第6話 今日の夕飯
直樹は車を発進させた。
スーパーの駐車場を出ると、父の家までは十分ほどだ。何度も通った道なのに、一つ目の信号で止まったとき、次を右へ曲がるのかまっすぐ行くのか、すぐに思い出せなかった。
紗季が知らない男と夕飯を選んでいた。
卵の数を相談し、帰ったらパンを切ると言っていた。直樹が二年間知りたくて、聞くことを避けてきた暮らしの一端が、あの短い会話から見えた。
彼女は元気そうだった。
声をかけていないから、本当のところは分からない。店が順調かどうかも、彼女が抱えている悩みも知らない。ただ、あの男と並んで買い物をする紗季は、直樹がいない間の暮らしを持っていた。
信号が青に変わる。直樹は右折して、実家へ向かった。
玄関を開けると、台所から母が顔を出した。
「早かったね。全部あった?」
「うん。プリンも買った」
「おばあちゃんに見つかる前に冷蔵庫へ入れといて」
祖母は客間で父と話している。直樹は買い物袋からプリンを出し、冷蔵庫の上段に置いた。残りの飲み物は母に渡す。車の鍵も、いつもの台所のフックへ戻した。
「豆腐、ありがとう。ねぎもあるね」
母が手早く袋を空にしていく。直樹は、買う途中で豆腐を一度棚へ戻し、もう一度取りに行ったことを話さなかった。
家の中では夕飯の支度が進んでいた。父は座布団の数が一枚多いと言い、祖母は一枚くらい取っておけば誰かが使うと返す。いつものやり取りだ。直樹は手を洗い、母に頼まれて小皿を並べた。
父の還暦祝いには、姉も仕事を終えて駆けつけた。母が焼いた魚と、父の好きな煮物が食卓に並ぶ。祖母が自分の皿に煮物を取りすぎて、父に半分渡した。
「主役の分がなくなると悪いから」
「俺の皿にもうあるよ」
「じゃあ直樹に」
直樹の皿に、しいたけが一つ増えた。姉が笑い、父が「押しつけたな」と言う。
直樹も笑った。楽しくないふりをする必要はなかった。紗季を見たことで父を祝う気持ちまで消えたわけではない。ただ、笑ったあと、卵売り場で聞いた声がふいに戻ってくる。
家族に気づかれないように、直樹は茶を飲んだ。
「大阪はどうだ」
父が聞いた。
「忙しいけど、ようやく新しい製品に関われるようになった」
「そうか」
「試験でまた直すところは出たけど」
「そりゃ、最初から全部うまくはいかんだろ」
父はそれ以上仕事の中身を聞かなかった。分からないからではなく、直樹が話す顔を見て納得したようだった。
母がケーキを出し、姉が写真を撮った。父は「大げさだ」と言いながら、ろうそくを一本ずつ確かめる。数字の形をした二本だけなのに、逆に立てていないか気になったらしい。
食事のあと、祖母のプリンを出した。直樹の分がないことに気づいた祖母が「半分食べる?」と聞く。
「いいよ。おばあちゃんのために買ったし」
「あら、なら全部もらうよ」
祖母が笑ってふたを開ける。直樹は台所へ皿を運んだ。
それぞれが今夜食べたいものを選び、同じ食卓につく。紗季とスーパーへ行った頃にも、こんな夜があった。あの頃の買い物を思い出すと、別れた日のことより胸が苦しくなる。
父は煮物をもう一皿取り、母に「まだある?」と聞いた。母は鍋からよそって渡す。直樹は水を飲み、空になったグラスにもう一度注いだ。
◇
寝る前、直樹はスマートフォンを開いた。
紗季との最後のやり取りは、別れた夜の待ち合わせのままだ。連絡先も残っている。直樹は、メッセージの入力欄に指を置いた。
『今日、スーパーで見かけた。元気そうでよかった』
送れば、紗季は何と返すだろう。見かけたなら声をかけてくれればよかった、と言うかもしれない。気づかなかった、と謝るかもしれない。
直樹は入力した文を読み返した。
元気そうでよかった。それは本当だ。けれどこの言葉を今送れば、彼女から返事をもらうための言葉にもなる。夕方、紗季の隣にいた男のことを聞きたくなるかもしれない。直樹は画面の文字を消した。
紗季が返事をしたいと思うかどうか、直樹には分からない。二人は別れたあと、連絡を取っていなかった。今日彼女が自分を見たかどうかも分からない。
あの人が誰なのかは分からない。けれど、恋人でなかったとしても、自分が大阪で働きたいことも、紗季がこの町で店を続けたいことも変わらない。彼女に連絡する前に、直樹が答えなければならないことは、二年前と同じだった。
それなのに、自分だけが二年前の「いつか」を今日に重ねていた。
あの日、紗季が言ってくれたのは、待っているという約束ではなかった。別々の場所で元気でいてほしい、という願いだったのだと思う。
直樹はスマートフォンを伏せた。連絡先は消さない。消せば今夜の気持ちが片づくとも思わなかった。ただ、今日見かけたことを伝えて返事を待つのはやめた。
客間へ戻ると、父が祝いの写真を姉から受け取っていた。写りを確かめて「俺だけ目をつぶってる」と言う。姉が別の一枚を送ると、今度は祖母がよそを向いていた。
「全員ちゃんと写ってるの、これ」
母が選んだのは、父が笑う前の写真だった。姉は撮り直せばよかったと言い、父は今さらいいと首を振った。直樹は、父が最初の写真を消さずに保存するのを見た。
◇
翌日、駅へ送ると言った父を断り、直樹は母の車に乗った。父は見送りに出て、玄関先で手を上げる。昨夜のケーキの残りを朝食べたと、母が車を出してから教えてくれた。
「お父さん、昨日は楽しそうだった」
「そうだね」
「また帰ってきなさいよ」
「うん」
紗季の店へ曲がる交差点を通った。母は直樹に行き先を尋ねず、そのまま駅へ向かう。直樹も店の方は見なかった。見れば、開いているかどうかくらいは分かる。でも、今朝の紗季が何を焼いているかを知るために寄ることはしなかった。
列車の窓から海が見えなくなるまで、直樹は外を眺めていた。
大阪へ戻れば、月曜からまた試験の続きがある。図面の修正箇所を確かめ、先輩と次の案を話す。帰りにいつもの定食屋へ寄るかもしれない。
紗季と過ごした三年を、なかったことにはできない。卵売り場で彼女を見た瞬間、今も大切だと思った。その気持ちを抱えたままでも、大阪へ帰れる。
直樹は駅で買ったコーヒーのふたを開けて、一口飲んだ。窓の外には、知らない町の家並みが続いていた。
紗季は今日も店を開けるだろう。直樹も明日、会社へ行く。
今夜は帰りにナスを買おう。前に紗季と焼いたときは、油を入れすぎた。もう一度作れば、今度は少しうまくできる気がした。




