第1話 買い物かごの向こう
小川紗季が、知らない男と夕飯の材料を選んでいた。
遠藤直樹は、豆腐のパックを手に取ったまま動けなくなった。
二年ぶりに見た横顔は、思ったほど変わっていない。耳にかけた髪がほどけると、紗季は買い物かごを持つ手をいったん空けて、指先で戻した。付き合っていた頃にも何度も見た仕草だった。
違うのは、隣にいる人だ。
この店の野菜売り場は、去年の改装で場所が変わった。それでも直樹には、紗季と並んで歩いた通路が分かる。店を閉めたあと、二人で夕飯を買いに来た。紗季は献立を決めてから来るくせに、安くなった野菜を見つけると、必ず立ち止まった。直樹が「決めたんじゃなかったの」と言うと、「ここからが買い物でしょ」と笑った。
そのたび夕飯は少し変わった。何を食べたかは覚えていない夜も多いのに、一緒にこの通路を曲がったことだけは覚えている。
「こっち、六個入りだよ」
男が卵のパックを指した。紗季は棚に並んだ二種類を見比べる。
「六個じゃ足りないって。朝も食べるでしょ」
「じゃあ十個入り」
「最初からそう言ってる」
紗季が笑った。
店で客を迎えるときとは違う、肩の力の抜けた笑い方だった。直樹は、彼女がそんなふうに笑っていることを喜びたかった。けれど目の前では、卵の数を間違えた男に向けられている。
直樹は豆腐を棚に戻した。手に持ったままでは、そこに立っている理由がなくなる気がした。
父の還暦祝いで実家へ帰ってきた。母に頼まれたのは、夕食用の豆腐と薬味、飲み物、それから祖母が食べる甘いもの。買い物かごにはペットボトルが二本入っている。頼まれたものを選んでレジへ行けば済む。そう分かっているのに、足が動かなかった。
紗季の店は、このスーパーから車で十分もかからない。会ってもおかしくない場所だった。これまでの帰省でも、町を走るたびに店の近くを通った。ただ、立ち寄ったことはない。
母は、帰省した直樹に紗季の店の話をしなかった。そうしてほしいと頼んだ覚えはない。母が知らないだけかもしれないし、何か聞いていて黙っているのかもしれない。直樹も尋ねなかった。
店の前を通らなかった日まで、会わずにいられた理由にはならないらしい。
男が卵をかごに入れた。かごは紗季が持っている。店で働く仲間か、親戚かもしれない。直樹はそんなことを考えた。
「パン、明日の朝の分ある?」
「食パンならあるよ。さっき残してきた」
「じゃ、帰ったら切っとく」
「お願い。私、お風呂先に入るね」
直樹は商品の値札を見た。何が書いてあるのか、一つも頭に入らなかった。
男は紗季の返事を聞いてうなずいただけだった。大げさな言葉も、触れ合う手もない。そのまま二人は野菜売り場へ歩いていく。
帰ったら。
紗季が言ったのは、二人で同じ場所へ帰るという意味だ。少なくとも、直樹にはそう聞こえた。
自分のかごに何を入れるつもりだったか忘れ、直樹はスマートフォンを開いた。母からのメッセージが画面に残っている。
『おばあちゃん用のプリンもお願い。六時半までに帰ってきてね』
午後五時五十二分。車を出せば十分ほどで実家に着く。まだ時間はある。
直樹は惣菜売り場の横を通り、菓子売り場へ向かった。紗季たちと反対の方向だった。
地元の菓子店の商品が並ぶ棚の前を通る。二年前にはなかった棚だ。町は変わり、紗季もここで暮らし続けている。当たり前のことを、直樹は今になって見せられた気がした。
プリンを三つ選んだ。祖母の分が一つ、父と母の分が一つずつ。自分の分を取るか迷って、やめた。豆腐を買っていないことに気づいたのは、かごにプリンを入れたあとだ。
戻れば、また会うかもしれない。
それを嫌だと思ったのか、もう一度顔を見たいと思ったのか、直樹自身にも分からなかった。
紗季とは三年付き合った。二年前、大阪への異動が決まり、別れた。最後に会った日から、一度も連絡を取っていない。
仕事で使う図面なら、寸法が足りなければ確かめられる。曖昧なまま進めれば、あとで誰かが困る。直樹はそういう仕事を選んだ。
けれど紗季のことは、曖昧なまま二年経ってしまった。
向こうで元気にしているのか。店は続いているのか。聞こうと思えば、短いメッセージくらい送れたはずだった。送らなかったのは、返事が怖かったからだ。返事が来ないのも怖かったし、何事もなかったような返事が来るのも怖かった。
乳製品の棚の前で、年配の女性が牛乳を選んでいる。子どもが走ってきて、父親らしい人に呼び止められた。夕方のスーパーは、いつも通り騒がしい。
父からは三日前、「わざわざ来なくていいぞ」と電話があった。電話の向こうで母が「本人が一番待ってるから」と言い、父が何か言い返していた。直樹は予定どおり帰るよ、と答えた。
今夜は皆で夕飯を食べる。明日の昼には大阪へ戻り、月曜日からまた仕事をする。大阪にも顔を覚えた同僚や、帰りに寄る店がある。その生活を嫌っているわけではなかった。
直樹は豆腐売り場へ戻った。
紗季たちの姿はない。さっき手に取ったのと同じパックをかごに入れる。薬味も取る。今度こそ買い忘れはなかった。
レジに向かう途中で、二人がいた。
精肉売り場の前だった。男がひき肉を持ち、紗季がかごの中をのぞいている。向こうから直樹のいる通路へ来る。
声をかけるなら、今だ。
直樹は通路の端へ寄った。向かい合えば、紗季も気づくかもしれない。すれ違うだけなら、気づかないかもしれない。
紗季が顔を上げた。
目が合うまで、あと数歩だった。
男が何か言い、紗季はそちらを向いた。ひき肉のパックを受け取って、値引きのシールを確かめている。
「こっちでいいよ」
その声が聞こえた。
直樹は二人の脇を通り過ぎた。紗季が気づいたかどうかは、振り向かなかったので分からない。
レジの列は短かった。前の客が会計を済ませるのを待ちながら、直樹は買い物かごの中を見た。豆腐、薬味、飲み物、プリン。母に頼まれたものが全部ある。
「袋はお持ちですか」
店員に聞かれ、直樹は折りたたみ袋を見せた。ペットボトルを入れるとプリンが傾く。店員は先にプリンを手渡してくれて、直樹は礼を言った。普通に声が出たことに、少し驚いた。
会計を終えて店を出ると、海からの風が駐車場を抜けてきた。薄い上着の袖口から冷たい空気が入る。
車の鍵を出そうとして、スマートフォンも一緒に手に触れた。
紗季の連絡先は、消していない。
直樹は買い物袋を助手席に置き、運転席へ座った。画面を開けば、二年前に止まった会話が見える。そこまで分かっていて、まだ触れられない。
母からまたメッセージが届いた。
『帰り、気をつけて』
直樹は「今から帰る」とだけ返した。
エンジンをかけても、すぐには発進しなかった。出口へ向かう人たちの間に、紗季の姿を探している自分に気づいたからだ。
二年前、別れ際に紗季が言ったことを思い出す。
いつか会えたら、元気だったって教えて。
直樹は今日、その返事をしなかった。
どうして二年間、一度も返せなかったのか。その始まりは、大阪への異動辞令を受け取った夜にある。




