第十二話 花知らずは手ほどきする
カーテンの隙間から入る陽の光は、懐かしい感じがする。
早朝から外に出て、肺いっぱいに、山の空気を吸う。
寝起きでぼんやりとした脳が、それで目覚めるのを感じる。
干し肉を口に放って、それから狩りに出る。
そして、帰ってからようやく朝食を食べる。
パンを一切れと、目玉焼き、そしてホットココアを一杯。
そんな毎日は、もう来ないのね。
「んっ……。もう朝……」
私はカーテンを、左右それぞれ壁にかける。
ふと振り返る。けれど、誰も料理はしていない。この部屋には、そもそも私しかいない。
「今日は午後から授業だったっけ」
誰もいない部屋に、私は語りかけた。返事はなく、昨晩からほったらかしのままの紙が
机に散らばり、引いたっきり戻していない椅子の背がこちらを向いているだけだ。
「水……飲まなきゃ」
私は、寮のある棟の一階、給水所に向かおうとした。けれど、流石にパジャマで出歩くのは良くない気がして立ち止まる。
着替えれば良いだけなのに。
そう気付くと、空っぽになったような感覚が私を襲った。
孤児院に居た頃からの、花を持っていない事への焦りや恐怖も、この学園に来た途端、それらは次々に消えていった。
木に留まる小鳥に、ハンドフルートで大きな音を立てれば、バサバサと飛んでいくように。
意義を考える。私が、背負い続けて来たものの意義を。今、背負おうとしているものの意義を。
それが何なのか、という問いに対する答えを曖昧にしたまま、私はクローゼットを弄る。それらしい、不格好でない服装を探す。
時間の進みが、やけに遅く感じる。今日は、いつも以上に思考が多い。自分の声に、何もかもが掻き消されそうになる。
そう感じていることすら、掻き消えてしまいそうになる。
自分の声しか聞こえなくて、いつものあの変な声は聞こえない。ずっと前から、聞こえていない。
「……今日はダメね。こんな私じゃ、失望される」
ついに気力は果て落ち、部屋に静寂が訪れた。
私はベッドに腰を下ろす。クローゼットも、開き放たれたままになる。
私は、待つ事にした。日が再び沈み、この部屋から見れる満天の星空を。あるいは、雨雲を照らす夕焼けを。
——そんな私の静寂をひび割るように、ドアが外側からノックされた。
「どなた?」なんて、口調を偽る元気は、残念ながら今の私には無かった。
「誰よ。何か文句でもあるわけ?」
「開けたまえ、ラシーナ君」
げっ。この声は。
「セント?」
「"先生"を付けなさい」
あの金髪か。トリーも銘が変わったせいで、ややこしくて仕方がない。せめてこの男には、伊達メガネを装着するのをやめてほしい。
トリーとセントの違いなんて、髪がパーマかパーマでないかくらいなのだから。
そうだ、セントはブロンド男とでも呼べば良い。
「直ちに開けなさい。三度は言わない」
「……ちぇっ」
私は仕方なく立ち上がり、仕方なく玄関まで歩き、仕方なく鍵を開けてあげた。
ドアを開け、うっすらとミルキーな香りが漂う。
「随分と怠そうな顔をしているな」
「分かっているなら帰ってくれたって良いのよ」
「単刀直入に言うが、君は今回の華峰祭……参加を見送りたまえ」
「はぁ?」
この男の澄まし顔には何かこう、沸々と来るものがある。今日は伊達メガネを着けていないようだし、殴ってもバチは当たるまい。
「ふっ!」
黄色い半透明の六角形が、まるで水辺の波紋のように広がるだけで、私の拳はブロンド男には届かなかった。
男はそれを気に留める訳でもなく、淡々と続きを語り始めた。
「君をつけ狙う生徒がいるのは、分かっているな」
「ああ、例のストーカーね」
「彼を何とか停学に出来たが、彼の停学明けと華峰祭は時期がぴたりと重なる」
「知ってるわ。この私があんな奴にビビるとでも?」
「……分かってはいたが、やはり無駄な忠告だったか」
ブロンド男はそのまま翻って去っていった。
それだけの用なら部屋まで来なくたっていいでしょ。
「ふん、二度と来ないで頂戴……っ!」
◇◆◇
何だかあの男のせいで、落ちきっていたテンションが好転した。「おかげ」って言うのは癪だから、あくまでも「せい」。
私は白制服に着替え、秋チームに申込み用紙を提出してから、教室へ行く。
尾行はされてなかったから、白制服がどうこうというトリーの主張は全くの嘘と捉えていいはず。
「あ、ラシーナちゃん!」
「こんにちは、アオイさん」
「ジェイドから聞いたよ、トリーと組んで、タッグバトルに出るんだってぇ?」
「そういえば、彼とトリーさんはルームメイトでしたね」
「そうそう。あーあ。またラシーナちゃんと同じ部屋がいいのになぁ……ジェイドみたく、あの上級生ブッ飛ばしちゃってよ」
「ふふっ。良くないですよ。何事にも、対話の姿勢は大切です」
私はごく自然な微笑みを彼女に見せた。
対話の姿勢とは言ったものの、例外はある。
件のストーカーとか。
「そういえば私、今度髪切りに行くんだよね」
「そうなんですか。どんな髪型にするおつもりで? アオイさんは何でも似合うと思いますけど」
「えへへ。そう?」
「ええ」
「じゃあ、マッシュショートにしちゃおっかなあ」
マッシュショート、という髪型が——というより大抵の髪型を深くは知らないけど、音の響きからして結構バッサリ切るつもりのようだ。
今のままでも可愛いけれど、髪が短い方がより彼女の活発な印象を引き立たせるだろう。
私はグッドサインを彼女に向けた。
「やった! 楽しみにしててね!」
「はい」
髪で気合いを入れる。
思いつかなかったかもしれない。
けれど、黒髪が広がっているのが良くわかる。
多分、髪の半分が黒に染まってしまっただろう。
「ラシーナちゃんも、華峰祭に向けて髪の毛染めてるの? 黒なんて、大胆だねぇ」
ぎくっ。
「いえ……その……ええ。そんなところでしょうか」
そうか。髪の黒が広がってしまえば、ユグドラシルを銘に持つという噂を否定する事になってしまう。
どうしよう。
私は教室を見回した。
「あれって……もしかしてラシーナ様の生命力が薄まって……!?」
「違う……地上の人間の銘を変えるのに、生命力を大量に行使されたんだ……!」
「お前かトリー! お前のせいでラシーナ様が!」
「ぼ、ボクが何をしたって言うんだ……?」
もしかして、私ってもう過大評価されすぎている?
いや、だってそうとしか考えられないじゃない。
だとしたら、最高に都合がいい……っ!
私は、クラスメイト達から理不尽に責め立てられるトリーを横目に、下卑た笑みを浮かべたのだった。
「アオイさん。例の件……」
「わ、わぁああああっ! ¿ナンノコトカナー?」
「そうでした。内密に、とのことでしたね」
アオイは、ジェイドを華峰祭終わりのダンスパーティに誘いたい、という事を以前言っていた。
私はすっかり忘れていたが、ジェイドの名前が出た事で、ふと思い出した。
彼女は夏の国の平民の出で、ジェイドの家とは交流が何度かあったそうなのだ。
もっとも、それはジェイドの家が領主貴族だかららしいのだが。
2人は両片想いのようにも見える。そんな言動や態度が感じ取れる。
あくまでも客観的に見て、という事であって、それが確かなのかは定かではない。
私は誰に弁論してるんだか。
「頼むからねっ」
アオイは囁き声で私に耳打ちした。
私は軽くお辞儀をして、ここへ来てから少し喋りたかった人の方へ移動する。
「トリー、少し宜しいでしょうか?」
トリーは、教室の大窓から入り込む光を、その金髪パーマに吸い込ませるようにして、ただそこに座っていた。
そのダークパープルの瞳は、確かに私を捉えている。
白パーマに入ったシンプルな黒の横線が、彼から拭いきれない異物感を集約したもののように思えてくる。
「……何」
トリーは短く尋ねた。何だか不機嫌だ。
先程とばっちりを受けたからだろうか。それとも、私が敬語に戻ってしまっているのが頂けないのだろうか。
後者なのだとしたら、我慢してほしい限りだけど。
「後程、お話しできますか?」
「……どこで」
彼が白制服になる前とは想像もつかない程、声は弱々しかった。
「そうですね……すぐそこに大木があると思うのですが」
彼は考えるようにして、私から目線を外し、肘をつき頬に手を当てた。
「あぁ、あのクスノキ……」
「ええ。それでは」
私は席に戻る。途端、トリーの方に人が集まる。
彼らがトリーに何を訊いているのか、私は聞く気にはなれなかった。
授業——というより連絡はというと、華峰祭が近いから明日からしばらくは授業が無い、という旨のものだけだった。
そんなの、紙を一枚掲示板に貼っつけるだけで充分だと思う。
私は連絡が終わり、皆が一斉に寮へ戻っていくのを横目に、ゆっくりと鞄にノート類をしまった。
鞄を右手で持ち、教室を見回す。もちろん、そこには私しかいない。
ということは、トリーはもう待ち合わせ場所にいるのだろうか。
教室を出たすぐにある、先日ジェイドに引き上げてもらった窓。私はレールの上に立ち、外気を浴びながらクスノキの大木めがけて飛び降りた。
太い枝を左手で掴み、逆上がりして上に立つ。右手が塞がってるにしてはよく動けた、と自分を褒めたい。
トリーはまだ居な——。
「その……下りたほうがいい」
彼の声がして、私は真下を見て、何故そんな事を言われたのか分かった気がした。
私は頭が下になるよう枝から落ちて、着地の瞬間に翻った。
「ばーか」
私は何の理由も無く彼を罵倒した。
やっぱり嘘。理由ならある。
彼は格好でも付けているのか、両手を頭の方にやって、木にもたれかかっている。
「誰がバカって? 脱水でぶっ倒れた人にゃ……」
私が拳を握るようなポーズをとった途端、彼は口を噤んだ。素直で大変よろしい。
トリーの前では自然体で過ごせるけれど、それをしんどく思う自分が居るのが、何故か不思議でならない。
「特訓よ」
「あー……やっぱりやるんだ、あれ」
教室での彼とは裏腹に、声ははっきりしていて、よそよそしくない。彼も、もしかしたら私とそう遠くない存在なのかもしれない。類は友を呼ぶってやつなのかな。
「さっ、まずは準備運動をして。中央棟からここまでを一往復しなさい」
「アンタはバカなのか? ここから中央棟までどれだけあるか分かって言ってんの?」
「分かって言ってるに決まってるじゃない。たかだか片道八百メートル、それを一往復走るだけよ?」
「くそっ……この筋肉バカめ」
「筋肉で結構。野生じゃ、それが無かったら生きてけないもの」
「せめてバカも認めてくれ……」
トリーは「それで、準備運動って?」と訊ねてきた。
「私の真似でもしときなさい」
「はいはい……」
トリーもようやく観念したのか、私のストレッチを見真似るみたいだ。
私たちはマントを脱ぎ捨てる。トリーは、白パーカーも脱いだ。
私は手始めに、彼と向き合いながら、片足立ちを始めた。右脚なら、右手で脛を持ち、左脚なら左手で、といったように、スカートが捲れない程度に脚を上げ、ピョンピョンと十度ずつ跳ねる。
「なーんだ、意外と簡単じゃないか」
「一つ目のストレッチぐらいで何を言ってるのかしら。次は関節鳴らしよ」
「それならいつもやってる。首と手足、指を鳴ら……待って、なんで靴脱いでんの」
トリーは、意外そうに私を見た。
「言ったでしょ。関節を鳴らすって」
「まさか、全部の関節とか言い出さない?」
「そんな訳ないでしょ。人体の構造的に鳴らせない関節だってあるんだから」
私はローファーを脱いで、足の指、甲、足首を次々にポキポキと鳴らしていく。
「そもそも関節を鳴らすのって良くないんじゃ……」
「あら、いつもやってるんじゃなかった?」
私は無表情のまま、膝、股、腰、背の関節を順に鳴らす。手も足と同じく、そのまま肩も。
一通り終わったところで、トリーがそこに突っ立っているのが見えた。
「何をしているの?」
「……アンタは正気じゃない」
「あなただってやるのよ」
「ちょっ、待って……それ以上近付くな……近寄らないでください……お願いしま——」
教室棟付近で、トリーの痛みに悶える声が響き渡った。




