなのだから。
好きだったのは、字ではない。
一年前、はじめて手紙をいただいたとき、わたしは詩というものを知らなかった。読んで、こういうものかと思った。それからずっと、届くたびに三度読んで、気に入ったところを覚えている。覚えたところを、人前で言ってしまうくらいには覚えた。
夜会で暗唱したとき、わたしは自慢していたのだと思う。この方に選ばれたのだと、みなさんに知ってほしかった。
あれを書いた人が、どこかにいる。
その人は、わたしの庭の梨を知っていて、雪の日を知っていて、詩を知らないというわたしの一言を知っていた。
どれも、わたしが返事に書いたことである。
わたしの手紙は、二十四通ぜんぶ、その人に読まれている。
わたしは、その人に会ったことがない。
膝の上の紙を集めて、日の順に重ね直した。いちばん古いのを上にして、紐で束ねる。
今日の一通は、いちばん下に置いた。
箱に戻す。
蓋を閉めた。
留め金の音が、思ったより大きく鳴った。
母が階下から呼んでいる。午後に客が来る日だった。
「いま行きます」
返事をして、箱を寝台の下に押し込んだ。
トゥーレ伯からは、また書く、と書いてあった。
書かれても、もう読まない。会いたいと言われても、もう行かない。
立ち上がって、鏡の前を通った。
目のあたりが赤い。冷やしてから下りることにする。
手巾を濡らして、目に当てる。
暗い視界のなかで、去年の秋の二行がまた出てきた。言葉にすると薄くなる気がして、これまで言わずにきた。
ずいぶん、待たせた。
いい文だと思う。いまでもそう思う。
わたしが好きだったのは、この人ではなかった。




