第4話 守れなかったルール
翌日の夕方、リビングのテーブルに見覚えのある封筒が置かれていた。
昨夜、澪が持っていた不動産会社のものだ。中から何枚か書類が出ていて、間取り図らしいものも見えている。手に取れば詳しいことまで分かりそうだったが、そこまでする気にはなれなかった。
キッチンでは、澪が夕食の支度をしている。
「澪。引っ越すのか?」
包丁の音が止まった。澪はテーブルの封筒を見てから、こちらへ向き直る。
「はい」
否定される可能性も考えていたせいで、あっさり認められると逆に言葉に詰まった。
「もう決まってるのか?」
「ほぼ。昨日、もう一度部屋を見てきました。問題がなければ契約するつもりです」
「昨日?」
「友達と会う前に寄りました」
大学時代の友人と会った話自体は本当だったらしい。澪は包丁を置いて手を洗うと、タオルで指先を拭いた。
「私も二十四ですし、そろそろ一人で暮らしてもいい頃なので」
「それだけじゃないだろ」
蛇口の水が止まる。
しばらく黙っていた澪へ、俺はここ数日のことを話した。帰宅時間を聞かなくなったこと。スマホから離れて座るようになったこと。佐伯との食事についても何も聞かなかったこと。
「あのノートと関係あるのか?」
「あります。でも、兄さんに見られたから出ていくわけじゃありません。部屋を探し始めたのは、その前です」
思わずテーブルの封筒を見る。俺がノートを知るより先に、澪はここを出るつもりだったことになる。
「このまま一緒に暮らしているのは、あまりよくないと思っていました。ちゃんと何もしないでいられる自信が、少しずつなくなってきたので」
黒いノートが頭に浮かぶ。
スマホを勝手に見ない。女性の連絡先を消さない。鞄にGPSを入れない。外から開かない鍵に交換しない。
「でも、今まで何もしてないだろ」
「はい。だから、これからもしないために書いています。でも、その書くこと自体が増えてきました」
そう言って澪はキッチンを離れ、そのまま二階へ上がった。
ほどなくして戻ってきた手には、あの黒いノートがあった。
「兄さんに見られたときは、四十三まででしたよね。今はここまであります」
澪が最後の方のページを開き、俺の前へ置く。
そこに書かれていた番号は六十八だった。
『六十八、兄さんに好きだと言わない』
俺は一度読んでから、もう一度同じ行を見た。
「……これ」
「兄さんのことが好きです」
あまりにも静かな声だった。
もっと言いづらそうにするのかと思っていた。目をそらすこともなく、澪はただ俺を見ている。
「兄としてじゃなくて、か」
「はい」
今度は俺の方が視線を落とした。
六十八番目の一行が目に入る。言わないと決めていたことを、今、本人が口にした。
「いつからなんだ?」
「分かりません。気づいたときには、もう好きでした」
澪はそこで少し考えてから、最近になって以前より気になることが増えたのだと続けた。俺が誰と連絡を取っているのか、どこで何をしているのか。佐伯と食事に行った日も、本当は行ってほしくなかったらしい。
「帰ってきたときも、何を話したのか聞きたかったです。でも、聞かない方がいいと思ったので聞きませんでした。そういうことが、前より増えてきたんです」
あの夜、澪からは一度も連絡が来なかった。
帰宅してからも、佐伯について何も聞かれなかった。
今なら、あの何もなかった時間の意味が少し違って見える。
「それで、出ていくのか」
「はい。一緒にいなければ、今よりは楽になると思います」
澪は封筒の上へ黒いノートを重ねた。
その瞬間、ずっと引っかかっていたことを思い出した。
「そういえば、最初のページ。あれもルールだったのか?」
澪の手が止まる。
「……はい」
少し迷ったあと、澪は「待っていてください」と言って、また二階へ上がった。
今度はさっきより時間がかかった。戻ってきた澪は四つ折りにした紙を持っていて、俺の向かいへ座ると、それをゆっくり広げた。
片側にはノートから破り取った跡が残っている。
書かれているのは一行だけだった。
『〇、兄さんを好きにならない』
その文字の上には、一本の線が引かれていた。
「これが、一番最初?」
「はい。最初は、これで済むと思っていました」
もう一度、その一行を見る。
「でも、無理だったんだな」
澪は小さくうなずいた。
「これだけは、守れなかったんです」
澪の指先が、引かれた横線の端に触れる。
「それで、破ったのか」
「守れないものを残していても仕方ないと思ったので。そのあとは、好きにならないことじゃなくて、しないことを書くようにしました」
それ以上、澪は説明しなかったし、俺も聞かなかった。
破られた〇番と、六十八番まで続いた黒いノートがテーブルの上に並んでいる。それだけで、十分だった。
澪は破った紙を丁寧に折り直す。
「兄さんを好きなのは、私の問題です。兄さんの問題にしたくありません」
「でも、もう知ったぞ」
「それは予定外でした。本当なら、何も言わずに出ていくつもりでしたから」
たぶん、本当にそのつもりだったのだろう。
俺に気づかれないうちに部屋を探し、必要なものを決めて、最後に引っ越すことだけを伝える。そうすれば、自分の気持ちを俺に背負わせずに済むと思っていたらしい。
「いつ出るんだ?」
「来週の日曜日です」
思っていたより、ずっと早かった。
何か言わなければならない気がしたが、「引っ越すな」と言えば、当然その理由を聞かれる。俺にはまだ、その先を答える言葉がなかった。
「……そうか」
結局、それしか言えなかった。
澪は俺の顔を少し見ていたが、やがてノートと破った紙を重ねて立ち上がった。
「夕食、続き作りますね」
「ああ」
キッチンへ戻った澪が、途中だった野菜を切り始める。包丁がまな板を叩く音が一定の間隔で続き、俺はしばらくその音を聞いていた。
その夜、自分の部屋で本を開いた。
何ページか進んだはずなのに、内容はほとんど頭に残っていなかった。
廊下の向こうから、何かを動かす音がする。しばらくして、段ボールを広げるような乾いた音も聞こえてきた。
澪の部屋だ。
来週の日曜日まで、あと七日だった。
また段ボールの音がする。俺は開いていた本から目を上げたまま、音が止まるまで次のページをめくれなかった。




