第5話 兄さんの気持ちは、兄さんに決めさせる
澪が引っ越すまでの一週間は、拍子抜けするほど普通に過ぎた。
朝になれば同じ食卓につき、仕事へ行く。帰れば夕食を食べ、どちらかが先に風呂へ入る。家の中で交わす言葉も、以前と大きくは変わらなかった。
ただ、澪の部屋から段ボールが一つずつ増えていった。
金曜日には廊下にも二箱積まれていた。俺はその横を通るたびに目を向けたが、結局「引っ越すな」とは言わなかった。
一週間考えても、ずっと前から澪を好きだったとは思えなかった。ノートを見るまでは、普通に妹だと思っていた。
けれど今でも、それだけだと言い切ることもできなくなっていた。
日曜日の朝、引っ越し業者が来た。
荷物は思っていたより少なく、昼前にはほとんど運び出された。俺も段ボールを玄関まで運んでいると、後ろから澪の声が飛んでくる。
「兄さん、それ重いですよ」
「見れば分かる」
「腰、気をつけてくださいね」
「引っ越しの日に縁起でもないこと言うな」
澪が小さく笑った。
業者のトラックが出ていったあと、澪は空になった自分の部屋を一度確認した。残っているのは手荷物くらいで、洗面所からも澪の歯ブラシが消えている。
「忘れ物ないか?」
「たぶん大丈夫です。あっても取りに来られますから」
新しい部屋は電車で二駅先だという。距離だけなら近い。
それでも、今日からここは澪の帰る家ではなくなる。
「じゃあ、行きますね」
「ああ。駅まで行く」
「いいんですか?」
「それくらいさせろ」
澪は少し迷ったあと、「お願いします」と頭を下げた。
住宅街を二人で歩く。
休日の昼前で、途中の公園から子どもの声が聞こえていた。いつもなら十分もかからない駅までの道が、今日は少し長く感じる。
しばらく歩いたところで、澪が前を向いたまま口を開いた。
「兄さん、止めないんですね」
「ああ。引っ越しは止めない」
澪は小さくうなずき、それ以上は何も言わなかった。
数歩進んでから、俺は歩く速度を緩める。
「でもさ。お前、一人で全部決めすぎじゃないか」
澪がこちらを見る。
「スマホを見ないとか、連絡先を消さないとか、そういうルールは必要だと思う。会社に退職届を送るのも絶対やめろ」
「送ってません」
「知ってるよ」
思わず笑うと、澪も少しだけ口元を緩めた。
「でも、好きになったのは自分の問題だから、俺には関係ないってところまで、お前が決めるのは違うだろ」
澪の表情から笑みが消える。
「……兄さんに困ってほしくなかったので」
「それも俺が決めることだ」
言ってから、澪の手にある黒いノートを見る。
「それ、貸して。ペンも」
澪は不思議そうな顔をしながらも、鞄からペンを出して一緒に渡してくれた。
最後のページを開く。
『六十八、兄さんに好きだと言わない』
その下には、まだ何も書かれていない行があった。
俺はそこへペンを走らせる。
『六十九、兄さんの気持ちは、兄さんに決めさせる』
書き終えて返すと、澪はその一行をしばらく見つめていた。
「兄さんが書くんですか、私のルール」
「一個くらいいいだろ」
「勝手ですね」
「お互いさまだ」
澪はもう一度六十九番を読んでから、静かにノートを閉じた。
「……これは消しません」
「頼む」
駅はもう見えていた。
俺も、ここまで言った以上は自分のことを話さなければならない。
「ずっと前から好きだった、とは言えない」
澪が隣で顔を上げる。
「ノートを見るまでは、普通に妹だと思ってた」
そこで言葉が止まった。
一週間考えていたはずなのに、口にすると上手くまとまらない。
「でも今は、それだけじゃない」
澪は何も言わずに聞いていた。
「だから、離れて暮らすのはいいと思う。その方が俺もちゃんと考えられる」
少し間を置いてから、続けた。
「でも、そのまま終わりにする気はない」
澪が顔を上げる。
今までと同じように会うだけなら、きっと何も変わらない。俺自身、澪をどう思っているのか全部分かったわけではないからこそ、一度違う形で向き合ってみたかった。
「一回、兄妹じゃないつもりで会ってみたい」
澪はしばらく黙っていた。
「それって、デートでは?」
「……たぶんな」
自分で言っておいて、少し照れくさい。
澪は目を伏せたまま、小さく笑った。
次の日曜日に会うことだけ決めて、俺たちはまた駅へ向かって歩き出した。
改札前で澪と別れた。
「じゃあ、来週」
「はい」
短いやり取りのあと、澪は改札の向こうへ消えていった。
家へ戻ると、リビングのソファは片側が空いたままだった。
今度は、その席を見てもスマホを手に取らなかった。
一週間後に会うことは、もう決まっている。
一週間後。
待ち合わせ場所へ行くと、澪はすでに駅前に立っていた。
俺も十分前には着いたつもりだったが、それより先に来ていたらしい。
いつもより少しだけよそ行きの服を着ている。俺も家を出る前にシャツを一度替えたので、人のことは言えなかった。
目が合うと、澪が少し笑った。
「行くか」
「はい」
並んで歩き始める。
以前と同じ二人なのに、今日は妙に歩く距離が気になった。
店へ入ろうとしたところで、澪が立ち止まる。
鞄から黒いノートを取り出し、ページを開いた。
「また増えたのか?」
「一つだけ」
澪は短く何かを書き込み、そのページを俺へ向けた。
『七十、兄さんを閉じ込めたくなったら、次のデートの約束をする』
思わず笑った。
「それで大丈夫なのか?」
「試してみます」
澪も少し笑う。
俺は店のドアを開けた。
「じゃあ、次の約束は今日のあとで決めよう」
「はい」
今度は、澪もノートを閉じた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
澄野 朔です。
全5話完結の現代恋愛を中心に、さまざまな物語を書いています。
ほかにも義姉・義妹などをヒロインにした独立作品を公開していますので、気に入っていただけましたら、シリーズ「5話で完結する、少し特別な恋愛物語」も覗いてみてください。
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また別の物語でお会いできたら嬉しいです。




