第5話 三十二頁
東方の使節が引き揚げたという報せは、朝食のあいだに届いた。
僕は卵を割る手を止めて、二度読んだ。
関税の据え置きについては本国の意向を確認する必要が生じたため、一旦帰国する。再開の時期は追って通知する。
「使いをやってくれ。今日中に会いたいと」
「かしこまりました」
給仕が下がった。
僕は書状をもう一度読んで、それから、こちらから出した先月の書簡の控えを持ってこさせた。
自分で書いたものである。三晩かけて書いた。文法の誤りはない。数字も正確だ。据え置きの根拠を四つ並べて、最後に決断を促してある。
根拠の一つ目は昨年の通行量、二つ目は今年の見込み、三つ目は先方の港の改修費、四つ目は両国の慣例である。
速やかなご決断を賜りたく。
そこを二度読んだ。
昼過ぎに、外務長官から呼び出しがあった。
長官の執務室は北向きで、いつも寒い。長官は暖炉を焚かせない。
壁ぎわに書棚が二つあって、条約の綴りが年ごとに並んでいる。背の年が揃っているのを見ると、どこかで見た並びだと思う。
「東方の件は聞いた」
「はい」
「先方の書記官が、こちらの文面に不服だったそうだ」
「不服、と申しますと」
「急かされた、と言っている」
長官は僕の書簡の写しを机に置かれた。
「速やかなご決断を賜りたく」
長官が読み上げる。
「これは、こちらが決めろと言っているのと同じだ。相手には相手の議会がある。急かせば面子が潰れる」
「そのつもりでは」
「つもりの話はしていない。書いてあることの話をしている」
僕は黙った。
外は曇っていた。窓の桟に埃が溜まっている。
長官は写しを指で二度叩かれた。
「トゥーレ。先の宴の締めは見事だった」
「恐れ入ります」
「実りの秋と申しますが、この国の実りは畑にばかりあるのではない。あれだ。あれを聞いたときに、私はこの男は伸びると思った」
「ありがとうございます」
「あれと同じ手で書けばよいものを、なぜこんな文になる」
答えられなかった。
僕はその道筋を持っていない。あの一文がどうやって出てきたのかを、僕は知らない。
「宴のときは、頭に浮かんだままだと言っていたな」
「はい」
「浮かばなくなったのか」
長官はそう仰って、僕の顔をしばらく見ておられた。それから写しを引き出しに戻された。
「東方は当分動かん。しばらく静かにしていろ」
帰りの馬車で、僕は長官の言葉を反芻していた。
あれと同じ手で書けばよいものを。
同じ手も何も、あの締めの一文は四日前に書いたものだ。書いたのはマレンだが、考えたのは僕である。実りと人を並べるという発想は僕が出した。マレンはそれを文の形にしただけだ。
形にするというのは、そんなに難しいことなのか。
馬車が石畳の継ぎ目を越えるたびに、腰が浮く。
三日後の夜会で、僕は挨拶をした。
短い挨拶である。招いてくださった家への礼と、季節の話と、その家の当主の近況に触れて締める。型は決まっている。二百人の前で三十秒。
当主の近況というのが、いちばん効く。名を出して、細かいところを一つ触れる。それだけで場が和む。
「本日はお招きにあずかり、まことに」
そこで、次が出てこなかった。
まことに、の次に何が来るのか。ありがたく、だったか。光栄に存じ、だったか。
二百人が待っている。
広間の音がひとつも聞こえなくなった。硝子の触れる音も、衣擦れも消えている。
「まことに、光栄に存じます」
言った。
言ってから、季節の話に移ろうとして、この家の当主が先月何をしたのかを思い出せないことに気づいた。
「この季節は、その」
誰かが咳をする。
「実りの秋でございますな」
助け舟を出したのは、隣にいた老侯爵だった。
「さようでございます」
僕はそう答えて、頭を下げた。
拍手はある。短い。
屋敷に戻って、書斎に入った。
机の上には何も置かれていない。この三週間、毎朝そうである。
マレンは離縁の翌日に王都の下宿へ移った。持参品の木箱を一つと、羽根を削る小刀と、帳面が三冊。それだけを持っていった。
出ていく朝、僕は玄関に立っていた。何か言おうとして、言うことがない。マレンは頭を下げて、それだけで馬車に乗った。
離縁状は、僕が書いた。
三晩かかっている。ヨストに形式を二度直された。書き上がったのは三行である。十年のあいだに僕が自分の手で最初から最後まで書いた文書は、あれが初めてだった。
「ヨスト」
「はい」
「羽根が悪い。三行書くとかすれる」
「軸の下処理をいたしましょうか」
「下処理」
「軸を一晩、水に浸けてから乾かします。それをいたしませんと、すぐにインクが切れます」
「そんなものが要るのか」
「奥様は、ご自分でなさっておいででした」
ヨストは羽根を三本受け取って、下がっていった。
下がる前に、ヨストが机の左側を指す。
「壺はこちらでございます。右にはお置きになりませんよう。袖が触れます」
言われて、僕は壺を左へ動かした。十年、この机で誰がどこに何を置いていたかを、僕は見ていなかった。
僕は残りの一本で書きはじめた。
宛先はマレンである。
一枚目。
拝啓、と書いて、次が出てこない。
二枚目。
先日は、と書いて、先日の何について書くのかが分からなくなった。
三枚目。
このたびは、と書いた。このたび、は不祝儀に使う。線を引いて消して、紙を丸めた。
四枚目でペン先がかすれた。ペンナイフで削り直す。やってみたが、削りすぎて先が割れた。
五枚目。
六枚目。
七枚目の途中で、僕は手を止めた。
床に丸めた紙が六つ落ちている。
六枚といっても、一枚あたり十字も書いていない。全部合わせて六十字ほどだろう。マレンは一晩に三通仕上げていた。
一つ拾って、開いてみた。拝啓、の二文字だけが書いてある。インクは薄い。壺から出たばかりの色で、灰に近い。
僕は椅子の背にもたれた。
「前と同じように書けばいいだけだろう」
声に出して言った。返事はない。ヨストはまだ戻らない。
前と同じ。
前は、僕が要点を言って、マレンが形にした。今は要点を言う相手がいない。それだけの違いのはずである。要点は僕の頭の中にある。あとは形にするだけだ。
要点を出してみる。
戻ってきてほしい。困っている。東方が止まった。長官の機嫌が悪い。夜会で言葉が出なかった。
並べてみて、全部が僕の話であることに気づいた。
形にするだけ。
僕は立ち上がって、寝室へ行った。
先月あの書斎の棚から抜いて、そのまま置いてある本を取ってくる。革の背に箔押しで『書簡文例集』とある。
僕は机に戻って、本を開いた。
開いたところは、いつもの頁である。指が覚えている。
第三章、和解を求むる文。
冒頭を読んだ。
長らくのご無沙汰、こちらの至らぬところ多く、思い返すたび胸の塞ぐ思いにございます。
いい文だと思う。よく出来ている。
胸の塞ぐ思い、という言い方がとくにいい。塞ぐ、で止めているところに品がある。
僕は紙を一枚取って、写しはじめた。
三行目まで写して、名前のところだけ変える。それから結びを二行足した。足した二行は自分で考えた。短いが、悪くない出来だと思う。
足したのはこうである。
君の返事を待っている。僕は待っている。
書き上げたのは、日付が変わるころだった。
「ヨスト」
「はい」
「これを、明日の朝いちばんで出してくれ」
ヨストは受け取って、封筒に納めた。棚から蝋を出して、火にかざす。
蝋が垂れる。ヨストは十を数えるあいだに印章を押した。
紋章が入った。
これで、この手紙は僕が書いたものになる。
ヨストは何も言わなかった。封筒を盆に載せて、一礼して出ていった。
僕は机の上の本を閉じようとして、開いていた頁の隅に目をやった。
紙の端が黒ずんでいる。指の脂で、そこだけ色が変わっている。
文例集の、三十二頁だった。




