第2話 店を閉めたあとで
大阪への異動辞令が届いたのは、紗季と夕飯を買った日の夜だった。
その日は雨で、店の前の歩道に水たまりができていた。直樹が車を停めると、紗季は店内から手を振った。片づけは終わったはずなのに、直樹が入ると、彼女は奥の流し台で天板を洗っていた。
「先にスーパー行っててよかったのに」
「一緒に行くって言っただろ」
「十五分は待たせてる」
「十二分」
紗季は蛇口を止めて、壁の時計を見た。
「細かい」
「その十二分で腹が減った」
「じゃあ、これ」
彼女は袋に入れた丸いパンを渡した。売り場に出せなかった、少し形の崩れたものだった。直樹が受け取ると、紗季は天板を拭く作業に戻った。
店を開いて一年と少し。朝早くから焼いて、夕方まで売り、閉店後は翌日の仕込みをする。彼女が「今日は早く終わる」と言った日は、予定より三十分遅いだけで、いつもより本当に早かった。
直樹はパンを食べながら、入口の札を裏返した。閉店。最後の文字を隠すように雨粒が窓を伝っている。
「明日の朝、サンドイッチ十個だっけ」
「十二個に増えた。さっき電話が来た」
「手伝えることある?」
「じゃあ、そこの紙袋、十二枚数えておいて」
直樹が数えると、棚には十一枚しかなかった。予備の箱を開ける場所を聞き、紗季の指す戸棚からもう一枚取る。店を手伝うといっても、直樹にできるのはその程度だった。それでも彼女は、片づけの手を止めずに「助かった」と言った。
直樹は、紗季がこの店で働いている姿が好きだった。客と話すときも、焼き上がりを確かめるときも、彼女は自分で決めた場所に立っていた。
鍵をかけ、二人で車に乗る。ワイパーを動かしてもフロントガラスはすぐに濡れた。紗季は助手席でスマートフォンの仕入れ表を見ている。
「小麦、また上がるの?」
「うん。今の値段でいけるパンと、無理なパンがある」
「値段を変えたら」
「考えてる。でも、常連さんが毎朝買うのだけは、もう少しこのままにしたい」
紗季はそう言い、計算した数字を画面に打ち込んだ。
直樹の勤める会社では、新潟にある設計チームを年度末に縮小すると決まっていた。紗季にも話してある。直樹の担当する図面の仕事をどこへ移すのか、社員の行き先をいつ決めるのかは、まだ聞かされていない。
大阪には、新しい機器を開発する部署がある。そこへ行けるなら、直樹がやりたかった仕事に近づく。けれど大阪への異動を告げられたら、紗季とここで過ごす夜はどうなるのか。直樹は希望を口にするたび、その先を考えないようにしていた。
「直樹?」
「何?」
「信号、青」
後ろの車に鳴らされる前に発進した。
スーパーでは、紗季が野菜売り場で足を止めた。店を出る前には鶏肉を焼くと言っていたのに、値引きされたナスを見つけて、献立を変えようとしている。
「また始まった」
「ナス、安いよ」
「鶏肉は?」
「明日にする」
「明日も何か安かったら?」
「そのとき考える」
直樹はかごを持ち直した。三年間、何度もした会話だった。
二人が一緒に住んでいるわけではない。直樹は会社に近いアパートで暮らし、紗季は店の二階に住んでいる。閉店後に買い物をして、どちらかの部屋で食べる。朝が早い紗季を、直樹は夜遅くまで引き留めない。
その繰り返しが、二人には合っていた。
「卵、十個入り?」
「今日は買う。朝の仕込みで使っちゃったから」
紗季が棚を見て答える。直樹は頼まれたものをかごへ入れた。
「明日は何時に店?」
「五時半。直樹は?」
「八時半」
「ずるい」
「俺が決めた時間じゃない」
「私も自分で五時半にしたわけじゃないし」
そう言ってから紗季は笑った。開業を決め、営業時間を決めたのは彼女自身だ。直樹がそれを言う前に、自分で気づいたらしい。
会計を済ませて紗季の部屋へ行き、二人でナスを切った。直樹が焼いた分は少し油を吸いすぎて、紗季が焼いた分と皿の上ではっきり違った。
「そっち、私が食べるよ」
「自分で焼いたから俺が食べる」
「直樹、明日胃もたれする」
「そんな歳じゃない」
「二十八でしょ」
「紗季も」
テレビをつけずに食べた。雨は窓の外で降り続いていた。翌日の予約が十二個に増えたことや、直樹の会社の古い製図機がまた止まったことを話す。
食器を洗ったあと、紗季は店の売上帳を持ってきた。直樹は数字に詳しいわけではないが、彼女が計算している間、向かいの椅子で書類を読んだ。開業から一年を越えても余裕はなく、彼女は借り入れたお金の返済額を毎月確かめていた。
「今日は早く寝たほうがいい」
「あとこれだけ」
直樹は書類を閉じた。紗季は電卓の数字を帳面に移し、ようやくペンを置く。
「来年はね」
「うん」
「閉店後の片づけと仕込みを、三十分早く終えられるようにしたい」
「それが目標?」
「大きい目標だよ。誰かに夕方の仕込みを任せられるようになるってことだから」
紗季は指先についたインクをこすった。
「そうしたら、たまには晩ご飯、作る前から一緒にいられる」
直樹は頷いた。来年の自分がどこにいるか、まだ聞かされていなかった。
帰る前、紗季は残しておいたパンを二つ袋に入れた。直樹の明日の朝食だという。直樹は玄関で靴を履き、振り返った。
「日曜、休めそう?」
「午後なら。店の棚を直すんでしょ」
「うん。金具だけ先に買っとく」
「お願い。じゃあ、日曜に」
傘を開く前に、紗季が直樹の袖を引いた。少し背伸びをして、頬に唇を触れさせる。それから何事もなかったように扉を閉めた。
直樹は駐車場まで走った。車に乗ると、上着の肩だけが濡れている。助手席には、紗季が持たせてくれたパンがあった。
アパートへ帰り、シャワーを浴びる。濡れた上着を干し、日曜日に買う金具を調べようとスマートフォンを開いた。
未読のメールが一通あった。
会社の人事部からだった。
直樹は添付された辞令を開いた。大阪の開発部門への異動。着任日は二か月後。来週、上司との面談が設定されていた。
新しい製品の設計に関われる。嬉しさが湧いた次の瞬間、紗季が売上帳を閉じて言った「来年」が浮かんだ。
電話をかけようとして、やめた。もう夜の十時を過ぎている。彼女は明日も五時半から店だ。
日曜なら、顔を見て話せる。
直樹はそう決めて、紗季との会話画面を閉じた。日曜日までに何を伝えるべきか、答えはまだ出ていなかった。




