第4話 いつか会えたら
上司との面談を終えた翌週、直樹は紗季と駅前の喫茶店で会った。
店へ行こうと言うと、紗季が別の場所にしたいと答えた。閉店後の店には、明日焼くパンの準備も、返さなければならない電話もある。話している途中で仕事に戻れる場所では、最後まで話せないと思ったらしい。
直樹が着いたとき、紗季はすでに窓際の席に座っていた。閉店後で疲れているはずなのに、髪を結び直している。向かいの椅子に座ると、彼女はメニューを直樹の方へ寄せた。
「何にする?」
「コーヒー」
「夕飯、食べた?」
「まだ」
「私も。先に頼もうか」
直樹は頷いた。二人で軽い食事を選び、注文した。紗季がテーブルの端に置いたスマートフォンには、店の仕入れ先から通知が来ていた。画面を伏せる前に一度だけ見て、彼女は鞄にしまった。
「上司とは話せた?」
「うん。四月から大阪の部署で働く」
「そうか。頑張ってね」
紗季はカップに触れたまま言った。直樹は「ありがとう」と答えた。
あの日から、二人は何度か連絡を取った。直樹は上司と人事担当者に、将来、新潟へ戻れる可能性を聞いた。開発部門にいる限り大阪での勤務が基本で、次に異動できる時期も勤務地も約束できないという返事だった。
地元の設計職の求人も見た。図面を扱う仕事はあったが、直樹が関わりたい医療機器の開発とは違った。残る道がないのではない。今の自分は、大阪の仕事を選びたかった。
紗季は店の営業時間を変えた場合の売上を計算した。日曜の午後に休める日は増やせるかもしれない。けれど、朝の仕込みから閉店まで任せられる人をすぐには雇えない。借入れの返済も続いている。
「一か月なら、何とかなりそうなんだよね」
料理が届く前に、紗季が言った。
「直樹が来る週を決めて、私も休みを合わせる。忙しい月は電話する。私、たぶん一年でもできると思う」
「俺も」
「でも、一年後に同じ話をしてる気がする」
直樹は水の入ったグラスを持ち上げた。飲まずに戻す。
「そのときには、俺の仕事も分かってくる。今より考えられることが増えるかもしれない」
「増えるかもしれないね」
紗季は否定しなかった。
「私も店が落ち着くかもしれない。でも、どっちも今は分からない」
運ばれてきた料理の皿を、二人は店員から受け取った。直樹の頼んだサンドイッチを見て、紗季が少し笑う。
「パン屋の人と会って、サンドイッチ頼むんだ」
「紗季の店にはないやつだから」
「そういう問題?」
一口食べ、直樹はうまいと答えた。紗季も自分の皿に手をつけた。料理の話をもう少し続けようとして、直樹はやめた。会う場所を変えたのは、この話をするためだ。
「遠距離でやってみたい」
「うん」
「決めなくていいことまで、今決めようとしてないか」
「私もそう思った。だから、何年でもいいか、自分に聞いてみた」
紗季はフォークを置いた。
「直樹が嫌になったわけじゃないよ。大阪へ行くことをやめてほしいとも思わない。でも私は、この町で店を続けて、いつか誰かと毎日一緒に暮らしたい。その誰かを、直樹だと思ってた」
「俺だって、そう思ってる」
「じゃあ、一緒に暮らせるのはいつ?」
直樹は答えられなかった。
「大阪で働いてみないと分からない。分かってる。だけど、私はそこで待つかどうかを決めるんだよ」
「待ってくれとは言わない」
「言わなくても、付き合い続けたら私は待つと思う」
彼女の声が少しだけ揺れた。直樹は初めて、紗季が数年間をどう過ごすかまで考えているのだと分かった。週末に何回会えるかばかり計算していた自分とは、見ている先が違った。
「会社を辞めてここに残ったら、俺が紗季にそれを背負わせる」
「うん。だから頼めない」
「店を閉めて来てほしいとも言えない」
「それは、私もできない」
二人とも、相手の決めたことが好きだった。直樹は、紗季が自分の店を開くために毎朝起きる姿を見てきた。紗季は、直樹が新しい機器の設計に関わりたくて勉強する姿を知っている。そこを変えさせてまで一緒にいると言えば、今好きでいる相手を傷つける。
「別れた方がいいと思ってる?」
直樹が聞くと、紗季はすぐには答えなかった。
「思いたくない。でも、そう思ってる」
直樹は窓の外を見た。バス停には仕事帰りの人が並んでいる。誰かが傘を畳み、隣の人が少し場所を空けた。
「一回だけ、やってみてもいいだろ」
「やってみて、だめだったら?」
「そのとき考える」
「私たち、今もそれを考えてるんじゃないかな」
紗季は少し間を置いた。
「一年後、会うことには慣れるかもしれない。でも、一緒に住むには、結局どちらかが仕事を変えるんだよね。私は店を手放すつもりがない。直樹にも、今の仕事を諦めて帰ってきてほしいとは思えない」
直樹は何も言えなかった。紗季が言っていることは分かる。それでも、今日ここで別れを決める理由として受け取るには、まだ時間が要った。
「少し、考えさせて」
「うん。私も考える」
その日は別れを決めずに帰った。
けれど帰り際、いつものように次に会う日を決めることもできなかった。
◇
それから三週間、二人はそれぞれの生活を続けた。連絡を断ったわけではない。直樹が仕事帰りに短いメッセージを送り、紗季が朝の仕込み前に返す。大阪で住む部屋の候補を見つけた日、直樹は画面を開いて、紗季に送るのをためらった。
紗季にとって、その部屋は新しい生活の話であると同時に、彼女がいない場所の話でもある。
引っ越しまであと一か月になった夜、紗季から電話が来た。
「少し歩かない?」
直樹は店の前で彼女を拾った。紗季の希望で、車を海沿いの駐車場に停める。外は冷え、二人とも上着の襟を寄せながら堤防を歩いた。
「遠距離のこと、また考えた」
紗季が先に言った。
「直樹と一緒にいたいから、私なら続けられるって言い聞かせてた。でも、何年後にどうしたいか聞かれるのが怖くて、直樹にも聞けなかった」
「俺も、答えがないのに続けたいって言った」
「それが悪いとは思わない。二人とも本当に続けたかったから」
海の方から風が吹いた。紗季の髪が顔にかかり、彼女は耳へ戻した。
「ここで別れたい」
直樹は立ち止まった。紗季も数歩先で足を止める。
「嫌だよ」
「うん」
「好きなのに」
「私も好き」
紗季は戻ってきた。直樹の目の前に立ち、手を伸ばす。握ると冷たかった。
「直樹が大阪でやりたいこと、ちゃんとやってほしい。私も、この店を続けたい。どっちかがいつか諦めるつもりで付き合うのは、つらい」
直樹はその手を離せなかった。
「紗季が誰かと暮らしたいって言ったとき、俺は自分がその人になるつもりだった」
「私もそう思ってた」
「今も、そうしたい」
「うん。だから、今日言うのがつらい」
しばらく二人とも動かなかった。直樹はもう一度続ける方法を言いたかった。月二回帰る。紗季の店が休みの日に大阪へ来てもらう。数年後に働く場所を探す。喫茶店で話した以上のことは、一つも出てこなかった。
握っていた手から、少しずつ力を抜いた。
「最後に店の片づけ、手伝ってもいい?」
「今日はもう終わってる」
「そうか」
「直樹、ずっと手伝ってくれたよ。棚も直してくれたし」
紗季は目を伏せ、すぐに顔を上げた。泣きそうなのが分かった。直樹も、喉の奥が詰まっていた。
「いつか会えたら、元気だったって教えて」
紗季が言った。
「直樹がどこで暮らしてても、それが聞けたら嬉しい」
直樹は頷いた。いつか、という言葉の先に、次の日付はない。それでも、二人が別々の場所で生きていくことだけは分かった。
「紗季も。元気でいて」
「うん」
車まで戻り、直樹は紗季を店の前へ送った。降りる前に彼女は助手席の扉を開けたまま振り返る。
「気をつけて行ってね」
「紗季も、明日の朝早いだろ。早く寝て」
「そうする」
扉が閉まり、紗季は店の横の階段を上がった。二階の窓に明かりがつくまで、直樹は車を動かさなかった。
直樹はその夜、紗季の連絡先を消さなかった。いつか会えたら、という言葉を、約束として残したかったのかもしれない。




