第十三話 花知らずは再起する
「全く……次からは自分でやりなさいよ」
教室棟付近、クスノキの大木の下で、私たちはストレッチをしていた。
身体に柔軟性を持たせるための関節鳴らしが相当堪えたのか、トリーが無様にも倒れ込んでいる。さっきも言ったけれど、そんなんじゃ野生じゃ生きてけない。私と戦うなんて出来やしない。
勝ちたいって言ったのはトリーの方なのだから、私は応援したいと思っている。
「想像の二千倍は痛かった……」
「やってたら慣れるわ。とっとと慣れなさい」
「酷い」
トリーは水分を補給してから、「次は?」と私に訊ねた。
その意気や良し。
「最後は簡単よ」
「信用ならない」
「本当に簡単だってば。ただの基本技能だもの」
「信用ならない」
私は両手両足をぶらんぶらんと振る。トリーの目が、油断に見開かれる。
私は助走を付けてから、地面を強く蹴った。それと同時に、前屈みにしてあった上体を地面へグルンと回し、浮いた脚に引っ張られるように着地。
「ね、簡単でしょ」
「……アンタを、ほんの一瞬でも信じたボクがバカだった」
「なるほど……怖いのね。それじゃ、眼鏡を外してやりなさい」
「拒否権」
「無いわ」
私は即答した。トリーは面倒くさそうに左手で後頭部を掻き、眼鏡を外した。
「地面に手を着いても?」
「それは好きにして」
トリーは、その場で三点倒立をした。
「……っね、これくらいならっ……」
これは重症だ。
まさかここまでだったとは。
「立って」
「っはい」
トリーは立ち上がって、ズボンで手を叩いた。
私は腕を組み、彼を見つめる。けど、すぐに腕を楽にした。
「……骨が折れないよう、身体の感覚で覚えてね!」
私はかつて無い程のいい笑顔を浮かべた。トリーが「へっ?」と声を漏らす。
「ふんっ!」
彼の肩甲骨の間と、膝らへんに優しく、包み込むように手を当て、精一杯押し出す。
金髪がグワンと揺れて、彼は棒立ちの体勢のままひっくり返る。
一回転しかける彼を、私がすぐさまキャッチ。
「ね、出来たでしょ」
「……ボクじゃなかったらトラウマになってたよこれ」
「やる方だって簡単じゃないのだけど」
もう一度水を飲むトリー。
彼はついでに、眼鏡を掛け直した。無い方が——いいや、やめておこう。
「というか、アンタはローファーじゃないか。そんなので走るつもり?」
「私は慣れてるからいいの。トリー、あなたは自分の心配をして」
「言っておくけど、これでも運動は得意だよ」
「それは良かった。身体さえ動けば、どんなフィールドになったとしても、花詞銘の威力、効果関係無しに戦えるはず」
「まさか、それを見越して……?」
「そんな訳ないでしょ……今適当に考えたの」
「勿体無い……少しは見直したと思ったんだけど」
トリーは残念そうな表情を浮かべて、靴紐を固く結び直している。
彼は灰色の古びた運動靴を履いている。使い慣れたものほどよく走れるだろうし、それがいいと思う。
「競争でもする?」
「意外な提案ね。ハンデはいるかしら?」
「やだな。これでもボクは男だよ?」
「どこの誰よ。そんな訳の分からない法則を考えたのは」
私は腕を組み、目線が私より高いトリーを見下すように言った。
彼が珍しく、ふっと微笑んだ気がした。
「じゃあ訂正。ボクがボクなんだから、負けるわけがない」
「それでいいわ。私もその気概を借りようかしら」
合図をトリーに任せ、私たちはスタートのポーズを取る。
ゴールは、背後のクスノキの木。
コースは現地点から八百メートル先にある中央棟、そこから再び戻ってくるだけ。
ごく簡単な事。
「あっ、言い忘れてたけど、ボクようやく新しい銘と解釈を手に入れたんだよね」
「それは良かったわね。ちゃんと中央棟の壁を触りなさいよ」
「はいはい……よーいっ、どん」
私は足を回す。前傾姿勢——ずっと倒れかけとも言える危険な体勢で、トリーを置いていく。
三百メートルは走ったところで、ふと後ろを振り返る。
「悪いけど勝たせてもらう」
えっ。
トリーが浮いている。いや、引っ張られ続けている......?
彼の前には、移動し続ける金色の球体が浮いていて、直線的に、一定の速度で中央棟のある方向へ向かっている。
引力を持った、小ぶりな月のような球の生成と行使。そんなのまるで——。
「やっぱり、私たちは似た者同士なのね……呆れたわ。まさかジェイドの銘をパクるなんて」
だんだんと、彼の背は小さくなっていく。
少しギアを上げたけど、こんなペースじゃ、絶対に追いつけやしない。
——追いつけやしない? 誰が?
そもそも何よ? 演技は他人が居ないとしちゃいけないわけ?
信頼できる人の前でなら素の自分で居ていい? あなたがそんな勝手な事を決めたの?
甘えてんじゃないわ。そんなの駄目に決まってる。
だってあなたは、嘘つきでしょ。他の、何にもなれないんでしょ。
花が無いうちは、何者でも無いんだから。
"無色透明な花知らず"のままなんだから。
私は演じることしかできないんだから。
私は負けない。それも、私が特訓させている奴なんかに、負けやしない。
『吐いた息にすら神経を使うような表情をする。』
『咽喉が渇れ果てる程の、獣のような唸り声を上げる。』
私の本気、見せてあげる。
☆★☆
随分と引き離した。
この調子なら、ラシーナがここ中央棟に到着する頃には、ボクは彼女とすれ違った、千五百メートル地点にいるはず。
「勝ったね」
ジェイドの銘は便利だ。
彼は攻撃や撹乱にしか使っていなかったが、これなら高速移動だって楽々こなせる。
ボクは自分が作り出した引力の球に引っ張られながら、並行で球を真っ直ぐ飛ばしている。
折り返しだ。
風が心地よく、ボクの肌と白シャツの間を抜けていく。
これなら毎日特訓でもいい。
ただし、ボクが指導側になるだろうけど。
ボクが油断したその時だ。
前から来た、"緑混じりの黒い影"とすれ違った気がした。
ここは、まだ九百メートル地点だ。
土埃がボクを襲う。
まさか、今のは——。
ボクは急いで、球の引力を強め、加速する。
そんなわけない。ボクの読みでは、彼女が中央棟に到着するにはあまりにも早すぎる。
何で? 一体どうして?
「どうやって……!?」
足元を見る。
ラシーナが、その黒髪を揺らしながら、ボクと平行して走っている。
「せい……っ!」
彼女がボクに飛び掛かる。
俯くように飛行するボクの背に、彼女が跨った。
「追いついたわ! このまま一緒にゴールへと行きましょう!」
「いや……競争なんじゃ!?」
「何言ってんの? クスノキの前であなたから飛び降りて、私が先にゴールするに決まってるじゃない」
勇猛で大層自由なラシーナ。
ボクは確信した。
彼女となら、華峰祭のタッグバトルで優勝できるって。
☆★☆
「なかなか危なかったわ……」
「……まさかアンタに踏まれた勢いで地面に激突するとは思わなかったよ」
「クリーニング代と眼鏡の修理費は払うって言ったじゃない……拗ねないで頂戴」
「金なんかないくせに」
「あるわ。狩りをして、獲物を売って生計を立てていたもの」
土まみれになったトリーと、依然として綺麗なままの私は、揃ってクスノキに背もたれて言葉を交わしていた。
「その髪……」
「ああ、これ? ようやく黒髪が半分くらいまで広がったのよ! 今朝見たら肩まで広がってたんだから」
「半分? ああ、競争するまではそうだったね」
「何言ってるの? 今もでしょ?」
「確認してからもう一回、同じことを言ってくれる?」
トリーは呆れっぽく吐き捨てるように言った。
「まさか……また広がってるの? やった!」
私が喜びに浸っているところで、トリーが水を差す。
「それが必ずしもいい事とは限らないから」
「うん?」
「今回の競争。もしかしてラシーナ、君は花詞銘の片鱗を見せたんじゃない?」
「分からないわ。でも、どうしてそれがいけない事のように言うの?」
「……不確定要素が多すぎるんだよ。ボクは多分、ジェイドの幼馴染の次に、君と喋ってきた。なのに、ボクは君の事が何も分からない。ジェイドと違って、君を模倣する事も出来ない」
私は、少しずつ落ちてゆく日によって、移ろう空の色を眺めていた。
トリーはどこを見ているんだろう。
「補完して頂戴。私の芯がどこにあって、それがどんなものかなんて」
「……そっか。本当は、教えて欲しかったけど」
「散った紙の破片を集めて、元に戻すような大変な事よ。私には無理ね」
「あぁ。でも君が君であるように、ボクもボクだから」
「……私は、帰るわ」
演じる。演じて、演じて、演じ続ける。
本当の私が、嘘から解き放たれるその瞬間まで。
そして、その瞬間は着実に近づいてきている。




