第5話 二年分の距離
大阪へ移った最初の夏、直樹は紗季に写真を送ろうとした。
机の上に、試作した機器の部品が並んでいる。小さな部品で、写しても何を作っているのか分からない。撮影できる場所も限られていたから、結局、帰り道に撮った夕焼けの写真を選んだ。
『ようやく担当した試作が動いた。元気にやってるよ』
そこまで打って、手を止めた。
紗季が海沿いで言ったのは、いつか会えたら元気だったと教えて、だった。今すぐ報告してほしいという意味ではない。それくらい直樹にも分かる。
それでも送ろうとしたのは、一番先に紗季に聞いてほしかったからだ。
画面を閉じて駅の改札を通った。写真は消さずに残した。
◇
仕事は思っていたより難しかった。
新潟の設計チームでは、決められた寸法に合わせて図面を直すことが多かった。大阪の開発部門では、その寸法をなぜ選ぶのか、試験の結果を見て説明するよう求められる。自分の案を出しても、その場で採用されることは少なかった。
半年たった頃、担当者に図面を戻されて、直樹は残業して数字を確かめ直した。隣の席の先輩が帰り支度をしながら声をかける。
「明日の朝でもいいよ」
「この条件だけ、今日見ます」
「帰れなくなるなよ。条件は逃げないから」
直樹は笑い、先輩が帰ったあとも表を開いていた。間違いを見つけたのは夜九時過ぎだった。修正箇所をメモに残して帰る。
部屋に着き、コンビニの弁当を温めながらスマートフォンを見た。紗季の会話画面は、一覧の下の方に沈んでいる。開けば最後のやり取りが残っていた。
『店の前で待ってるね』
『分かった。もうすぐ着く』
海沿いを歩いた夜、迎えに行く前に交わしたものだ。別れたあとは何もない。あの夜に言われた言葉だけが、画面の外に残っていた。
紗季からも連絡は来なかった。理由は分からない。ただ、自分も送れずにいる以上、その沈黙を責めることはできなかった。
直樹は一度、紗季の店の名前を検索した。営業時間と写真が出た。自分が直した棚は写っていない。焼き上がったパンが何種類も並び、客が撮ったらしい写真には、店の外に短い列ができていた。
うまくやっている。
それが分かると、連絡する理由が一つ減った。
◇
一年目の秋、直樹は帰省した。
駅から実家まで、母が車で迎えに来てくれた。車窓に知っている店が並ぶ。紗季のパン屋へ曲がる交差点が近づくと、直樹は助手席の窓を少し開けた。
「寒くない?」
「大丈夫」
母はいつも通りの道を走った。交差点を曲がらず、実家へ向かう。
直樹も、曲がってほしいとは言わなかった。帰省中に実家の車で近くを通った日も、店の前までは行かなかった。
年末にも一泊だけ帰った。紗季の店が休みかどうかさえ調べずに、家族と買い物へ出た。母が「朝はパンにしようか」と言ったとき、直樹は近くのスーパーで買えばいいと答えた。母は理由を聞かなかった。紗季のパンを避けたかったわけではない。ただ、袋を持って実家の食卓に座れば、母から何も聞かれなくても自分が落ち着かないと思った。
別れてまだ数か月の頃なら、会えば話せることがある気がした。大阪へ出て半年を越えると、何から話せばいいのか分からなくなっていた。
紗季は店を開け、閉め、翌日の準備をしている。直樹も仕事の図面を描き直し、新しい部品を試す。互いに知らない日が少しずつ増えていった。
◇
二年目の春、新しい機器の試験が終わった。
初めて自分の提案した部品の形が製品に残った。小さな変更だったが、直樹には嬉しかった。試験の結果をまとめて提出すると、先輩が自動販売機のコーヒーを一本おごってくれた。
「次の案件、最初から入らないか」
「俺がですか」
「お前が出した案の続きだ。設計から試験まで、一年半くらいかかる。やるなら明日、担当に名前を出す」
直樹は缶を開けた。あの案の先を作りたいと思った。紗季に大阪行きを伝えたときは、仕事を覚えたあとなら地元へ戻る方法が見つかるかもしれないと考えていた。少なくとも今、その方法を探していない。
「やります」
「よし。また図面は戻すけどな」
直樹は笑った。返事をしてからも、嬉しさは消えなかった。大阪の仕事を、今度は自分から選んだことも分かっていた。
今なら、どんな製品を設計したいかは話せる。地元へいつ戻れるかと聞かれれば、やはり答えられない。
会社を出ると、同僚から夕飯の誘いが来た。直樹は待ち合わせの場所へ向かった。最近できた定食屋で、仕事と関係のない話をして帰る。その道にも、顔を覚えた店員がいる。
大阪で過ごす夜が、特別な夜ではなくなっていた。
紗季を思い出さない日もある。忘れたくて忙しくしているわけではない。帰宅して洗濯機を回し、翌日の天気を確かめて寝る。そんな夜が積み重なった。
それでも、週末のスーパーで値引きされたナスを見かけると、かごを持ったまま足が止まる。紗季なら何を作るだろう、と考えてから、自分の夕飯を選ぶ。直樹の暮らしには、もう彼女の予定は入っていない。小さな癖だけが、たまに残っていた。
◇
父が還暦を迎える週、母から電話があった。
「土曜の夕飯、家で食べられる?」
「昼には着くよ」
「お父さんには、まだ時間まで言ってないの。朝から落ち着かなくなるから」
電話の向こうで父の声がした。誰と話しているのか、と聞いているらしい。母は少し離れたところから「直樹」と答えた。
「来なくてもいいって言ってたよ」
「いつも言うだろ」
「私がケーキ頼んだの、昨日も確認してきたのに」
直樹は笑った。父は祝いごとに浮かれる人ではない。だが家族が集まる食卓は好きだった。
「何か買って帰ろうか」
「当日お願いするかも。買い忘れたものがあったら」
電話を切ったあと、直樹は紗季との会話画面を開いた。
地元へ帰る。二年ぶりに会うかもしれない、と伝えることもできる。店へ行けば、少なくとも紗季がいるかどうか分かる。
だが直樹がその店へ行けば、彼女は客として来た自分を迎えなければならない。忙しい時間に話しかけるのも、パンだけ買って帰るのも、どちらも違う気がした。
画面を閉じた。帰省を知らせるメッセージは送らなかった。
土曜の午後、実家に着くと、父は車庫の奥で洗車道具を片づけていた。直樹を見るなり「早かったな」と言う。母が玄関から顔を出して、「だから時間を言わなかったの」と笑った。
夕飯までまだ時間がある。祖母も来ると聞き、直樹は客間の座布団を並べた。父は五枚で足りると言い、母は一枚多めに出しておいてと頼む。直樹は六枚目を押し入れから取った。
台所から母が呼んだ。
「豆腐がない。あと、ねぎと飲み物もお願いできる?」
「いいよ」
「おばあちゃんのプリンも。六時半までには帰ってきてね」
母は忘れないようにとメッセージでも送ってくれた。直樹は母に車の鍵を借り、実家を出た。
父の祝いに使うものを買って帰る。それだけの用事だった。
店に着き、飲み物を二本かごへ入れる。豆腐の棚へ向かうと、通路の向こうに髪を耳へかける人がいた。
直樹は、歩く速さを落とした。




