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二年ぶりに見かけた君は、俺の知らない誰かと暮らしているようです  作者: 黒咲かぐら


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第3話 一緒に行けない

 日曜日、直樹は紗季の店の棚に新しい金具を取り付けた。


 午前中の営業を終えた店内には、焼いたパンの匂いが残っていた。紗季が棚を押さえ、直樹がねじを締める。古い金具は片側だけ緩み、商品を並べるたびに棚板が少し揺れていた。


「これでどう?」


 紗季が両手を置いて確かめる。


「動かない。直樹、これくらいなら店の設備も作れるんじゃない?」


「人が食べるものを載せる棚と、病院で使う機械は別だよ」


「冗談。ありがと」


 紗季は外した金具を紙袋へ入れた。直樹は工具をしまい、彼女の顔を見た。二日前の夜、異動辞令を開いてから何度も考えた言葉は、どれも口に出すと違って聞こえそうだった。


「話がある」


 紗季の手が止まった。


「会社のこと?」


「うん。異動が決まった」


「行き先、決まったんだ。希望してた設計の仕事?」


「新しい機器の開発に入れる」


 紗季は「よかったね」と言った。直樹は頷けなかった。


「どこの事業所?」


「大阪」


 紗季は紙袋の口を折りかけたまま、直樹を見た。


「大阪に行くの?」


「辞令が来た。開発部門は大阪にある」


「断れないの?」


 直樹は首を横に振りかけ、やめた。仕事を辞めて地元で探すことはできる。会社に残って別の職種へ移る道も、ないとは言い切れない。けれど、直樹が続けてきた設計の仕事を、今の会社で続けるなら大阪だ。


「会社を辞めることはできる。でも、設計を続けたい。大阪の部署なら、新しい機器に関われる」


「そうだよね」


 紗季は袋を棚の下へ置き、レジ横の椅子を引いた。直樹も向かいに座る。彼女も設計チームが縮小される話は知っていた。だからこそ、異動先が決まる前には何も言えなかった。


 店の外を車が通った。午後の営業はない。二人が黙ると、冷蔵庫の音だけが聞こえた。


「いつから?」


「二か月後。来週、上司と面談する」


「行くつもり?」


「行きたい」


 紗季は頷き、しばらく床を見ていた。


「私も一緒に行くって言ったら?」


 直樹はすぐに答えられなかった。嬉しい、と思った。彼女と同じ場所で暮らせるなら、と思った。その先で、朝五時半から仕込みをする紗季の姿が浮かんだ。


「店は?」


「行かないよ。言ってみただけ」


 紗季は少し笑った。


「この店、去年開けたばかりだし。借りたお金もまだ返してる。私がいなくなったら、明日の予約を受ける人もいない」


 直樹は棚を見た。さっき自分が直した場所には、売り切れた商品の値札だけが残っている。紗季は毎朝この棚を満たすために働いている。


「店を辞めてほしいわけじゃない」


「分かってる。でも、一緒に暮らすなら、どっちかが動くことになる」


「遠距離なら、続けられる」


「うん。まずはそれを考えよう」


 紗季はスマートフォンを出し、地図を開いた。新潟から大阪まで、車なら長い距離になる。列車を乗り継ぐとどうか。夜行バスならどうか。直樹も画面を出して、金曜日の仕事が終わってから乗れる便を調べた。


 夜行バスで金曜の夜に出れば、土曜の朝に着く。紗季は土曜も店を開ける。閉店して片づけを終えれば夕方になる。日曜の午後に大阪へ戻れば、二人でいられるのは夜と次の朝くらいだ。


「私が休める日は、月に何日かあるよ」


「直前に決まる日もあるだろ」


「でも、店を閉める日を合わせれば」


 紗季はカレンダーを開いた。直樹も大阪の部署について聞いた説明を思い返す。開発が忙しい時期には、休日の予定が動くこともあるらしい。


「毎週は難しいと思う。月に二回、こっちへ来られるようにする」


「約束できる?」


「努力はする」


「直樹、それは約束できないってことだよ」


 紗季の声は責める調子ではなかった。直樹は、まだ働いてもいない部署の休日を、彼女との生活の前提にしようとしていた。


「ごめん。分からないことまで言った」


「私も、できるって言いたくて予定を開いた。こっちだって、急な注文が入れば休めないのに」


 紗季はカレンダーを閉じた。


「遠距離は、やってみたい」


 直樹は顔を上げた。


「でも、その先をどうするかは考えたい。半年会えた、一年続いた、で終わる話じゃないから」


「分かってる」


「私はここで店を続けたい。直樹は大阪の仕事を続けたい。それで三年後も別々に住んでたら、私たちはどうする?」


「三年も戻れないとは決まってない」


「いつ戻れるかも決まってない」


 その通りだった。会社には各地に事業所があるが、直樹の行きたい開発部門は大阪にある。経験を積めば別の働き方も選べるかもしれない。今の直樹に言えるのは、そこまでだった。


 紗季は二十八歳だった。直樹と同じだ。年齢を理由に彼女の望みを決めつけたくはなかったが、紗季が何年も先まで別々に暮らしたいとは思っていないことを、直樹は知っていた。


「私、この店を続けながら、いつかは家族と暮らしたい」


 紗季は直樹を見た。


「一緒に暮らす相手が直樹ならいいなって、ずっと思ってた」


「俺も思ってる」


「だったら、どうしたらいいんだろうね」


 直樹には答えがなかった。


 彼女が店を守りたいのと同じくらい、自分もこの仕事に挑みたかった。どちらかの希望を小さく言い換えれば、その場では仲直りできるのかもしれない。でも二人が望んだものは、その言葉では消えない。


「今すぐ決めなくていい」


 紗季が言った。


「まず、上司と話してきて。行きたいんでしょ」


「紗季は」


「私は、どうするか考える。直樹と続けることも含めて」


 直樹は、紗季が一緒に考えようと言わなかったことに気づいた。二人がそれぞれに守りたい生活を、彼女も考えているのだ。


 帰る前に、直樹は工具箱を持って店の入口に立った。紗季は先ほど直した棚を見ている。


「棚、助かった。明日の朝から使える」


「また緩んだら言って」


「うん」


 いつものように袖を引かれることはなかった。


 直樹は車に乗り、エンジンをかけた。店の窓越しに、紗季が直した棚の値札を貼り直しているのが見えた。明日の朝には、そこに焼きたてのパンが並ぶ。


 上司との面談まであと五日。大阪へ行きたい理由なら、今すぐにでも話せる。


 大阪へ行ったあと、紗季とどう暮らすか。その答えはまだ持っていなかった。


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