第2話 詩
旦那様が壇の前に立たれると、広間の話し声が引いた。誰かが咳をして、それきり静かになった。
「本日は、季節のよろしい折に、これほどの方々にお運びいただきました」
わたくしは柱の陰にいた。壁と柱のあいだの、給仕の通り道になる場所である。
「実りの秋と申しますが、この国の実りは畑にばかりあるのではないと、近ごろは思うようになりました。人と人のあいだにも、育つものがございます」
四日前の夜に書いた。書き出しの三行を二度直して、この形に落とした。畑と人を並べる言い方は、旦那様がお好きな型である。
最初は収穫と縁を並べた。堅すぎたので捨てた。次は実りと友誼にしたが、友誼という語を旦那様は発音しにくそうになさるので、これも捨てた。畑と人なら、口の中でつかえない。
旦那様の声で読まれると、壇の上に別の人が立っていて、その人がその人の言葉を話している。わたくしは客の後ろで聞いている。十年、そうしてきた。
挨拶が終わって、拍手が起きた。
外務長官が旦那様の肩に手を置いて、何か仰った。旦那様が笑って首を振られる。頭に浮かんだままです、という形に口が動いた。
長官がこちらを見た。
背の低い、白髪の多い方である。目のまわりに深い皺があって、笑うと目が消える。
「トゥーレ伯のご夫人か」
「はい」
「ああ。書記のハルストの、下のお嬢さんだ」
そう言って、長官は満足そうに頷かれた。父は宮廷書記を三十年勤めて、退いた年に死んだ。ハルストの家は五代、王宮の文書を書いてきた。
「よいご縁でしたな」
どちらにとって、とは仰らなかった。
長官が離れていく。わたくしの名は出なかった。
給仕が硝子を配って回っている。わたくしは受け取って、口をつけずに持っていた。
婦人たちの輪が、広間の東側にできていた。若い方が多い。声が高くなったり、揃って低くなったりする。
輪の真ん中に、水色の娘がいた。
ドゥブレ男爵家のお嬢さんである。二十歳になったばかりで、去年の冬から社交に出ておられる。
「ねえ、ドゥブレ嬢。あなた、トゥーレ伯とお親しいのでしょう」
年上の婦人が扇を傾けて訊いた。輪が少し縮んだ。
からかう調子だった。ドゥブレ嬢は困った顔をなさるだろうと、わたくしは思った。
輪の中の何人かが、扇の陰でこちらを見る。わたくしがどこにいるかを確かめる目だった。確かめて、それきり戻る。
ドゥブレ嬢は困らなかった。
「あの方のお手紙は、詩のようですの」
輪が、静かになった。
次に何が出てくるかを待つ静けさである。
「わたし、詩というものをよく知りませんでしたけれど。あの方のお手紙を読んでから、詩というのはこういうものかと思うようになりました」
誰かが小さく笑った。ドゥブレ嬢は気づかない様子で続けられる。
「たとえば、こういう一節がございます」
暗唱が始まった。
わたくしは硝子を持ったまま、そこに立っていた。
一行目。二行目。ドゥブレ嬢の発音は正しかった。少し早口で、三行目の入りだけ息が足りなくなった。そこは長いから、途中で切れるように書いたはずである。
広間の音が遠くなった。奥のほうで硝子の触れる音がして、給仕が誰かに何か訊いている。楽師は休んでいる。
ドゥブレ嬢は暗唱するとき、少し顎を上げる癖がおありだった。目は誰も見ていない。
三行目に入る。
わたくしは頭の中で、その先を言った。
言葉にすると薄くなる気がして、これまで言わずにきた。ずいぶん、待たせた。
ドゥブレ嬢の声と、わたくしの中の声が、同じ速さで進んでいる。
一語も違わなかった。助詞ひとつ違わない。
この方は、あの手紙を何度読まれたのだろう。四度書き直した一枚のうち、採られた四度目だけを、この方は繰り返し読んで覚えられた。捨てた三度は誰も知らない。
五行目まで来て、ドゥブレ嬢は止まった。
「これ以上は、恥ずかしいので」
輪が笑った。誰かが「まあ」と言った。ドゥブレ嬢は頬を赤くして、それでも嬉しそうにしておられる。
三年前の秋である。
あの晩、旦那様は書斎の扉のところに立って、まだかと二度訊かれた。
宛名は、空いていた。
いまは、空いていない。
ドゥブレ嬢がこちらを向いた。
輪の外に人が立っていることに、いま気づかれたらしい。目が合って、それから、その目が何かを思い出す形に動いた。
「トゥーレ夫人」
歩いてこられる。裾をつまむ手が少し急いでいる。
「失礼を申しました。わたし、トゥーレ伯のことを、あんなふうに」
「いいえ」
「本当に、そういうつもりでは」
ドゥブレ嬢は言い切ろうとして、途中でやめられた。
「お手紙は、大切になさってくださいませ」
わたくしがそう言うと、ドゥブレ嬢は目を丸くして、それから深く頭を下げられた。
「はい」
「順に綴じておかれるとよろしいですよ。日の順に」
「そうしております」
そう言って、ドゥブレ嬢は少し笑われた。
硝子を給仕に返して、広間の壁沿いへ戻る。
帰りの馬車で、旦那様は満足しておられた。長官の機嫌がよかったこと、東方の使節の返答が早かったこと、来月の宴の話。わたくしは相槌を打った。
「そうだ。忘れていた」
旦那様が上着の内に手を入れて、小さな包みを出された。
「今日だろう」
生まれた日である。
包みを膝の上で開けた。銀の文鎮である。上面に細い葡萄の彫りがあって、重さがちょうどよかった。
書斎のものは角が欠けていて、紙の端に引っかかる。
札が挟んであった。
歳月を重ねてなお、共に机を並べていられることを、なにより喜ばしく存じます。
ヨストの字である。清書はいつもヨストがする。
文はわたくしが書いた。三日前の夜、贈答用の文例をいくつか作っておいてくれと言われて、六通り作ったうちの四番目だった。相手の職掌に触れる型がよいと思い、机の語を入れてある。
六通りのうち、一番目と二番目は年配の男性向けに、三番目は同輩に、五番目と六番目は目下の者に宛ててある。四番目だけが、相手を選ばない形だった。
「気に入ったか」
「はい」
「文はヨストに考えさせた。あいつは古い言い方を知っているからな」
馬車の窓の外を、街灯が二つ通り過ぎた。
「ありがとうございます」
札を包みに戻して、膝の上に置く。
屋敷に着いたのは、日付が変わるころだった。
書斎に灯が入っていた。ヨストが待っている。
机の上は整っていた。左にインク壺、正面に紙、右にペン立てと吸取砂の小箱。壺は新しいものが開けてある。栓のあとが白く残っていた。
「奥様。明後日の使節への礼状が三通ございます」
「そう」
「封蝋は用意しております。旦那様の印はお預かりしております」
ヨストが棚から印章を出して、机の端に置いた。
清書が終わると、ヨストが蝋を垂らして、印を押す。蝋は垂らしてから十を数えるくらいで固まりはじめるので、印章はいつも冷たいところに置いておく。温まった印は蝋を引く。
紋章が入れば、その文書は旦那様のものになる。誰が字を組んだかは、どこにも残らない。
父の代でも同じだった。王宮の文書に父の名はない。父が組んだ言い回しが二十年使われ続けても、それは王のお言葉として残る。
わたくしは椅子に坐った。
紙を見た。三日前の夜も、四日前の夜も、同じ紙を見ている。
砂の小箱の蓋が、少しずれていた。指で押して直した。
ドゥブレ嬢の発音を思い出した。三行目の入りで息が足りなくなったところ。あそこは、わたくしが切れるように書いた。読む人の息の長さに合わせて書けと、父が言っていた。
読む人。
わたくしは羽根ペンに手を伸ばして、途中で止めた。
机の右側の抽斗を開けた。中には削った羽根の予備と、砂の詰め替えが入っている。手を入れて、何も取らずに出した。
抽斗を閉めた。
ヨストは何も言わない。灯を落として、扉のところで一度こちらを向いて、それから出ていった。
今夜のぶんは、書かなかった。




