7
凍てつくような死の稜線を越えた私たちを待っていたのは、天青皇国の瑞々しい緑とは対極にある、圧倒的な熱と砂の世界だった。
切り立った岩山を縫うように下り、眼界が開けた瞬間、強烈な太陽の光が網膜を白く灼いた。熱波が陽炎となって大地を揺らし、乾燥した風が細かい砂粒を巻き上げて容赦なく頬を打つ。
「砂礫の交易国」、シャフルード。
東西南北の商路が交差するこの国は、巨大なオアシスを中心に、土色と赤煉瓦の建物がひしめき合うように広がる巨大な迷宮都市だった。
「……っ、げほっ、ごほっ……」
私の肩に寄りかかりながら、玲玉殿下が乾いた咳を繰り返す。
村を焼かれたあの日から、山中を不眠不休で駆け抜けた代償は、彼の肉体を確実に蝕んでいた。かつて白磁のように滑らかだった肌はひどく荒れ、疲労と極度の水不足で唇は白く干からびている。山越えの寒さから一転したこの過酷な熱風は、十五歳の少年の体力を奪い尽くすには十分すぎた。
「殿下、あともう少しです。街に入れば、日差しを凌げる場所があります」
私は彼の細い腰をしっかりと抱き留めながら、砂に足を取られないよう一歩ずつ前へ進んだ。
視界の先、陽炎に揺れる巨大な赤煉瓦の城壁が見えてくる。シャフルードの北門——交易の要所であるこの街の入り口は、天青皇国の優美な白亜の門とは違い、外敵を拒絶するための無骨な威圧感に満ちていた。
だが、門をくぐるのは容易なことではなかった。
城門の前には、ラクダの隊列や荷馬車が長い列をなし、その間を縫うようにして武装した門番たちが目を光らせている。彼らは砂色の革鎧を纏い、陽光を反射する鋭い長槍を手にした、この国の精鋭たちだ。
「……止まれ」
私たちの番が来たとき、横に広がった長槍の穂先が、容赦なく私の喉元を指した。
門番の男は、布で顔の半分を覆っているが、剥き出しになった両目には、異国者への剥き出しの猜疑心が宿っている。
「身分を証せ。どこから来た。……その小僧、伝染病ではないだろうな」
門番の声は、砂を噛んだように低く、ざらついている。
私の肩に預けられた玲玉の身体が、びくりと強張った。彼の荒い呼吸と、高熱に浮かされたようなうわ言が、沈黙の中に響く。この国の者たちにとって、国境の山を越えてきた身元の知れない「病人の少年」など、厄介事の種でしかない。
「……弟です。山を越える際、砂嵐に巻かれて熱を出しました」
私は努めて声を低くし、天青皇国の言葉を捨て、交易語の訛りを混ぜて答えた。
門番の視線が、玲玉の泥に汚れた衣と、その下に隠された私の腰元を執拗になぞる。
「弟、だと? 随分と顔が似ていないな。……それにお前、その腰のものは何だ。ただの村娘が持つには、重すぎる代物に見えるが」
男の手が、私の直剣の柄に伸びかける。
私の背筋に冷たい戦慄が走った。ここで抜けば、一瞬で周囲の伏兵に囲まれる。だが、父の形見を奪われるわけにはいかない。私は玲玉を支える左手に力を込め、右手の指先を僅かに動かした。
(……やるしかないのか)
殺気が爆発する寸前、私の袖を掴む玲玉の指に、ぎゅっと力がこもった。
「……あ、あ……あ……」
玲玉が、力の抜けた声で呻き、わざとらしく私の足元に崩れ落ちた。
彼の瞳は焦点が合っていないように泳ぎ、口元からは薄く唾液がこぼれている。完璧な「死にかけの病人」の演技だった。
「ひっ、おい! 近寄るな!」
門番が慌てて槍を引き、数歩後ずさる。
「こいつ、本当に病気じゃねえか! 厄介な熱病を街に持ち込まれてたまるか!」
「……お願いします、役人様。この子は……もう長くありません。せめて、水だけでも飲ませてやりたいのです」
私は玲玉の頭を抱き寄せ、震える声で懇願した。
同時に、隠し持っていた銀貨一枚を、門番の足元へ、他の誰にも見えない絶妙な角度で滑らせた。
砂の上に落ちた銀の鈍い輝き。
門番の目が一瞬だけ欲望に濁り、彼は素早く靴の先で銀貨を隠した。周囲の兵たちも、病人の熱気が自分たちに移るのを恐れ、忌々しげに顔を背けている。
「……チッ、さっさと行け! 炊き出しの広場に長居するなよ。死ぬなら路地裏の隅で死ね」
槍が引かれ、無骨な鉄の扉が、軋んだ音を立てて私たちのために僅かに開いた。
「……感謝いたします」
私は玲玉を抱きかかえるようにして、その暗い門の奥へと足を踏み入れた。
背後で重い扉が閉まる音が響く。
天青皇国の柔らかな光を、文字通り断ち切る音だった。
城門をくぐった瞬間、肌を焼く熱風とともに、むせ返るような香辛料と家畜の匂いが押し寄せた。
市場の喧騒。行き交う人々。
ようやく手に入れた、この国での「居場所」。だが、それは祝福ではなく、泥を這うような潜伏生活の始まりに過ぎなかった。
私は一軒の建物の影に玲玉を降ろし、周囲の目を盗んで、彼の耳元で囁いた。
「……殿下、よくやってくださいました。もう大丈夫です」
玲玉は、先ほどまでの「死にかけの少年」の表情をゆっくりと消し、力なく、だが確かな眼差しで私を見上げた。その瞳の奥には、恐怖よりも、静かな決意の炎が揺らめいているようだ。
「……凛華。……僕は、もっと上手くやれるようになる。君が、こんな風に頭を下げなくて済むように」
砂混じりの風が、二人の間に吹き抜ける。
かつて皇宮の庭で笑い合っていた平和は、もうどこにもいない。
私たちは、この砂塵舞う迷宮の中で、お互いを唯一の絆として、長きにわたる修羅の道へと一歩を踏み出した。
城壁の門をくぐると、そこにはむせ返るような異国の匂いと喧騒が渦巻いていた。クミンやカルダモンといった鼻を突く強烈な香辛料の匂い、羊の脂を焼く煙、そしてラクダの獣臭。
通りには、幾何学模様の鮮やかな絨毯を広げる商人や、色とりどりの絹織物を頭に乗せた女たちが行き交っている。響き渡る怒号のような値切り交渉は、私たちが聞き慣れた天青の言葉ではなく、舌を巻くような独特の響きを持つ異国の言語だ。
どこからか、葦の管を震わせる双簧管(=オーボエのような二枚舌の木管楽器)の、ひどく土臭く、哀愁を帯びた旋律が流れてくる。その旋律は、故郷を失った私たちの境遇を嘲笑うかのように、熱風に乗って鼓膜に絡みついてきた。
(ここに、私たちの味方は誰もいない)
周囲を行き交う人々の視線が、時折私たちに向けられる。泥と血の汚れが染み付いたボロボロの胡服を着た私と、足を引きずるように歩く美しい少年。好奇と、僅かな警戒、そして「隙あらば身ぐるみを剥いでやろう」という値踏みするような下卑た目。
私は無意識のうちに、腰に提げた父の直剣の柄に手を添えた。
「見るな」という明確な殺気を視線に乗せて周囲を睨みつけると、小悪党どもはチッと舌打ちをして視線を逸らしていく。
だが、威嚇だけで生き延びられるほど、この街は甘くない。懐にあるのは、村の祖父が非常用にと持たせてくれていた、なけなしの銀貨数枚だけだ。
「……凛華、」
玲玉の身体が、ふらりと大きく傾いた。
「申し訳ありません……少し、休ませてください」
彼はそのまま、日干し煉瓦で作られた建物の日陰に崩れ落ちるように座り込んだ。激しく肩を上下させ、呼吸をするたびに喉の奥でヒューヒューと嫌な音が鳴っている。限界だった。
「……ここで待っていてください。すぐに宿を見つけます」
私は玲玉を壁のくぼみに隠すように座らせ、外套を深く被せた。
周囲のバザールを見渡す。大きな隊商が利用するような豪奢な宿の門には、立派な青いドーム屋根と精緻なモザイクタイルが施されているが、私たちの銀貨では門前払いされるのがオチだ。
私はあえて大通りを外れ、香辛料の匂いよりもカビと泥の匂いが強い、薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
数軒の怪しげな酒場を通り過ぎた先に、分厚い土壁に囲まれた、窓の少ない安宿を見つけた。入り口には、片目を布で隠した筋骨隆々の男が、水タバコ(フーカー)の管を咥えて気怠げに座っている。
「……部屋はあるか」
私は男の前に立ち、天青の言葉と、道中で覚えたわずかな交易語を交えて短く尋ねた。
男は水タバコの甘い煙をゆっくりと吐き出し、私の泥だらけの姿を頭の先から足元までねめつけるように見た。
「部屋はあるが、前払いだ。お前みたいな浮浪者に貸すベッドはねえよ」
「金ならある。それと、仕事も探している」
私は懐から銀貨を一枚取り出し、男の目の前で弾き飛ばした。
男が反射的にそれを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、私は彼の手首を左手で掴み、右手で音もなくダガーを抜き放ち、男の顎下すれすれの壁に突き立てた。
ドンッ、という鈍い音が響き、男の唯一の目が見開かれる。
「……弟が病気だ。静かで、風の入らない部屋が要る。私は剣が使える。荒事でも、商隊の護衛でも、金になる仕事なら何でもやる。……部屋を用意して、仕事の斡旋人を紹介しろ」
平坦な、一切の感情を交えない声で告げる。
大将軍の娘としての誇りなど、天青の国境に置いてきた。今の私は、彼を生かすためならば泥水でも啜り、誰の喉笛でも掻き切る狂犬だ。
男は私の瞳の奥にある「本物の死線」を嗅ぎ取ったのか、小さく息を呑み、ゆっくりと両手を上げた。
「……わ、わかったよ。狂ってやがる……。一番奥の、通りに面してない部屋を使っていい。仕事の元締めは、夜に酒場へ来る『隻腕のザウル』を尋ねな」
交渉は成立した。
私はダガーを引き抜き、踵を返して玲玉の元へと走った。
あてがわれた部屋は、外の殺人的な熱射が嘘のようにひんやりとしていた。
分厚い日干し煉瓦の壁が熱を遮断し、小さな格子窓から差し込む一筋の光だけが、室内に舞う埃を金の砂のように照らし出している。古ぼけた寝台と、水差しが一つ置かれているだけの殺風景な空間だ。
「……殿下、ここなら安全です。横になってください」
私は玲玉を寝台に寝かせ、水差しから古びた杯に水を注いで彼の口元に運んだ。
玲玉は震える手で杯を受け取り、少しずつ水を飲み込む。そのたびに、痛む喉をかばうように顔をしかめていた。
「……凛華は、休まないの」
掠れた声で、玲玉が私を見上げた。
「ええ。この街の構造と、物価を調べておかなければなりません。明日の朝には、殿下のお身体に効く薬草を買ってきます」
私が彼に背を向け、扉へ向かって立ち上がろうとした、その時だった。
「……っ」
不意に、視界がぐらりと大きく傾いた。
足の裏から感覚が抜け落ち、私はそのまま、冷たい土間へと前のめりに崩れ落ちた。
「凛華!?」
床に倒れ込んだ衝撃で、肩の傷口が焼け火箸を押し当てられたように激しく痛んだ。
国境を越えてから今まで、極度の緊張とアドレナリンで無理やり抑え込んでいた肉体の限界が、安全な密室に入ったという安堵によって、一気に堰を切って溢れ出したのだ。
「あ……く、う……」
浅い呼吸しかできず、私は床の土を掻き毟るようにして呻いた。
全身から滝のように脂汗が噴き出し、視界が白く明滅する。左肩の、父の元部下である厳に大剣で斬られた傷口が、熱波と不衛生な泥によってひどく化膿し始めていた。分厚い胡服の布地が、どす黒い血と膿でべったりと肌に張り付いているのが分かる。
「凛華! しっかりして! 傷が、こんなに……っ!」
寝台から転がり落ちるようにして、玲玉が私の傍へ這い寄ってきた。
彼の手が私の肩に触れ、そのあまりの熱さに息を呑む気配が伝わる。
「……申し訳、ありませ……ん。ただの、掠り傷……少し休めば……」
強がりの言葉を紡ごうとしたが、口から出たのは熱に浮かされた掠れ声だけだった。
(なんて無様な……)
彼をこの宿まで無事に運び込んだ。そこまでは完璧だった。だが、彼の薬代を稼ぐための仕事を見つける前に、盾である私が倒れてどうするのだ。
「馬鹿なことを言わないで! こんなの、掠り傷なんかじゃない! 君はずっと、僕を背負いながらこんな傷に耐えていたのか……っ」
玲玉の声が、恐怖と自責の念で震えていた。
彼は泥だらけの自らの衣の裾を力任せに引き裂くと、水差しの水を含ませて、私の額の汗と、肩に滲む血を必死に拭い始めた。
「僕が……僕が何とかするから。待ってて、凛華、僕が薬を……」
「……だめです」
私は残された最後の力を振り絞り、立ち上がろうとした玲玉の手首を、血に塗れた手で強く掴んだ。
「殿下は……一歩も、外に出ては、なりません……」
「でも、このままじゃ君が死んでしまう!」
「ここは、天青皇国では……ないのです。金も持たない、異国の子供が外に出れば……すぐに、裏路地に引きずり込まれて……終わりです」
私は熱で霞む視界の中で、玲玉の紫水晶の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私は……死にません。一日、寝れば……動けますから。お願いですから……私のために、命を危険に……晒さないで、ください……」
言い終えると同時、私の意識は重い泥水の中に引きずり込まれるように、完全な暗闇へと落ちていった。
遠くで、玲玉が泣き叫ぶような声で私の名を呼ぶのが聞こえた気がした。
「……凛華ぁぁっ!!」
(ああ……殿下)
彼に「休まないの」と聞かれた時、本当はすぐにでも倒れ込みたかった。
私が倒れれば、この国で何も持たない彼は、どうやって生きていけばいいのか。
その強迫観念だけが、私をここまで動かしていたのだ。
暗い意識の底で、私はただひたすらに、己の不甲斐なさを呪っていた。
* * *
(凛華は、この不甲斐ない僕をずっと支えてくれていた。 こんな傷を負ってでも、僕の薬代を稼ぐために、すぐにでもまた血を流しに行くのだろう。彼女の剣は強い。だが、彼女一人に「組織」を作ることはできない)
玲玉は、窓の木枠に置かれた自らの傷だらけの手を見つめ、ギリッと強く握りしめた。
(衣食住のすべてを彼女に背負わせ、お膳立てしてもらわなければ生きられない自分が、死ぬほど口惜しい。僕がただ守られるだけの存在でいる限り、いつか彼女も……阿星たちのように、僕の弱さのせいで死んでしまう)
煌雷に奪われた天青皇国を取り戻すためには、ただ剣を振るうだけでは勝てない。
兵を動かすための「金」、情報を操るための「網」、そして、他国を巻き込むだけの「政治的価値」。
それらを、この見知らぬ異国の底辺から、たった一人で構築しなければならないのだ。
「五年だ」
玲玉は、どこまでも冷静に、自らの人生の時間を天秤にかけた。
「五年で、僕の身体を大人に作り変える。五年で、この国の裏の血流をすべて支配し、煌雷を討つための力を手に入れる。……そして、凛華」
彼は振り返り、ベッドで玉のような汗をかきながらこんこんと眠るその横顔を見つめた。
彼のために、自分の命すらも使い潰そうとしている、不器用で、どうしようもなく真っ直ぐな女従者。
「……もう君一人に、すべてを背負わせはしない。いつか必ず僕が強くなって、君を支える。国を奪い返し、誰も理不尽に奪われない国を、僕が作る」
その眼差しに宿っていたのは、己の無力さへの激しい怒りと、理不尽な世界を根底から作り変えようとする為政者としての強烈な渇望。
そして、自分を泥から掬い上げ、庇い続けてくれるただ一人の従者の重荷を、いつか自分も背負えるようになりたいという、静かで純粋な決意だった。
砂礫の交易国の、カビ臭い安宿の一室。
表向きは「病弱な弟と、彼を守る強い姉」という偽りの生活が、ここから始まる。
だがその実態は、祖国を奪還しようとする若き王が、その大切な従者をいつか守り抜くために、水面下で世界を裏返していく、長きにわたる潜伏の第一歩であった。




