第1話 兄さんを監禁しないためのルール
義妹の澪は、俺の帰宅時間をよく聞く。
「兄さん、今日は何時ごろ帰りますか?」
「七時くらい。残業になったら連絡する」
「分かりました。じゃあ、ご飯は七時半くらいにしますね」
聞くのはそれだけだ。誰と会うのか、仕事が終わってからどこへ行くのかまで尋ねてきたことはない。
両親の再婚で澪と兄妹になって三年。俺が二十八歳で、澪が二十四歳。両親が仕事の都合でしばらく家を離れてからは、この家で二人暮らしをしている。
澪は少し世話焼きで、俺に甘い。朝食を作ればついでに俺の分も用意するし、雨の予報を見れば玄関に折り畳み傘を置いておく。俺が風邪をひけば、仕事帰りにスポーツドリンクや薬を買ってくる。多少ブラコンの気はあるのかもしれないが、澪はそういう妹なのだと思っていた。
日曜日の昼過ぎ、澪が買い物へ出ている間に、俺はリビングのテーブルを片づけていた。読みかけの雑誌や郵便物を端へ寄せていると、見覚えのない黒いノートが一冊出てきた。
仕事で使っている俺のノートとよく似ている。
「俺のか?」
手に取って表紙を開くと、一枚目の紙が根元からきれいに切り取られていた。乱暴に破いた跡ではない。綴じ目の近くから、定規でも当てたようにまっすぐなくなっている。
何か書き損じたのだろう。その程度に考えて次のページをめくり、俺の手は止まった。
『兄さんを監禁しないためのルール』
数秒、意味を理解できなかった。
俺には義妹が一人いて、澪が兄さんと呼ぶ人間も俺一人しかいない。人違いであってほしいところだが、どう考えても無理がある。
その下には、番号を振られた文章が続いていた。
一、兄さんのスマホを勝手に見ない。
二、女性の連絡先を消さない。
三、兄さん宛ての郵便物を勝手に開けない。
最初の三つだけなら、少し変わった備忘録と言えなくもない。わざわざ書かなければ守れないのかという疑問は残るが、内容そのものは常識の範囲だ。
問題は、その先だった。
七、兄さんの鞄にGPSを入れない。
「……ん?」
思わず声が出る。
十二、兄さんの会社へ勝手に退職届を送らない。
十九、玄関の鍵を外から開かないものに交換しない。
二十六、兄さんが女性と歩いていても後をつけない。
三十一、兄さんの部屋から服を持ち出さない。
三十七、兄さんの飲み物に眠くなるものを入れない。
三十七まで読んだところで、さすがに閉じようと思った。だが、ここまで来て最後を確認しないのも妙に落ち着かず、そのままページをめくる。
四十二、兄さんが帰ってこなくても玄関の前で待ち続けない。
そこまで読んで、俺はノートを閉じた。
「何だよ、これ……」
妙なのは、書かれていることが全部「しない」ことだった。
GPSを入れるのではなく、入れない。女性の連絡先も消さない。玄関の鍵だって交換しない。
禁止する必要がある時点でどうなのかとは思うが、少なくとも実行するための計画表ではないらしい。
そのとき、玄関の鍵が開いた。
「ただいま帰りました」
澪の声だ。
俺はノートを持ったまま動きを止めた。今さら元の場所へ戻せば、隠れて読んでいたように見える。実際、途中からは完全に興味本位だったので、言い訳もしづらい。
廊下から足音が近づく。
「兄さん、牛乳が安かったので二本買って――」
買い物袋を提げた澪がリビングへ入り、言葉を止めた。視線が俺の顔から、手元の黒いノートへ落ちる。
すぐ取り返しに来るかと思ったが、澪は動かなかった。買い物袋を下ろし、リビングの入口に立ったまま俺を見ている。
「……兄さん」
「おかえり」
もっと他に言うことがあった気もするが、出てきたのはそれだった。
「何番まで読みました?」
「四十二」
「全部ですね」
「全部だな」
澪が小さく息を吐いた。怒っているようにも、泣きそうにも見えない。ただ、いつもならそのままキッチンまで入ってくるのに、今日はそこから近づいてこない。
俺はノートをテーブルへ置いた。
「これ、何?」
「実行しないための一覧です」
「実行しないため?」
「はい。思いついたら書いて、やらないと決めています」
予想していなかった答えに、俺はノートと澪を見比べる。
「じゃあ、ここに書いてあることを、やろうと考えたことはあるってことか?」
澪の視線がほんの少し横へずれた。
「考えるだけなら自由なので」
「自由かなあ……」
「少なくとも犯罪ではありません」
「実行したら犯罪っぽいものが何個かあるんだけど」
「だから、しません」
澪は真顔だった。冗談を言っている気配はない。それどころか、こちらの反応を静かにうかがっているようにも見える。
澪は床の買い物袋を持ち上げ、ようやくキッチンへ向かった。ただし俺の横は通らず、テーブルの反対側を回っていく。
「じゃあ、GPSも入れてないし、スマホも見てない?」
「はい。退職届も送ってませんし、鍵も替えてません」
冷蔵庫を開けながら、澪は淡々と答えた。
「俺の服も?」
「持ち出してません」
「……全部、本当に?」
「はい」
牛乳を一本しまい、もう一本をその隣に並べる。その動きに迷いはなかった。
考えてみれば、どれもされた覚えがない。スマホに見覚えのないアプリはないし、仕事にも毎日普通に通っている。家の鍵だって、ずっと同じものを使っている。
「じゃあ、何のためにこんなの書いてるんだ?」
「ですから、やらないためです」
「それは聞いた」
澪は冷蔵庫の扉を閉めてから、少しだけ考えた。
「思っただけのことまで、説明する必要はないと思います」
それ以上話すつもりはないらしい。買ってきた野菜を袋から出し、一つずつ冷蔵庫へ入れていく。
その横顔を見ているうちに、勝手にノートを読んだのは俺だということを思い出した。
「あー……澪」
「はい」
「悪かった。最初は俺のノートだと思ったんだ。本当に」
澪の手が止まる。
「途中からもですか?」
「途中からは違います」
「そうだと思いました」
「すみません」
素直に認めると、澪は少しだけ困ったような顔をした。
「別に怒ってません」
「でも、嫌だっただろ」
「それはまあ」
否定はしなかった。
澪は最後の食材を冷蔵庫へしまってから、テーブルの上にある黒いノートを見る。
「もう見ても構いません。知られてしまいましたから」
「いや、もう勝手には見ないよ」
「そうですか」
返事は妙に早かった。
その日の夕食は、豚の生姜焼きと味噌汁、それにキャベツの千切りだった。料理の味はいつもと変わらないが、向かいに座った澪はほとんど自分から話さなかった。
俺が仕事の話をすれば答えるし、テレビのニュースについて聞けば普通に返す。機嫌を悪くしているわけではなさそうだったが、食べ終わると食器を片づけ、そのまま二階へ上がろうとした。
「澪」
階段へ向かいかけた足が止まる。
「はい?」
「もしかして、俺のこと避けてる?」
澪は少しだけ黙った。
「少しだけ」
否定されると思っていたので、返事に詰まる。
「何で?」
「兄さんが警戒しているからです」
「まあ……あれを読んだ直後だからな」
「ですから、しばらく近づかない方がいいと思いました」
澪はそう言うと、さっきより少しだけ俺との間を空けた。
何か返そうとしたが、うまく言葉が出てこない。
「おやすみなさい、兄さん」
「ああ。おやすみ」
澪はそのまま二階へ上がっていった。
それから二時間ほどして、俺も寝ようとリビングを通ると、まだ照明がついていた。
澪がテーブルに座り、昼間の黒いノートへ何かを書いている。
「あ、ごめん。まだいたのか」
声をかけると、澪が顔を上げた。
「もう寝るところです」
ノートを閉じようとした、その直前だった。
書いたばかりの一行が目に入る。
『四十三、兄さんにノートを見られても、部屋に閉じ込めない』
澪の手が止まった。
「……見ました?」
「見えてしまった」
「そうですか」
澪はそれ以上何も言わず、ノートを閉じて胸元へ抱えた。
「おやすみなさい、兄さん」
「ああ。おやすみ」
澪が二階へ上がったあと、俺もしばらくして自分の部屋へ戻った。
ドアを閉めようとしたところで、昼間に見た黒いノートが頭をよぎる。
四十三個も残しておけるのに、最初の一枚だけは残せなかったらしい。




