8
白檀の甘い香りが満ちていた箱庭の時間は、もう遠い過去のものだった。
今、僕の肺を満たしているのは、ひび割れた土壁の隙間から入り込む砂埃と、カビの臭い、そして――凛華の左肩から漂う、生々しい血と膿の悪臭だった。
「……あ……く、う……」
薄暗い安宿の一室。冷たい土間の上に敷かれた粗末な寝台で、凛華は浅く、ひきつけを起こしたような呼吸を繰り返していた。
父の元部下である厳の大剣に裂かれた左肩の傷口は、熱波と不衛生な泥によってひどく化膿し、どす黒い血と黄ばんだ膿が分厚い胡服の布地にべったりと張り付いている。その周囲の皮膚は赤黒く腫れ上がり、彼女の全身からは滝のように脂汗が噴き出していた。
僕は、水差しの水を含ませた布で、彼女の額を拭った。布越しに伝わってくる体温は、火の粉に触れたように熱い。
かつて僕の頬の泥を拭ってくれた彼女の手は、剣ダコで硬く、いつも冷たい鉄の匂いがしていた。だが、今、僕が両手で包み込んでいるその手は、不自然なほどの熱を持ち、時折ビクン、ビクンと痙攣するように跳ねている。
「……一歩も、外に出ては、なりません……」
意識を失う直前、彼女は血に塗れた手で僕の手首を強く掴み、そう懇願した。金も持たない異国の子供が外に出れば、すぐに裏路地に引きずり込まれて終わりだ、と。
彼女は僕を生かすために、自らの肉体の限界をとうに超えながらも、その痛みを隠して極限の砂漠を歩き通したのだ。
(僕が、僕が何も持たないから……僕を守って、みんな死んでいく)
村が鉄鴉隊に蹂躙されたあの夜の絶望が、再び僕の心臓を冷たく鷲掴みにする。
阿星の虚ろな瞳。メイおばさんの絶叫。燃え落ちる藁葺き屋根。
僕を生かすために、自らの肉体の限界をとうに超えながらも極限の砂漠を歩き通した彼女は、熱に浮かされながらも血に塗れた手で僕の手首を強く掴んだ。
彼女がここで死ねば、僕を繋ぎ止める最後の命綱が断ち切られる。
これ以上、僕の無力さのせいで誰かを失うことなど、絶対に耐えられなかった。
僕は、窓の木枠に置いた自らの傷だらけの手を、ギリッと音が鳴るほど強く握りしめた。
僕は僕自身を大人に作り変え、この国の裏の血流をすべて支配し、力を手に入れる。そう誓ったはずだ。
ならば、その第一歩は、今この瞬間に踏み出さなければならない。彼女に守られるだけの「箱庭の皇子」は、あの燃え落ちる村の泥の中に置いてきたのだから。
僕は、凛華の熱い手をそっと寝台に戻し、寝巻き代わりに着ていた村の麻の単衣の帯をきつく締め直した。
そして、泥だらけの襤褸切れを羽織ると、軋む木戸を静かに開け、熱気と喧騒が渦巻く宿の地下へと続く階段に足を踏み入れた。
* * *
階段を降りるにつれ、空気が重く、粘り気を帯びていくのが分かった。
むせ返るような水タバコ(フーカー)の甘ったるい煙と、安い発酵酒の酸い臭い。羊の脂を焼く煙と、数日洗っていない獣のような男たちの汗の臭いが混ざり合い、呼吸をするだけで胃液がせり上がってくる。
安宿の地下にあるその酒場は、窓一つない石造りの地下室だった。
壁に掛けられた油ランプの薄暗い光が、泥と吐瀉物がこびりついた石畳を照らしている。円形の空間には、幾つもの汚れた木テーブルが並び、顔に刺青を入れた砂漠のならず者や、片目を潰された傭兵崩れの男たちが、独特の濁音の多い交易語で怒鳴り合いながら、博打や安酒に興じていた。
僕が階段を下りきり、その空間に足を踏み入れた瞬間。
ざわめきが、潮が引くようにフッと止んだ。
数十人の男たちの値踏みするような視線が一斉に、入り口に立つ僕へと向けられる。
異国の、それも見るからにひ弱で、泥だらけの襤褸切れを纏った十五歳の少年。彼らの目には、毛を毟られた哀れな雛鳥が、自ら蛇の巣穴に飛び込んできたように映ったことだろう。
(怖い)
全身の毛穴が粟立ち、足がガタガタと無様に震え始めた。僕は皇宮の深奥で、美しい花と絹に囲まれて生きてきたのだ。彼らのような、人を殺すことに何の躊躇いも持たない本物の「悪党」と同じ空気を吸ったことすらない。蛇の巣穴に放り込まれた生贄の雛鳥のように、心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに干からびた。
「……おいおい。何だ、この薄汚えガキは」
部屋の最奥。ひときわ大きな円卓に、数人の屈強な男たちをはべらせて深く腰掛けた男が、水タバコの管を咥えたまま口を開いた。
片目を布で隠し、筋骨隆々の肉体を晒している。そして、彼の右腕の肘から先は失われており、代わりに黒光りする鉄のフックが取り付けられていた。
彼が、この街の裏社会を取り仕切る元締め、『隻腕のザウル』。
「昼間、うちの門番に刃物を突きつけた狂犬みたいな女がいただろう。お前、あの女に抱えられてた病人のガキじゃねえか。迷子か? それとも、俺にそのケツを売りに来たか?」
ザウルが下劣に嗤うと、周囲のならず者たちも一斉に下卑た嘲笑を上げた。
「おい坊主、その細え首をへし折られる前に、ママの乳でも吸いに帰りな!」
「いや待てよ、よく見りゃ随分と上等な顔立ちしてやがる。綺麗に洗えば、南の商人がいい値で買っていくかもしれねえぜ?」
嘲笑と、あからさまな悪意の塊が、物理的な圧力となって僕の全身を叩きつける。足の震えが止まらなかった。心臓が早鐘のように打ち、耳の奥で自らの血流がごうごうと滝のように鳴っている。
逃げ出したい。
今すぐきびすを返し、凛華のいる安全な部屋に鍵をかけて毛布を被りたい。
(理屈や法律なんかで、飯が食えるかよ。正論ってのはな、それを相手に強制できる『力』を持ってる奴だけが吐いていい言葉なんだ)
隠れ里の広場で、僕の知識を鼻で嗤い、傭兵たちを差し向けてきた悪徳商人の言葉がフラッシュバックする。
あの時、僕は圧倒的な暴力の気配を前に足がすくみ、自らの正論が「無力な戯言」に過ぎないことを痛感した。結局、村を救ったのは僕の言葉ではなく、凛華の振るった凄惨な暴力だった。だが、今は違う。ここで僕が震えて逃げ出せば、凛華はあの暗い部屋で一人、熱に浮かされながら死んでいく。
僕を庇い、僕に代わって泥と血を被り続けてくれた彼女を、僕の「弱さ」で殺すわけにはいかないのだ。僕は、奥歯が砕けるほど強く噛み締め、両手で自らの太ももを力任せに殴りつけて足の震えを強制的に止めた。
だが、僕が逃げれば凛華が死ぬ。
僕は両手で自らの太ももを力任せに殴りつけて足の震えを強制的に止め、床の吐瀉物を踏み越えて、ザウルの円卓の前まで歩み寄った。
男たちの笑い声が、僕の異様な雰囲気に少しずつトーンダウンしていく。
僕は、ザウルの顔の数十センチ手前で立ち止まると、冷たく澄んだ紫水晶の瞳で、彼の残された左目を真っ直ぐに見据えた。
「……天青皇国のクーデターによる北の関所封鎖で、お前たちが仕切っていた薬草と鉄の密輸ルートが完全に死んだね。ここ数週間、資金繰りに相当焦っているんじゃないか?」
酒場の空気が、凍りついた。
遠くで酒瓶が床に落ちて割れるパリンという音が、ひどく場違いに響いた。
一介の浮浪児が知るはずのない、他国の正確な政治情勢と裏の経済状況。
ザウルの顔から笑いが消え、その目に明確な殺意が浮かび上がる。
僕は懐から、先ほどまで震えていた両手を静かに引き出し、ベタベタと汚れの張り付いたテーブルの上に意図的に、そして無防備に置いた。
手のひらを見せる。武器など持っていないという証明であり、同時に「お前たちの刃など恐れるに足らない」という絶対的な傲慢さの誇示だ。
「僕なら、天青皇国の南に続く旧街道を使った新しい密輸ルートの全容をお前たちに提供できる。あそこは冬の雪崩を避けるために作られた道だが、今の季節なら十分に荷馬車が通れる。天青の裏を知り尽くした僕と組めば、お前はこの街の物流を完全に独占できるはずだ」
それは、村の広場で地図の記憶から読み解いた知識を応用した、完全な「ハッタリ」だった。
今の僕に、そんな大規模なルートを動かす人脈も、護衛を雇う資金もない。理屈としては可能でも、それを実行する力が僕には欠落している。
だが、現実は甘くなかった。
僕が言葉を言い終えるより早く、ザウルの背後に立っていた大男が、獣のような速度で僕の背後に回り込んだ。
「が、はッ……!」
男の太い腕が僕の首に巻き付き、力任せにテーブルの上に顔面を叩きつけられた。
鼻血が噴き出し、視界が白く飛ぶ。男は僕の髪を乱暴に掴んで顔を上げさせると、冷たいナイフの腹を、僕の右の眼球にピタリと押し当てた。
刃先から伝わる、本物の死の冷たさ。
「……ハッタリを抜かすなよ、小僧」
ザウルが、鉄の義手をテーブルに打ち据え、砂を噛むような低い声で凄んだ。
「そんなうまい話、どこの馬の骨とも分からねえガキが持ち込んできたからって、誰が信じる? その南のルートとやらを吐かせた後、お前を解体して臓器を売り払ってやるのがこの街の流儀だぜ」
眼球に押し当てられたナイフの刃が、皮膚を薄く切り裂き、一筋の血が頬を伝う。
(殺される)
息ができない。涙が溢れそうになる。僕は無力だ。僕の正論など、暴力の前ではただの紙切れなのだ。
だが、ナイフの冷たさが、皮肉にもあの村の地獄を僕にフラッシュバックさせた。
阿星の首を裂いた長刀。燃え落ちる家。血だまりの中で完全に事切れた村人たちの、見開かれた瞳。
そうだ。僕はもう、すべてを失ったのだ。これ以上の恐怖など、この世に存在しない。
僕は、眼球に突き立てられたナイフを無視し、目の前に座るザウルの左目を、真っ直ぐに射抜いた。
瞬きすら、しなかった。
「……殺せよ」
僕の口から滑り出たのは、自分でも驚くほど冷たく、平坦な声だった。
首を絞め上げる大男の腕が、僕の異様な反応に一瞬だけ怯む。
瞬き一つしなかった。
恐怖はなかった。いや、恐怖を感じる機能そのものを、僕はあの村の炎の中で焼き捨ててきたのだ。
僕が見つめているのは、目の前の下劣な男ではない。この盤面を支配するための、力の力学だ。
「……もし僕を殺して情報を奪おうとするなら、好きにすればいい。ただし」
僕は、天井――凛華が熱にうなされながら眠っている二階の部屋の方を、ゆっくりと指差した。
「二階で眠っているあの『狂犬』の首輪を握っているのは、僕だ」
ザウルの片目が、微かに見開かれた。
昼間、入り口の門番が震え上がり、すぐに部屋を用意したという報告は、元締めである彼の耳にも当然入っているはずだ。一瞬で相手の急所を制圧する、本物の暗殺者の手口。
「僕に指一本でも触れれば、彼女は明日、お前の組織の人間を一人残らず喉笛を掻き切って皆殺しにするだろう。彼女の剣は、この街の三流のならず者が束になっても届かない。……昼間の彼女の目を見れば、それが冗談じゃないと分かるはずだ」
静寂。
水タバコの煙が、僕とザウルの間でゆっくりと揺らいでいる。
背後でナイフを弄っていた男たちの動きが、不自然なほどピタリと止まった。彼らもまた、昼間に凛華が放っていた本物の死線を嗅ぎ取っていたのだろう。
正論だけでは大人は動かない。
それを相手に強制するための『圧倒的な暴力』が背景にあって初めて、交渉は成立する。僕は、村で商人に嗤われ、凛華に手を汚させて学んだその残酷な真理を、今、この裏社会のボスの脳天へと正確に突き立てていた。
僕の知略というに、凛華の武力という絶対的な証拠を込めて放つ。
ザウルの額から、一筋の冷や汗が流れ落ち、顎を伝ってテーブルに落ちた。
彼は、僕の紫水晶の瞳の奥を覗き込もうとするかのように目を細め、そして、僅かに呼吸を乱した。
(こいつは、ただのガキじゃない)
ザウルの喉が、ゴクリと上下に動く音が聞こえた。
(……死体の山の上に立ち、他人の命を一切の躊躇なく盤面の駒として使い潰す、『王』の目だ)
長い、息が詰まるような数十秒の膠着。
やがて、ザウルはふっと曲刀から手を放し、ひび割れた声で乾いた笑いを漏らした。
「……いいだろう、小僧。お前のそのハッタリか狂気か分からねえ目玉に免じて、話に乗ってやる。だが、ルートの話が嘘だったり、しくじったりすれば、あの狂犬もろとも命はないと思えよ」
ザウルが身を乗り出し、僕を威圧するように言い放った。
周囲のならず者たちも、ボスが折れたことにホッと息をつきながらも、僕に対する警戒をさらに強めていく。
だが、僕は彼らに感謝するつもりも、安堵の笑みを浮かべるつもりもなかった。
「勘違いするな」
僕は、テーブルに置いていた両手をゆっくりと引き戻し、彼らを見下ろすように冷徹に告げた。
「これは対等な取引じゃない。……僕がお前たちを『使ってやる』と言っているんだ」
その絶対的な傲慢さを孕んだ声に、ザウルの顔が引き攣る。
だが、もう彼に僕を殺す選択肢はない。僕が提示した利益と、凛華という死の恐怖の天秤は、完全に僕の側に傾いているのだから。
「まずは、上の部屋の人間を治すための最高級の薬草と、この街で一番腕の立つ医者を手配しろ。それと、傷口を洗うための清潔な水と、新しく包帯にする絹の布だ。……今すぐにだ」
僕は踵を返し、一切の警戒を解いた無防備な背中を彼らに向けたまま、階段へと歩き出した。
「おい、さっさと動け! 医者を叩き起こしてこい!」というザウルの怒号が、背後から響く。
心臓の早鐘は、いつの間にか完全に鳴り止んでいた。
足の震えもない。あるのは、自分がこの理不尽な世界をねじ伏せるための「力」の使い方を、確かな手応えとして掴み取ったという、静かな高揚感だけだ。
(凛華。君が僕のために剣を振るうなら、僕はその剣が最大限の威力を発揮できるよう、この腐った盤面を整えよう)
冷たく薄暗い階段を上りながら、僕は固く決意を反芻していた。
誰の血も流さない優しい世界など、とうの昔に灰になった。ならば僕は、自らの手を泥と血に沈めてでも、この世界を支配する。
それは、すべてを奪われ、絶望の泥水から這い上がろうとする一人の少年が、自らの知略と他者の暴力を掌握し、冷酷なる覇王としての産声を、シャフルードの闇の底で明確に上げた瞬間だった。
* * *
「……ん……」
ひび割れた乾いた土壁の部屋の中で、私は鉛のように重い瞼をゆっくりとこじ開けた。
左肩を燃やしていた焼け付くような激痛と熱が、ひんやりとした泥状の薬草の感触によって、嘘のように和らいでいる。視線を落とすと、どす黒い血と膿にまみれていたはずの胡服は脱がされ、傷口は真新しい清潔な麻布でしっかりと、そして素人とは思えない手際で巻かれていた。
「……気がついた?」
不意に声がして視線を横に向けると、寝台の脇の冷たい土間に座り込み、こちらの様子をじっと窺っている玲玉の姿があった。
顔の煤汚れは水で拭き取られているが、その目の下には濃い隈が落ちている。
「……殿下。私は……」
「動かないで、凛華。裏医者の見立てでは熱は下がってきたみたいだけど、まだ絶対安静だって」
玲玉の言葉に、私は室内の異変に気づいた。
枕元の木箱の上には、天青皇国から逃亡してきて以来見たこともない、新鮮な水が入った水差しと、瑞々しい水菓子の盛られた籠が置かれている。さらに、傷口を拭うための酒瓶や、真新しい絹の包帯まで揃っていた。
そして何より――私の鼻腔が、玲玉の衣から漂う異質な匂いを捉えた。
安宿の部屋には似つかわしくない、甘ったるい水タバコの煙と、強い酒の饐えた匂い。ならず者たちが集まるような、不衛生な地下の匂いだ。
「殿下……その薬と食料は、どうしたのですか。まさか、一人で外へ出たのですか。私は一歩も出るなと申し上げたはずです……!」
私は弾かれたように身を起こそうとしたが、玲玉は私の無事な右肩をそっと、しかし有無を言わさぬ確かな力で押さえつけた。
「僕が手配したんだ。下の酒場にいた、隻腕のザウルという男と『取引』をしてね。彼が医者と薬をここに寄こした」
その名前に、私の全身から一気に血の気が引いた。
「取引……? 殿下、貴方は自分が何をしたか分かっているのですか! あの男はこの街の裏社会の元締めです。金も力も持たない異国の子供が、対等に取引などできる相手ではない! もし情報を吐かされたり、手篭めにでもされたりしていたら……ッ!」
激昂し、震える声で叱責する私に対し、玲玉の紫水晶の瞳は、恐ろしいほどに静かだった。
底が見えないほど深く、凪いだ湖面のような瞳。
「だから、対等な取引なんかじゃない。僕が彼らを『使う』ことにしたんだ」
「……え?」
「南の旧街道の密輸ルートの情報を餌にして、僕がこの街の裏の物流を握る。その代わり、彼らには僕の手足として動いてもらう。……それだけのことだよ」
淡々と告げる玲玉の目には、かつて皇宮で小鳥の死に泣いていた無防備な少年の面影は、もう欠片も残っていなかった。
圧倒的な知略と、己の命すら盤面の駒として扱う冷気で、暴力の世界をねじ伏せた『覇王』の片鱗。私が眠っているわずかな間に、彼は自らの足で地獄の釜の蓋を開け、その中身を掌握してきたのだ。
「そんな……貴方は、手を汚したというのですか。私という盾がありながら……!」
私は激しい自責の念に駆られ、血が滲むほど唇を噛み締めた。
「私が倒れたばかりに。私が不甲斐ないばかりに、殿下を修羅の道へ引きずり込んでしまった……。申し訳ありません、私は、盾としての役目を……!」
「凛華」
玲玉の声が、少しだけ強くなった。
彼は土間から膝立ちになり、包帯の巻かれた私の手を、両手でしっかりと包み込んだ。
かつては絹のように柔らかかった彼の手は、村での労働と逃亡を経て、今や無数の小さな傷に覆われ、確かな骨の硬さを持ち始めている。
「君のせいじゃない。……僕は、君が傷ついて、血を流してまで僕を生かそうとしてくれるのが、死ぬほど口惜しかったんだ」
私を包み込む玲玉の指先が、微かに震えているのが分かった。
あの地下酒場で、彼がどれほどの死の恐怖と戦ってきたのか。その震えが物語っていた。それでも彼は、私のために、決して引かなかったのだ。
「もう君一人に、泥水を啜らせはしない。これからは僕がこの国の裏社会を支配し、安全な場所を作る。だから君はもう、僕のために剣を抜かなくていい。僕が、君を守るから」
それは、玲玉からの不器用で、生き残った唯一の家族としての、過保護なまでの愛情だった。
「守られるだけの弟」から、自らの手で大切なものを守り抜こうとする「一人の男」への、確かな脱皮。
しかし。
大将軍の娘として、「殿下を守る鉄の盾」であることだけを己の存在意義として生きてきた私にとって。
その言葉は、彼からの優しい「死刑宣告」に他ならなかった。
「……剣を、抜くなと?」
私の声が、すっと温度を失った。
「では、私は何のために殿下のお傍にいるのですか。私は貴方を守るために生きてきた。大将軍の教えも、村での温かい暮らしもすべて捨てて、最強の剣になると誓ったのです。……その剣を取り上げられ、ただ守られるだけの飾り物になれと……そう仰るのですか」
「違う! 僕はただ、君にこれ以上傷ついてほしくなくて……」
「……お下がりください」
私は、玲玉に包まれていた自分の手を、静かに、だがはっきりと引き抜いた。
空を切った玲玉の手が、行き場を失って宙を彷徨う。
「私は、柳大将軍の娘です。戦うことしかできない、ただの剣です。……殿下が自らの力で裏社会を統べ、玉座を奪い返す覇王となられるのであれば、もはや私という盾は不要なのでしょう」
「凛華……!」
私は彼から顔を背け、無傷の右肩を下にして寝台に横たわり、頭まで深く毛布を被ってしまった。
背後で、玲玉が何かを言いかけては口をつぐむ気配がする。狭い土壁の部屋に、ひどく重く、息の詰まるような気まずい沈黙だけが降り積もっていった。
(私は、彼に必要とされなくなってしまった)
毛布の中で、視界がじんわりと滲む。
私が彼を「王」にした。彼から無邪気な優しさを奪い、冷酷な決断を強いたのは、私が弱かったからだ。それなのに、彼から「もう戦わなくていい」と言われたことが、どうしてこれほどまでに胸を抉るのか。
やがて、部屋の空気はさらに冷え込み、小さな格子窓から差し込む月明かりが、土間を白く照らし始めた。
砂漠の夜の寒さは、骨の髄まで凍りつかせる。
背後で、玲玉が身じろぎする音が聞こえた。
彼が床に敷かれた薄い麻布の上に横たわろうとしている気配に、私は思わず毛布を跳ね除けた。
「……何をしているのですか」
「えっ? いや、夜は冷えるから、寝ようと思って……」
玲玉が土間の上で、所在なげに目を瞬かせる。
この部屋には、今私が寝転がっている粗末な寝台が一つしかない。
「殿下を冷たい土間の上に寝かせるなど、あってはならないことです。私が床で休むゆえ、殿下は寝台へ」
私は肩の痛みを堪えて立ち上がろうとしたが、玲玉が慌てて私の肩を押し留めた。
「駄目だよ! 君は怪我人なんだから、ベッドで寝なきゃ治るものも治らないよ!」
「私は武官です。戦地では岩の上でも眠れます。しかし殿下は……」
「僕だって、この一月は藁の上や泥の中で寝てきたんだ。平気だよ!」
「なりません。これは護衛としての絶対の矜持です」
私の頑なな態度に、玲玉は困り果てたように眉を下げた。
だが、彼もまた譲ろうとはしなかった。裏社会の元締めを屈服させた男が、私にベッドを譲らせて土間で眠るなど、彼の新しい「王としての意地」が許さなかったのだろう。
「……じゃあ、一緒に寝よう」
「は……?」
玲玉が、とんでもないことを口にした。
「このベッド、狭いけど二人ならなんとか横になれるよ。それなら、凛華も僕も床で寝なくて済むじゃないか」
「なっ……何を血迷ったことを! 皇族であられる殿下と、一介の武官が同じ寝台を共にするなど、不敬の極みです!」
私が顔を真っ赤にして反論するが、玲玉は私の言葉を無視し、靴を脱いで寝台の端へと潜り込んできた。
「はい、これで解決。おやすみ、凛華」
「で、殿下! 近いです、離れて……っ」
大の大人が一人寝るのがやっとの粗末な寝台だ。
玲玉が背中合わせになるように横たわると、私たちの身体は必然的にぴったりと密着してしまった。彼の背中から、生温かい体温と、水タバコの残り香、そして彼本来の微かな沈香の香りが伝わってくる。
「……動くと、傷に響くよ」
玲玉が背中越しにくぐもった声で言う。その声は、昼間の冷徹な覇王ではなく、かつて皇宮で私の代わりに泣いてくれた、あの優しい少年の声だった。
「……本当に、貴方という人は」
私は呆れたように深い溜息をつき、抵抗することを諦めた。
背中から伝わる彼の体温は、砂漠の冷え切った夜気の中で、信じられないほどに心地よかった。
(……盾が不要だというのなら。彼が私を守るというのなら)
私は、そっと背中越しの彼の衣の裾を、小さな子供のように指先で握りしめた。
私のアイデンティティは崩れ去り、二人の間の「主従」という確固たる関係性は、今夜を境に歪んでしまった。彼が大人へと成長していくにつれ、私たちはこれから何度もすれ違い、傷つけ合うことになるのだろうか。
それでも、背中合わせで一つの毛布にくるまり、互いの体温を分け合っているこの瞬間だけは。
私たちは、血の繋がりを超えた、ただの不器用な「家族」だった。
規則正しい寝息を立て始めた玲玉の背中の温もりを感じながら、私は静かに目を閉じた。
彼の目指す覇道がどれほど血に塗れたものであろうとも、彼が私を不要だと切り捨てようとも。私は私の意思で、この背中を守り続ける。
月明かりに照らされた安宿の狭い寝台で、私はかつてないほどの穏やかな安堵とともに、深い眠りへと落ちていった。




