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あなたが仰った愛の言葉は、すべてわたくしが書いたものです  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第2話 詩

旦那様が壇の前に立たれると、広間の話し声が引いた。誰かが咳をして、それきり静かになった。


「本日は、季節のよろしい折に、これほどの方々にお運びいただきました」


わたくしは柱の陰にいた。壁と柱のあいだの、給仕の通り道になる場所である。


「実りの秋と申しますが、この国の実りは畑にばかりあるのではないと、近ごろは思うようになりました。人と人のあいだにも、育つものがございます」


四日前の夜に書いた。書き出しの三行を二度直して、この形に落とした。畑と人を並べる言い方は、旦那様がお好きな型である。


最初は収穫と縁を並べた。堅すぎたので捨てた。次は実りと友誼にしたが、友誼という語を旦那様は発音しにくそうになさるので、これも捨てた。畑と人なら、口の中でつかえない。


旦那様の声で読まれると、壇の上に別の人が立っていて、その人がその人の言葉を話している。わたくしは客の後ろで聞いている。十年、そうしてきた。


挨拶が終わって、拍手が起きた。


外務長官が旦那様の肩に手を置いて、何か仰った。旦那様が笑って首を振られる。頭に浮かんだままです、という形に口が動いた。


長官がこちらを見た。


背の低い、白髪の多い方である。目のまわりに深い皺があって、笑うと目が消える。


「トゥーレ伯のご夫人か」


「はい」


「ああ。書記のハルストの、下のお嬢さんだ」


そう言って、長官は満足そうに頷かれた。父は宮廷書記を三十年勤めて、退いた年に死んだ。ハルストの家は五代、王宮の文書を書いてきた。


「よいご縁でしたな」


どちらにとって、とは仰らなかった。


長官が離れていく。わたくしの名は出なかった。


給仕が硝子を配って回っている。わたくしは受け取って、口をつけずに持っていた。


婦人たちの輪が、広間の東側にできていた。若い方が多い。声が高くなったり、揃って低くなったりする。


輪の真ん中に、水色の娘がいた。


ドゥブレ男爵家のお嬢さんである。二十歳になったばかりで、去年の冬から社交に出ておられる。


「ねえ、ドゥブレ嬢。あなた、トゥーレ伯とお親しいのでしょう」


年上の婦人が扇を傾けて訊いた。輪が少し縮んだ。


からかう調子だった。ドゥブレ嬢は困った顔をなさるだろうと、わたくしは思った。


輪の中の何人かが、扇の陰でこちらを見る。わたくしがどこにいるかを確かめる目だった。確かめて、それきり戻る。


ドゥブレ嬢は困らなかった。


「あの方のお手紙は、詩のようですの」


輪が、静かになった。


次に何が出てくるかを待つ静けさである。


「わたし、詩というものをよく知りませんでしたけれど。あの方のお手紙を読んでから、詩というのはこういうものかと思うようになりました」


誰かが小さく笑った。ドゥブレ嬢は気づかない様子で続けられる。


「たとえば、こういう一節がございます」


暗唱が始まった。


わたくしは硝子を持ったまま、そこに立っていた。


一行目。二行目。ドゥブレ嬢の発音は正しかった。少し早口で、三行目の入りだけ息が足りなくなった。そこは長いから、途中で切れるように書いたはずである。


広間の音が遠くなった。奥のほうで硝子の触れる音がして、給仕が誰かに何か訊いている。楽師は休んでいる。


ドゥブレ嬢は暗唱するとき、少し顎を上げる癖がおありだった。目は誰も見ていない。


三行目に入る。


わたくしは頭の中で、その先を言った。


言葉にすると薄くなる気がして、これまで言わずにきた。ずいぶん、待たせた。


ドゥブレ嬢の声と、わたくしの中の声が、同じ速さで進んでいる。


一語も違わなかった。助詞ひとつ違わない。


この方は、あの手紙を何度読まれたのだろう。四度書き直した一枚のうち、採られた四度目だけを、この方は繰り返し読んで覚えられた。捨てた三度は誰も知らない。


五行目まで来て、ドゥブレ嬢は止まった。


「これ以上は、恥ずかしいので」


輪が笑った。誰かが「まあ」と言った。ドゥブレ嬢は頬を赤くして、それでも嬉しそうにしておられる。


三年前の秋である。


あの晩、旦那様は書斎の扉のところに立って、まだかと二度訊かれた。


宛名は、空いていた。


いまは、空いていない。


ドゥブレ嬢がこちらを向いた。


輪の外に人が立っていることに、いま気づかれたらしい。目が合って、それから、その目が何かを思い出す形に動いた。


「トゥーレ夫人」


歩いてこられる。裾をつまむ手が少し急いでいる。


「失礼を申しました。わたし、トゥーレ伯のことを、あんなふうに」


「いいえ」


「本当に、そういうつもりでは」


ドゥブレ嬢は言い切ろうとして、途中でやめられた。


「お手紙は、大切になさってくださいませ」


わたくしがそう言うと、ドゥブレ嬢は目を丸くして、それから深く頭を下げられた。


「はい」


「順に綴じておかれるとよろしいですよ。日の順に」


「そうしております」


そう言って、ドゥブレ嬢は少し笑われた。


硝子を給仕に返して、広間の壁沿いへ戻る。


帰りの馬車で、旦那様は満足しておられた。長官の機嫌がよかったこと、東方の使節の返答が早かったこと、来月の宴の話。わたくしは相槌を打った。


「そうだ。忘れていた」


旦那様が上着の内に手を入れて、小さな包みを出された。


「今日だろう」


生まれた日である。


包みを膝の上で開けた。銀の文鎮である。上面に細い葡萄の彫りがあって、重さがちょうどよかった。


書斎のものは角が欠けていて、紙の端に引っかかる。


札が挟んであった。


歳月を重ねてなお、共に机を並べていられることを、なにより喜ばしく存じます。


ヨストの字である。清書はいつもヨストがする。


文はわたくしが書いた。三日前の夜、贈答用の文例をいくつか作っておいてくれと言われて、六通り作ったうちの四番目だった。相手の職掌に触れる型がよいと思い、机の語を入れてある。


六通りのうち、一番目と二番目は年配の男性向けに、三番目は同輩に、五番目と六番目は目下の者に宛ててある。四番目だけが、相手を選ばない形だった。


「気に入ったか」


「はい」


「文はヨストに考えさせた。あいつは古い言い方を知っているからな」


馬車の窓の外を、街灯が二つ通り過ぎた。


「ありがとうございます」


札を包みに戻して、膝の上に置く。


屋敷に着いたのは、日付が変わるころだった。


書斎に灯が入っていた。ヨストが待っている。


机の上は整っていた。左にインク壺、正面に紙、右にペン立てと吸取砂の小箱。壺は新しいものが開けてある。栓のあとが白く残っていた。


「奥様。明後日の使節への礼状が三通ございます」


「そう」


「封蝋は用意しております。旦那様の印はお預かりしております」


ヨストが棚から印章を出して、机の端に置いた。


清書が終わると、ヨストが蝋を垂らして、印を押す。蝋は垂らしてから十を数えるくらいで固まりはじめるので、印章はいつも冷たいところに置いておく。温まった印は蝋を引く。


紋章が入れば、その文書は旦那様のものになる。誰が字を組んだかは、どこにも残らない。


父の代でも同じだった。王宮の文書に父の名はない。父が組んだ言い回しが二十年使われ続けても、それは王のお言葉として残る。


わたくしは椅子に坐った。


紙を見た。三日前の夜も、四日前の夜も、同じ紙を見ている。


砂の小箱の蓋が、少しずれていた。指で押して直した。


ドゥブレ嬢の発音を思い出した。三行目の入りで息が足りなくなったところ。あそこは、わたくしが切れるように書いた。読む人の息の長さに合わせて書けと、父が言っていた。


読む人。


わたくしは羽根ペンに手を伸ばして、途中で止めた。


机の右側の抽斗を開けた。中には削った羽根の予備と、砂の詰め替えが入っている。手を入れて、何も取らずに出した。


抽斗を閉めた。


ヨストは何も言わない。灯を落として、扉のところで一度こちらを向いて、それから出ていった。


今夜のぶんは、書かなかった。

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