第4話 書き手が変わった
その写しを読んだとき、俺は文選箱を取り落とした。
拾い集めるのに、たっぷり四半刻かかった。活字は鉛にスズとアンチモンを混ぜてある。落ちれば散る。角が潰れたものは鋳直しに回すしかない。
キルセンの工房は、朝のうちは静かだ。刷り手はまだ来ていない。俺は毎朝、届いた書簡の写しを一通り読んでから仕事にかかる。
父は樽職人だった。その父が死んだ年に俺は役所を辞めて、鉛と紙で食う道に移った。爵位はそのあとについてきたもので、工房では誰も使わない。
ヴェスタール王国からの外交書簡は、公国の書記局が写しを取って、公示の分だけこちらへ回してくる。
その朝の一通は、東方との通行に関する礼状だった。
三行読んで、手が止まった。
読点が二つしかない。
トゥーレ伯の書簡は、一文に読点を三つ置く。必ず三つだ。息継ぎが三度要る書き方で、この癖のために、伯の書簡は「呼吸が読みやすい」と公国の書記局でも評判だった。
その癖が、消えている。
俺は写しを窓のほうへ持っていった。朝の光は白い。紙の上の字は書記の手で、これはいつもと同じだ。トゥーレ家の清書係は四十年同じ人が務めていると聞いている。字の傾き、払いの止め方、行間の取り方。どれも先月の書状と変わらない。
変わっているのは、字の中身だ。
俺は棚から去年の綴りを出した。十二通ある。全部三つだ。
一昨年の綴り。三つ。
五年前。三つ。
十年前。三つ。
綴りを閉じて、埃を払った。棚の三段目から五段目まで、ヴェスタールの写しで埋まっている。全部で百四十通ある。
俺が公国の書記局にいたころ、最初に写しを取ったのが十年前の秋の一通だった。当時の俺は二十四で、写字の仕事しか任されていなかった。ヴェスタールからの書状を一日十二通、間違えずに写す。
十年前の秋のその一通を、俺はいまでも持っている。
写しの写しである。勤めが終わってから自分の紙に書き写した。理由を訊かれたら答えられない。文章がよかった、としか言いようがない。
内容は関税の据え置きを願うだけの、事務的な書状だ。ただ、断り文句の前に一行だけ、相手の土地の川の名を出す一節があった。名を出しただけで、褒めても持ち上げてもいない。
ヴィルデ川という。公国の南を流れる川で、春の雪解けで年に一度あふれる。あふれた年は麦が採れない。書状はその年の秋に届いた。
その一行があるかないかで、断りの重さがまるで変わる。
俺はそれを十年、読み返している。
最初の三年は、なぜいい文章なのかを知りたくて読んだ。次の三年は、真似ができるかどうかを試して、できなかった。ここ四年は、ただ読んでいる。
「親方」
文選台のほうから、ヘルムが呼んだ。うちの文選工で、いちばん速い。一刻で千二百拾う。
「この原稿、どこまで組みますか」
「三段目までだ。あと、こっちを先に見てくれ」
俺は東方の礼状の写しを渡した。ヘルムは受け取って、目を落として、それから顔を上げた。
「読点が」
「そうだ」
「伯の字ではないので」
「字は同じだ。清書は同じ書記が書いている。組み立てが違う」
ヘルムはもう一度写しを見て、肩をすくめた。
「代わりの方が書かれたんでしょう。お役所ならよくあることで」
そうかもしれない。
ヘルムは三十二で、女房と子が三人いる。
俺は文選箱を引き寄せて、活字を拾いはじめた。棚は上から順に使用頻度で並んでいる。原稿を見ながら目は動かさない。
一本拾って、指の腹で地の面をなでる。ネッキという窪みが彫ってある。上下を間違えないための印だ。この窪みがなければ、俺たちは一日に何十本も逆さに組む。
拾った活字を箱の溝に立てていく。溝は右から詰める。移すときに落とすと、また拾い直しになる。今朝はそれをやった。
拾いながら、考えていた。
だが、十年ぶん同じ癖が続いた文章というのは、役所の書き物ではない。役人は三年で異動する。五年いれば長いほうだ。
それに、役人が書いたものなら、書き手が替わっても質は落ちない。役所の文章は型で書く。型は引き継げる。
今月の礼状は、質が落ちていた。落ちたというより、別の人間が最初から組み直したような文だった。丁寧で、正確で、間違いはない。ただ、川の名を出すような一行がどこにもない。
十年、同じ人が書いていた。
そしてその人は、先月まで書いていて、今月は書いていない。
俺は文選箱を台に置いた。
「ヘルム。二十日ばかり留守にする」
「またヴェスタールですか」
「襤褸紙を仕入れる。こっちの分は値が上がった」
嘘ではない。三割上がっている。
ヴェスタールの王都に着いたのは、六日後の昼だった。
紙屋は東の橋のたもとにある。バルク商会という古い店で、俺は五年前からここで襤褸紙を買っている。上等な布屑を集めて漉いた紙で、活版に向く。目が詰まっていて、圧をかけても毛羽が立たない。
王都は雨のあとで、石畳がまだ濡れていた。橋の上から下流を見ると、荷船の帆が四つ並んでいる。
帳場は狭い。板の台が一つあって、その向こうに店主が坐り、こちら側に客が立つ。二人並べば肩が触れる。
俺の前に、客が一人いた。
背の高くない女で、灰色の外套を着ている。頭巾は下ろしている。連れはいない。
「無地の書簡箋を、二十枚」
「はい」
「罫のないもので。厚さは中くらいのを」
「かしこまりました。お届け先は」
「持って帰ります」
店主が少し顔を上げた。二十枚なら持てる量だが、この身なりの客が自分で持ち帰ると言うのは珍しいらしい。
「お名前を、こちらに」
店主が注文票を回した。二枚重ねになっていて、下の一枚が控えになる。
女がペンを取った。所書きの欄にも、同じ手で番地が入っていく。
俺は台の端に肘をついて、順番を待っていた。待つあいだ、人の手元を見るのは職業病だ。持ち方、傾き、速さ。
女の持ち方は、書記のそれだった。
右手の側面に、薄い染みがある。書いているうちに紙とこすれてつく染みで、洗っても数日は落ちない。毎日書く者にしかつかない。
軸を寝かせて、人差し指を長く伸ばす。長時間書く者の持ち方だ。ペン先が紙に触れる音がしない。
名前を書き終えて、女は下の備考欄にも何か書き足した。
俺の位置からは逆さに見えた。逆さの字を読むのも職業病である。
用途につきましては、私用の書簡でございますので、厚みは中程度で、表面の目の細かいものを希望いたします。
一行だ。
一行の中に、読点が三つあった。
息が止まった。
用途につきましては、で一つ。私用の書簡でございますので、で二つ。厚みは中程度で、で三つ。
備考欄に書く必要のない丁寧さだった。店の者が読みやすいように、息の置き場所を三つ作ってある。
女は書き終えて、ペンを置いた。店主が控えを切り離して、上の一枚を引き出しに入れる。
「ありがとうございます。三日でご用意いたします」
「お願いします」
女は会釈をして、帳場を離れた。外套の裾が板の角に触れて、それだけの音がした。
扉が閉まる。
俺は動かなかった。
「お待たせしました。ブランデル様、いつもの襤褸紙でよろしいですか」
「ああ。二十締め」
「はい」
「それと」
俺は台の上を指した。
「いまの控えを、売ってくれ」
店主の手が止まる。
「控えを、でございますか」
「紙の質を確かめたい。あんたの店の書簡箋に、うちのインクが乗るかどうか見ておきたい」
我ながら苦しい理由だった。店主は少し考えて、それから引き出しから控えを出した。
「一枚十リーグでお売りしております」
法外な値だ。俺は払った。
外に出て、橋の欄干まで歩いてから、控えを開いた。
風が出ている。控えを開くのに、両手が要った。
名前の欄には、こう書いてあった。
マレン・トゥーレ
離縁の報せは公国の書記局にも回っている。旧姓に戻っているはずだった。それでも票にはトゥーレとある。十年書いてきた名が、手から先に出たのだと思う。
橋の下を、荷船が二艘通っていく。
俺は十年、この人の文章を読んでいた。この人が誰かを知らずに、断りの一行を暗記するまで読み返していた。
そのトゥーレ伯のために書くのをやめて、この人は自分の紙を買いに来ている。二十枚。無地。届けさせず、持って帰る。
書き手が、変わった。




