第2話 やらないために書いている
黒いノートを見つけてから、四日が経った。
「兄さん、今日の夕食は家で食べますか?」
「うん。七時半くらいには帰れると思う」
「分かりました」
朝食の席で交わしたのは、それだけだった。
以前なら、澪の方から帰宅時間を聞いていた。残業になりそうか、夕食を何時にすればいいか。その程度の確認だと思っていたし、俺も特に気にせず答えていた。
今は、夕食が必要かどうかしか聞かない。
俺が自分から七時半と言っても、澪はそれ以上尋ねなかった。
ノートを見られた日、澪は「しばらく近づかない方がいいと思いました」と言っていた。その言葉どおり、生活の中から少しずつ自分を引いているらしい。
避けられている、というほどではない。食事は一緒にするし、話しかければ普通に返事もする。ただ、以前なら澪の方から埋めていた部分が、そのまま空白になっている。
俺はまだ、その変化に慣れていなかった。
木曜日の夜、帰宅してすぐ風呂へ入った。
スマホをリビングのテーブルに置き忘れたことに気づいたのは、風呂から上がってからだった。
十五分ほどしてリビングへ戻ると、スマホは置いた場所から動いていなかった。ただ、画面が明るくなっている。
通知が二件。そのうち一件には、同じ部署の佐伯美咲の名前が表示されていた。
『この前話してた店なんですけど、金曜か土曜に――』
ロック画面で見えるのはそこまでだった。
顔を上げると、澪がソファでテレビを見ている。
いつもの場所ではなかった。普段はテーブルに近い方へ座るのに、今日は反対側の端にいる。そこからでは、俺のスマホには手を伸ばしても届かない。
「そこ座るの珍しいな」
澪は自分の座っている場所を見てから、テーブルへ一度だけ目を向けた。
「近いと、見たくなるので」
あまりにも普通の口調だったので、すぐには返事が出なかった。
「……見たいの?」
「気にはなります」
それだけ答えると、澪はまたテレビへ視線を戻した。
天気予報では、明日の夕方から雨になると言っている。
俺はスマホを手に取った。
『一、兄さんのスマホを勝手に見ない』
ノートに書かれていた最初の項目が頭に浮かぶ。
画面には佐伯の名前も、メッセージの一部も出ていた。それでも澪は、近づかない方を選んだらしい。
通知を開くと、佐伯からの誘いだった。
会社で少し前から話題になっていたイタリア料理店に、金曜か土曜のどちらかで行かないかという内容だった。
翌日の昼休み、佐伯本人にも声をかけられた。
「高瀬さん、昨日のメッセージ見ました?」
「ああ、ごめん。返すの忘れてた」
「既読にもならないから、寝るの早すぎる人なのかと思いました」
「そこまで早くないよ。今日なら大丈夫」
「じゃあ七時くらいで」
佐伯とは何度か同僚を交えて食事をしたことがある。二人で行くのは初めてだったが、誘われた店も以前みんなで話題にしていたところだ。
その日の夕食は必要ない。
前日の夜、俺はそう澪に伝えた。
「明日、同じ部署の佐伯さんって女性と飯食ってくるから、夕飯はいらない」
味噌汁へ伸びていた澪の箸が、一瞬だけ止まった。
「分かりました」
返ってきたのは、それだけだった。
箸はすぐに動き始める。
店の場所も、帰る時間も聞かれない。佐伯とはどういう関係なのか、それすら確認しなかった。
何か言うかと思っていた。
けれど澪は、いつもと同じように味噌汁を飲み、皿の煮物へ箸を伸ばしている。
ノートには、女性に関する項目もいくつかあった。
『二、女性の連絡先を消さない』
『二十六、兄さんが女性と歩いていても後をつけない』
それを思い出したが、口には出さなかった。
翌朝も、澪の態度は変わらなかった。
「今日は夕食いらないんでしたね」
「ああ」
「分かりました」
トーストを俺の皿へ載せ、それ以上は聞かない。
以前なら帰宅時間くらいは伝えていた気がする。
言おうとして、やめた。
聞かれていないのにわざわざ知らせるのもおかしい気がした。
仕事を終え、佐伯と駅前の店へ向かった。
料理は評判どおりうまかった。仕事の愚痴を言い合い、最近見た映画の話を聞き、デザートまで食べても九時前だった。
特別なことは何もない。
店を出たところで佐伯と別れ、駅へ向かう。
改札の前でスマホを確認した。
澪からの連絡は来ていなかった。
そのままポケットへ戻す。
家に着いたのは十時少し前だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
リビングから澪の声が返ってくる。
ソファで本を読んでいたらしい。俺が入ると一度だけ顔を上げた。
「風呂、まだ大丈夫?」
「はい。まだそんなに冷めてないと思います」
「そっか。ありがとう」
冷蔵庫から水を出して飲む。
澪は本へ視線を戻した。
帰りが遅かったとも言わない。店のことも、佐伯のことも聞いてこない。
俺はコップを置き、何となく澪を見る。
ページをめくる音がした。
「澪」
「はい?」
顔を上げた澪と目が合う。
呼んでみたものの、話すことを考えていなかった。
「……いや、何でもない」
「そうですか」
澪は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
しばらくして本に栞を挟み、立ち上がる。
「先に寝ますね。おやすみなさい、兄さん」
「ああ。おやすみ」
二階へ上がっていく足音が遠ざかった。
静かになったリビングで、水を飲み終える。
テーブルには、昨日と同じように俺のスマホが置かれていた。
その横のソファは空いている。
澪がいつも座っていた、テーブルに近い方の席だった。




