第3話 空いた席
土曜日の朝、リビングへ下りると、澪が出かける準備をしていた。
薄い色のブラウスに細身のパンツ。ソファの脇には、小さな旅行鞄まで置いてある。
「泊まりか?」
「はい。大学のときの友達と会って、そのまま一人の家に泊まってきます。明日の昼くらいには帰ります」
「ああ、そうなんだ」
そういえば、最近は澪の予定をほとんど聞かなくなった。以前なら向こうから話していた気もするが、俺の都合に関係のない外出まで報告する必要はない。
「夕食は、必要なら冷蔵庫にあるものを使ってください」
「了解」
澪は腕時計を確認すると、鞄を持ち上げた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関のドアが閉まった。
一人で過ごす休日は珍しくない。澪だって友人と出かけることはあるし、俺も家を空けることの方が多い。
むしろ今日は気楽だった。
昼飯は好きな時間に食べればいい。テレビも自由に使えるし、風呂の順番を気にする必要もない。コーヒーを淹れ、録画していた番組を昼過ぎまで見た。
昼は近所のラーメン屋へ行き、帰ってきて続きを見る。夕方になるころには、朝から一人だったこともほとんど意識しなくなっていた。
七時を過ぎて腹が減り、冷蔵庫を開けた。
昨日の残りの煮物と、肉や野菜が入っている。わざわざ料理する気にはならず、煮物だけを温めてご飯を炊いた。
一人で食卓につくと、テレビでは最近よく見る若手俳優がバラエティ番組に出ていた。
名前が思い出せない。
「これ、澪が――」
言いかけて、向かいの席を見る。
当然、誰もいない。
「……いないんだった」
煮物を口へ運ぶ。味はいつもと変わらなかった。
食事を終えて皿を洗い、そのまま風呂に入る。誰かの順番を気にしなくていいのは楽だったが、風呂から戻ってソファに座ると、反対側にはクッションが一つ置かれているだけだった。
いつも澪がそこで何をしていたのか、改めて考えるとよく分からない。本を読んでいることもあれば、スマホを見ていることもある。ずっと話しているわけでもなかった。
それでも、だいたいそこにいた。
番組を再生して十分ほどすると、スマホが震えた。
『今日はこのまま泊まります。明日の昼ごろ帰ります』
澪からだった。
『了解』
それだけ返して、スマホをテーブルへ置く。
しばらく番組を見ていたが、広告に切り替わったところで、もう一度スマホを手に取った。
澪とのトーク画面を開く。
『了解』
その下には何もない。
入力欄に触れかけて、指を止めた。送る用事がない。
スマホを閉じ、またテレビへ戻った。
翌朝はいつもより少し遅く起きた。
パンを焼き、インスタントのコーヒーを淹れる。朝食のあと適当に掃除をして、昼前からリビングで本を読んでいた。
十二時を少し回ったころ、玄関の鍵が開く。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
澪が旅行鞄を持ってリビングへ入ってきた。
「楽しかったか?」
「はい。久しぶりに四人そろいました」
大学時代の友人の一人が結婚するらしく、昨夜はその話で盛り上がったという。普段より少しだけ口数の多い澪の話を、俺はコーヒーを飲みながら聞いた。
ひと通り話し終えると、澪は鞄を持ち直した。
「着替えてきますね」
「ああ」
階段へ向かう背中を見ていたら、別の言葉が口から出た。
「そういえば、この前の佐伯との飯」
澪が振り返る。
「はい?」
「デートとかじゃなかったからな」
言ってから、自分でも唐突だと思った。
澪も一度だけ瞬きをする。
「……そうなんですか」
「仕事の話したり、映画の話聞いたりしただけ」
「そうですか」
澪の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「じゃあ、着替えてきますね」
「ああ」
澪が二階へ上がっていく。
聞かれてもいないのに、何を説明しているんだろう。
冷めかけたコーヒーを飲み、そのことは考えないことにした。
その日の夕食後、俺はいつものようにテレビをつけた。
澪も来るものだと思って、反対側の席には何も置かなかった。
けれど食器を片づけた澪は、冷蔵庫から水を一本取り出すと、そのまま二階へ向かおうとした。
「もう部屋戻るのか?」
声をかけると、澪は階段の前で振り返った。
「少し読んでおきたいものがあるので」
「そっか」
用事があるなら仕方ない。
「おやすみなさい、兄さん」
時計を見ると、まだ八時を少し過ぎたばかりだった。
「ずいぶん早いな」
「寝るときに、また降りてくるのも変ですから」
澪は少し笑って、そのまま二階へ上がっていった。
テレビをつける。
昨日とは違う番組だった。
反対側の席だけは、昨日と同じように空いている。
リモコンで少し音量を上げた。
番組の出演者が笑えば、テレビから大きな笑い声が流れてくる。それでも九時を過ぎるころには見る気がなくなり、電源を切った。
水でも飲もうとキッチンへ向かったところで、二階から澪が下りてきた。
「あれ、まだ起きてたのか」
「はい。飲み物だけ取りに」
澪の手には白い封筒があった。
すれ違ったとき、表に印刷された会社名が目に入る。駅前にも店舗のある不動産会社だった。
俺の視線に気づいたのか、澪が封筒をわずかに自分の方へ寄せた。
「どうかしました?」
「いや」
何の書類なのか。部屋でも探しているのか。
喉まで出かかったが、飲み込んだ。
ここ数日、澪は俺の予定も、佐伯のことも、帰宅が遅れた理由も聞いてこなかった。その澪に、自分だけ何でも聞くのも違う気がした。
「水、まだあるぞ」
「ありがとうございます」
それだけ言って、俺は階段を上がった。
自室へ入り、ドアを閉める。
少し遅れて、廊下の向こうでも扉の閉まる音がした。
結局、あの封筒のことは聞けなかった。




