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あなたが仰った愛の言葉は、すべてわたくしが書いたものです  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第3話 ご自分でお書きくださいませ

翌朝、旦那様は書斎の扉を三度叩かれた。


いつもは叩かずに入ってこられる。叩いたのは、机の上に何もなかったからだと思う。


「マレン」


「はい」


「礼状は」


「書いておりません」


旦那様は机を見て、それから紙束の置いてある棚を見て、また机に戻られた。この十年、この机には毎朝、清書を待つ紙が置いてあった。


朝いちばんに清書をするのがヨストの仕事である。ヨストは六時に上がってきて、わたくしの下書きを受け取り、八時までに三通なら三通、五通なら五通を仕上げる。今朝、ヨストは上がってこなかった。渡すものがないと分かっていたからだ。


「三通あったはずだ」


「はい」


「使節は明後日だぞ」


「はい」


旦那様は指を三本立てて、それから一本ずつ折られた。何を数えておられるのかは分からない。


「使節への礼状だ。東方と、北と、あと一通は」


「南の諸侯でございます」


「そうだ。それだ」


旦那様はしばらく黙っておられた。窓の外で庭師が枝を落としている音がした。


剪定の季節である。庭師は毎年この時期に、東側の生垣から順に刈っていく。鋏の音が二度続いて、一度止まる。


「具合でも悪いのか」


そう訊かれたとき、わたくしは机の上の紙の位置を直している。


「いいえ」


「なら、今日中でいい。夕方までにくれれば間に合う」


書くことは、前提のままだった。


わたくしは椅子から立った。


「旦那様」


「うん」


「離縁していただけますか」


自分の声が、思ったより低く出た。


旦那様の手が、机の縁で止まる。


それから、こちらを見られた。まっすぐ見られたのは久しぶりだった。夜会でも、寝室でも、この方の目はたいてい半分よそを向いている。


「なぜ」


「はい」


「なぜ、と訊いている」


わたくしは答えなかった。


理由を並べれば、旦那様は一つずつ検討なさる。


交渉の席でそうなさるのを、書簡の下書きを通して十年見てきた。相手の出した条件を分解して、一つずつ返す。


「誰かに何か言われたのか」


「いいえ」


「実家か。兄上か」


「いいえ」


兄は三年前に領地へ引いた。手紙のやりとりは年に二度で、内容は季節の挨拶だけである。


「僕が何をした」


質問が四つ続いた。


そのあいだ、わたくしは十まで数えた。数えるつもりはなかったのだけれど、間が空くと数えてしまう。書きながら人の息を数える癖がついている。


旦那様は追い詰められると質問で返される。夜会でも、交渉でも、答えに窮したときは相手に訊き返して間を稼がれる。その型を書簡でも使えるようにと、わたくしは反問の言い回しを七つ用意してさしあげたことがある。


「マレン」


旦那様は机を回って、こちらへ来られた。


近くで見ると、目の下が少し腫れている。


「君がいないと、困るんだ」


窓の外で、枝の落ちる音がもう一度した。


わたくしは待った。


鋏が二度鳴って、止まった。


この方は声のよい方である。間の取り方がうまい。ここで何か仰るなら、いまがちょうどよい間だった。


旦那様は仰らなかった。


間が過ぎた。過ぎてしまえば、もうそこには置けない。


「困る、というのは」


「困るだろう。書簡も、挨拶も、贈り物の札も、全部だ。誰に頼めばいい」


「ヨストがおります」


「ヨストは清書しかできん。文を組めるのは君だけだ」


そう仰った。


十年のあいだ、この方は一度も、それがどれだけの手間かをお訊きにならなかった。夜が何時まで潰れるか、羽根が何本だめになるか、長官の機嫌をどうやって調べるか。


「一年でいい」


旦那様は続けられた。


「一年、いや半年でいい。東方との件が片づくまで。そのあとなら、君の好きにしていい」


「そのあとなら、と仰いますと」


「別に、離縁しなくても構わないだろう。別々に暮らしてもいい。書いてくれさえすれば」


旦那様は早口になっておられた。案が次々に出てくる。北の別邸を使ってもいい。持参のぶんは全部返す。実家への支度金を毎年出してもいい。


書いてくれさえすれば。


わたくしはその言い方を、頭の中で二度繰り返した。


条件が下がっていく。妻でなくてもいい。同じ家にいなくてもいい。


「旦那様」


「なんだ」


「わたくしが書いたものは、どこにございますか」


旦那様は少し眉を寄せられた。


「どこに、とは」


「十年ぶんの下書きでございます」


「焼いてあるだろう。最初にそう言った」


「はい」


「あれが外に出ると面倒だ。伯爵家の書簡を伯爵夫人が書いていたなどと、どこから漏れるか分からん。ヨストにも念を押してある」


面倒、という語を旦那様は使われた。恥ずかしい、とも、申し訳ない、とも仰らない。


旦那様は書棚のほうへ歩いていかれた。


「焼いてあるんだろうな」


背を向けたまま訊かれた。


「ヨストにお訊きくださいませ」


「そうか」


旦那様は棚の中段から一冊抜き取られた。厚い、革の背の本である。


『書簡文例集』と背に箔が押してある。箔は端が剥げていた。天の小口が、真ん中より少し前のあたりだけ黒ずんでいる。


嫁いだ年に、この棚で見つけた本である。当時から黒ずんでいた。


「これは借りていく」


「どうぞ」


旦那様は本を脇に抱え、扉のところで一度止まられる。


「夕方までに、頼む」


扉が閉まった。


昼を過ぎて、ヨストが上がってきた。


盆に載せてきたのは茶ではなく、紙束と、木箱と、インク壺だった。壺は昨夜の新しいものである。


「奥様。持参品の目録でございます」


「早いこと」


「四十年おりますと、順番は覚えます」


ヨストは目を合わせずにそう言った。盆の縁を持つ指が、少しだけ強く白くなっている。


盆を机に置いて、紙束が三つに分けられた。


「一つ目がお持ちになったもの、二つ目がご婚礼のときに贈られたもの、三つ目がこちらでお求めになったものでございます。一つ目と二つ目はお持ち帰りいただけます」


ヨストの読み上げ方は、書簡の下読みと同じだった。区切りが正確で、感情が乗らない。


「三つ目は」


「置いていかれるのが作法でございます」


「そう」


わたくしは一つ目の束を取った。


嫁いだときに持ってきたものである。父の使っていた文鎮。母の櫛。書簡の写しを綴じた帳面が三冊。羽根を削るための小刀。


帳面の三冊は、父が現役のころに組んだ言い回しを、わたくしが書き写したものである。父は「覚えるな、写せ」と言った。


小刀は父の形見ではない。嫁ぐ前の年に、自分で買った。柄が黒檀で、刃はもう三度研ぎ直している。羽根を削るのに使うが、それだけではない。


「こちらへご署名を」


ヨストが目録の下の欄を指した。


わたくしはペンを取って、壺に浸した。書き出しの一画で、指が滑る。


姓の一字目が、下へ長く伸びた。


「削りますか」


ヨストが訊いた。


「削ると、消えますか」


「消えません。没食子のインクは、擦っても洗っても落ちませんので。紙の表を薄く削ぎ落とすだけでございます。字は消えますが、削った跡は残ります」


「削り方で、跡の出方が変わりますか」


「変わります。深く抉れば紙が透けますし、浅ければ字が残ります。何度も往復させれば、字は消えて、紙だけ薄くなります」


「跡は残る」


「はい」


わたくしは伸びた一画を見ていた。壺から出たばかりのインクは灰に近い色をしている。この字は、明日には濃くなっている。


「そのままで結構です」


「承知しました」


ヨストは目録を受け取って、乾かすために砂を振った。振ってすぐ傾けて、砂を落とす。粒が箱の縁で鳴った。


それから目録を光に透かして、伸びた一画のところで手を止めた。しばらく見て、何も言わずに下ろした。


「奥様」


「なに」


「あの棚のことは、旦那様にお話しになりますか」


書棚の下段である。年ごとに紐で束ねた綴りが、十冊。


「いいえ」


「承知しました」


ヨストはそれ以上何も訊かなかった。目録を三つに分け直して、木箱に納めていく。


納め終えると、ヨストは木箱の蓋を閉めて、留め具を二度確かめた。


「奥様。目録の写しは、こちらで一部お預かりいたします」


「焼かないの」


「目録は焼くものではございませんので」


そう言って、ヨストは盆を持って下がっていった。


日が傾いて、書斎の床に窓の桟の影が伸びた。


木箱は机の脇に置いてある。持参品は思っていたより少なかった。


夕方になって、旦那様が戻られた。


机の上には、朝と同じく何も置かれていない。


「マレン。離縁するにしても、手続きがいる。書式が決まっているらしい」


「はい」


「僕は書いたことがない」


旦那様が上着の内から、折った紙を出された。折り目が二本ついている。内側で何度も折り直された紙だった。


「下書きを、頼む」


わたくしは椅子に坐った。


坐ってから、坐ったことに気づいた。十年ぶんの体である。頼まれれば坐り、坐れば手が壺へ伸びる。


羽根を取って、浸した。


紙の上まで運んで、そこで止めた。


穂先に溜まったインクが、下がって、落ちる。灰に近い色の粒が、白い紙の真ん中に散った。


明日には、この粒は黒くなっている。


屋敷の音が、ひとつもしない。


「離縁状だけは、ご自分でお書きくださいませ。」

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