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あなたが仰った愛の言葉は、すべてわたくしが書いたものです  作者: 九葉(くずは)


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第1話 三年前の秋

その言い方を、わたくしは知っている。


「愛している」


旦那様の指が、わたくしの髪をひとふさすくって、落とした。


「言葉にすると薄くなる気がして、これまで言わずにきた」


「ずいぶん、待たせた」


三年前の秋に、わたくしが書いた。一枚目の、二行目から四行目までだ。


外交の下書きだと仰った。私信の体裁が要る、と。


外交の文書に、愛の言葉は要らない。


書いた晩は、そう思わなかった。私信の体裁という言葉を渡されて、体裁のとおりに書いた。渡されたものに沿って書くのが、わたくしの十年である。


「マレン」


呼ばれて、返事をした。声がいつもと同じ高さで出たことに、自分で少し感心した。


旦那様は声のよい方である。低くて、語尾がわずかに上がる。同じ文章でも、この方が読み上げると人が黙って聞く。書いたものが自分の手を離れて、別の声で立ち上がってくるのを、わたくしは客間の壁際で聞いていた。


「あれは、三年前にわたくしが」


「うん」


旦那様は身を起こして、寝台の脇の水差しに手を伸ばした。喉が鳴る音がして、それから硝子を置く音がした。


「僕が考えたことを、君が整えただけだよ」


そういう言い方をなさる方だと、十年前から知っている。


整える、という言葉を旦那様は好んで使う。整える。直す。手を入れる。


去年の春、南方の使節を送る宴で、旦那様は挨拶をなさった。終わったあとで長官が肩を叩いて、あの締めの一文はよく出来ていたと仰った。旦那様は笑って、頭に浮かんだままを言っただけだと答えられた。


わたくしはその一文を、宴の四日前の夜に書いている。壺の底が見えかけていて、傾けて掬った。


「明日の朝までに、東方の通行許可の礼状を頼む。先方の家名の綴りは前と同じでいい。それと、外務長官への挨拶を一通。長官はこのところ機嫌がよくないから、気をつけて」


気をつけて。


何に気をつけるのかを、旦那様は一度も仰ったことがない。長官が去年の秋にどの家の縁談で恥をかいたのか、そのせいでどの言い回しが使えなくなったのか、代わりにどの古い言い方なら受け入れられるのか。調べて、避けて、書く。


仕事、という言葉を、わたくしは今まで一度も使ったことがない。


「もう一通ある」


旦那様は枕に頭を戻しながら仰った。


「南の商会宛だ。急がなくていい。ただ、少し情のある文にしてくれ。あそこの当主は、そういうものを好む」


情のある文。


わたくしは天井の梁を見ていた。返事はした。


旦那様はすぐに眠った。眠りの深い方で、寝返りも打たない。


わたくしはしばらく仰向けのままでいる。天蓋の布の縫い目を、端から端まで目で追った。二十七目まで数えて、やめた。


蝋燭を持って、寝室を出る。


廊下は冷えていた。夏の終わりの夜で、昼のあいだは窓を開け放してあるのに、日が落ちると石が急に温度を落とす。裸足の裏に、床の目地の段が伝わる。


扉を開けると、インクの匂いがした。閉め切ってあった部屋の、紙と鉄の混じった匂いである。暖炉には昼の熾が残っていて、まだ温かい。


机の左にインク壺、正面に紙、右にペン立てと吸取砂の小箱。その奥に封蝋の棒と、旦那様の印章。順番はヨストが十年変えていない。


椅子を引いて、坐った。それから立ち上がって、書棚の下段へ回った。


綴りを引き出す。


下書きの控えである。ヨストが年ごとに紐でまとめて、背に年を書いて並べてある。十冊。


旦那様は結婚の年に、下書きは残さず焼くようにと仰った。ヨストは「承知しました」と答えた。それから十年、この棚は増え続けている。わたくしは一度もそのことを旦那様に申し上げなかったし、ヨストも申し上げなかった。


三年前の綴りを膝に載せた。紐の結び目は固く、爪の先を差し込んで解く。


紐は麻で、締めるたびに毛羽が立つ。結び目のあたりだけ細くなっている。


秋の頁を繰る。


見つかるまでに時間はかからなかった。紙の色が、他より濃いところがある。


インクは書いた日がいちばん薄い。壺から出たばかりのものは灰に近い色をしていて、紙の上に置かれてから、日をかけて黒くなっていく。空気に触れて変わるのだと、父から聞いた。三年前のこの頁はもう紫がかった黒になっていて、書いたその晩よりずっとはっきり読める。


一枚目の、二行目。


さきほど旦那様が仰った通りの並びで、そこにあった。言葉にすると薄くなる気がして、という続きも、そのままだ。


わたくしはあの晩、この四行を三度書き直している。二度目は硬すぎた。三度目は甘すぎて、書きながら自分で厭になった。四度目に書いたものが、いま寝室で使われている。


雨の晩だった。部屋にインクの匂いがこもった。壺が途中で切れて、ヨストを起こして新しいものを開けてもらったのを覚えている。


頁の上のほうへ目を戻す。


宛名の欄が、空いている。


下書きに宛名は書かない。清書のときに旦那様が入れるから、控えには要らない。ヨストがそう教えてくれたのは、嫁いだ年の冬だった。


けれど、この一枚が誰に宛てられたのかを、わたくしは知らない。


三年前の秋に、東方との交渉はなかった。通行許可の話が出たのはその翌年である。その二年のあいだにわたくしが書いた「私信の体裁」の文書は、少なく見積もっても十一通ある。


春に三通。夏に二通。秋に四通。冬に二通。


指で頁を送りながら確かめた。数は合っていた。


十一通の宛名を、わたくしは一つも知らない。


棚に戻しかけて、手が止まった。五年前の綴りを引き出す。


同じ書き方の一枚が、夏の頁にあった。私信の体裁。相手方の心証。宛名の欄は空いている。


その次の頁も、その二枚あとの頁も、同じだった。


五年前の綴りを閉じる。ほかの年を開くのはやめた。


指が冷えていた。暖炉の熾はまだ生きているのに、指の先だけが冷えている。わたくしは膝の上の綴りを閉じて、紐を結び直した。結び方は、ヨストの結び方を真似ている。


翌朝の礼状を書かなければならない。


羽根ペンを取って、壺に浸した。この羽根は先月ヨストが替えたもので、軸を一晩水に浸けてから硬くしてある。下処理をしない羽根はすぐ書けなくなる。嫁いだ年に、それを知らずに三本だめにした。


先方の家名から書き出す。三文字書いて、また浸す。線を四本引くとかすれる。


一文に、読点を三つ置く。


わたくしはそういう息継ぎで書く。父もそうだった。宮廷書記の家に生まれた者はたいていそう習う。旦那様の書簡が「呼吸が読みやすい」と評判になったのはこの癖のためで、そのことを旦那様は知らないし、わたくしも申し上げたことがない。


父は書くとき、必ず声に出さずに口を動かした。読む人の息の長さに合わせるためだと言っていた。わたくしも同じことをする。書斎に一人でいるとき、唇だけが動いている。


長官への挨拶にかかる。


去年まで使っていた「ご高配を賜り」は避ける。あの縁談の一件以来、長官は高い低いの語を含む言い方を嫌う。代わりに二十年前まで使われていた古い言い回しを当てる。


書きながら、これを誰かに説明したことが一度もないと思った。


文はこう置いた。歳月を重ねた御家との縁が、今年もつつがなく続いておりますことを、なにより喜ばしく存じます。


読点が三つある。


ペン先がかすれた。


ペンナイフで削り直す。刃を斜めに寝かせて、薄く二度。削り屑が紙の上に落ちるので、息で払う。この動作を十年で何万回したのかを数えようとして、やめた。


三通目、南の商会宛の「情のある文」は、朝でよかった。


砂の小箱に手を伸ばした。書き終えた面に振りかけて、インクの溜まりを吸わせる。すぐに傾けて、砂を紙から落とす。落ちた砂の粒が、机の縁で小さく鳴った。


そのとき、机の端に置いたままの綴りが目に入った。


三年前のものではない。膝から下ろすときに、隣にあった一冊も引き出していたらしい。背に書かれた年が、いちばん古い。


嫁いだ年の綴りである。


紐を解いた。一番上の一枚は、結婚の翌月に書いた祝辞の下書きだった。旦那様の従弟の婚礼のためのもので、わたくしがこの家で書いた最初の文章にあたる。


字が濃い。十年ぶん黒くなって、紙に食い込んでいる。


宛名の欄に、指を置いた。


そこだけ、紙の手ざわりが違った。


薄く削られている。ペンナイフで表面をさらった跡だ。没食子のインクは擦っても洗っても落ちないから、消したければ紙ごと削るしかない。ヨストがわたくしに教えた最初の技術が、それだった。


削り方には手つきが出る。深く抉れば紙が透けるし、浅ければ字が残る。この一枚は透けていない。字も残っていない。慣れた者の削り方ではないが、丁寧に、何度も往復させた跡だった。


わたくしは指の腹を、そのざらつきの上でゆっくり往復させた。


削るには、まず書かなければならない。


蝋燭が短くなって、机の上の影が伸びた。廊下のほうで扉の閉まる音。それきり、屋敷は静かになる。


指を離してから、もう一度置いた。同じところが、同じようにざらついた。


十年ぶんの綴りが、棚に並んでいる。背の年だけがきちんと揃っている。


宛名だけが、いつも空いていた。

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