9
この砂礫の国シャフルードの闇に潜るため、僕は皇族としての名を捨て、単に『レイ』と名乗った。
地下酒場の水タバコの煙と、発酵した安い酒の酸い臭いが、石造りの小部屋にねっとりと滞留していた。
壁に掛けられた古びた油ランプが、不規則に琥珀色の光を揺らし、長机に向かう玲玉殿下の横顔に深い影を落としている。
「……ここだ。青鹿の谷から南へ三十里。ここの岩盤は石灰岩ではなく花崗岩だ。五十年前の測量記録によれば、表層の土砂崩れがあっても、地下の水脈跡を辿れば馬車が二台通れる空洞が確実に生きている」
羊皮紙の上を走る羽ペンの、カリカリという乾いた摩擦音が響く。
玲玉の紫水晶の瞳には、かつて花を愛でていた頃の柔らかな光はない。血走ったその目には、天青皇国の宮廷図書室で読み漁った膨大な地理と歴史の知識が、冷徹な『刃』として完全に再構築されていた。
「……おいおい、本気かよ若君。その旧街道は、今じゃ凶悪な山賊どもの巣窟だぜ」
机の向かい側で、裏社会の元締めであるザウルが、右腕の鉄の義手をカツンと机に打ち据えて低く唸った。
数日前、この地下酒場で玲玉が放った「密輸ルートを提供する」という言葉は、何の裏付けもない完全なハッタリだった。ザウルもそれは薄々勘付いていたはずだ。だが、玲玉は寝る間も惜しんで記憶の底から正確な地図を描き出し、ハッタリを『現実』へと強引に錬成しようとしている。
「ザウル。お前の手下に、山での荒事に慣れた者を五十人集めろ」
玲玉は羽ペンを置き、卓上に広げた地図を指先でトントンと叩いた。
「山賊どもは、地形の利を活かして罠を張っている。だが、僕のこの地図があれば、彼らの死角である尾根の裏側から完全に奇襲をかけられる」
「……皆殺しにして、道を奪えってことだな?」
ザウルが残された左手で首の骨をポキリと鳴らし、凶悪な笑みを浮かべた。
「いや、殺すな」
玲玉の静かな、しかし絶対的な冷気を孕んだ声に、ザウルの笑みが凍りついた。
私の背筋にも、微かな戦慄が走る。
「死体は土砂を運べない。……彼らの頭目と、見せしめに数人の手足を砕いて無力化しろ。そして、残った者たちにはこう伝えろ。『今日からこの道は僕の所有物だ。僕の組織の末端として土砂を退かし、道の警備を行うなら、定期的な報酬と、飢えることのない食料を保証する』とね」
「なっ……山賊を、警備隊として雇うだと?」
「彼らも元は、煌雷の重税から逃げ出した農民や流民だろう。生きるために道を通る者を襲っているのなら、確実に生きられる『労働と報酬』を与えれば、彼らはこの道を守る最も凶暴で忠実な番犬になる」
玲玉は、呆然とするザウルを見据えたまま、一度だけ私のほうを振り返った。
その目は、「凛華は剣を抜かなくていい」と静かに語りかけていた。
私は柄に添えていた左手を、ギリッと奥歯を噛み締めながらゆっくりと離す。彼は、私がこれ以上血の穢れを被らないよう、ザウルの抱える暴力を完璧な盤面の駒として使い潰すことで、私を汚れ仕事から遠ざけようとしているのだ。
「……行くぞ、野郎ども」
ザウルは額の冷や汗を拭うと、背後に控えていた部下たちを連れて地下室を飛び出していった。
数日後、ザウルの手下たちは玲玉の完璧な地形指示により、山賊たちを無血に近い形で制圧。飢えと暴力に支配されていた山賊たちは、圧倒的な武力による恐怖と、「確実な食料」という甘い餌の前に平伏し、玲玉の私兵兼・土木作業員として旧街道の整備を完了させたのだった。
* * *
道が開通しても、そこを通る商人がいなければ金は生み出せない。
玲玉の次の標的は、かつて私たちが身を寄せた村で、不当な買い叩きを行っていたザバンのような「悪徳商人」たちだった。
「……これで全部か」
深夜の酒場。ザウルの情報網が掻き集めてきた木箱いっぱいの書類を前に、玲玉は油ランプの芯を調整した。
それは、他国の商人たちが煌雷の関所をごまかすために作っていた「裏帳簿」と、天青皇国の役人へ渡していた「賄賂の記録」だった。
数日後、ザウルの手下によって強引に地下酒場へ連行されてきた数名の豪商たちは、脂汗を滝のように流し、恐怖で顔を土気色に染めていた。
玲玉は彼らの前に、裏帳簿の束をドンッと無造作に放り投げた。
「……天青の鎮国公・煌雷の関所で、お前たちがどれだけ税を誤魔化し、末端の役人に袖の下を渡しているか。すべてここに記されている」
玲玉の紫水晶の瞳が、商人たちの心臓を氷の刃で貫くように細められる。
「これを煌雷の耳に入れれば、お前たちの一族は明日にも広場で首と胴体が離れ離れになるだろうね」
「ひっ……お、お助けを! 金なら出します、言い値で払いますから……ッ!」
商人たちが床に這いつくばり、泥に額を擦り付けて命乞いをする。
その無様な姿を冷たく見下ろしながら、玲玉はふっと唇の端を吊り上げた。
「勘違いするな。僕はただ金を毟り取ろうとしているんじゃない。……お前たちに、極上の『利益』を提供してやると言っているんだ」
「り、利益……?」
「僕が新しく開拓した、南の旧街道を使え。……そこを通れば、煌雷の関所で払う法外な通行料の『半分以下』の税で、安全に天青国へ荷を運べる。道中の山賊はすでに僕の番犬だ。荷の護衛も我々が完全に保証する」
商人たちが、信じられないものを見るように顔を上げた。
恐怖で支配し、絶望の淵に立たせた直後に、彼らの「少しでも儲けたい」という商人としての強欲を完璧な計算で満たしてやる。
死の恐怖と、莫大な利益の誘惑。
その両方を同時に天秤に乗せられた商人たちは、もはや玲玉の提案を拒絶する思考能力すら奪われていた。
「通ります……! その道を通らせてください、若君……ッ!」
商人たちは震える手で、玲玉が差し出した新たな独占契約書に次々と血判を押していく。
私は背後の暗がりで、その悪魔的とすら言える交渉術を息を呑んで見つめていた。ただ力で奪うのではなく、相手の欲望を計算式に組み込み、自らの巨大な経済網の『歯車』として永遠に回し続ける。
これが、すべてを失った箱庭の皇子が手に入れた、血を流さずに世界を統べる『王の力』だった。
* * *
だが、玲玉の知略はそれだけでは終わらなかった。
裏ルートが機能し始め、莫大な金がシャフルードに流れ込み始めた頃。玲玉の目はすでに、さらにその数手先を見据えていた。
「関所の税収が急激に減れば、いずれ煌雷の耳に入る。あの男の疑り深さを舐めてはいけない」
玲玉は、ザウルが運んできた金貨の山には目もくれず、再び地図に赤いインクで線を引いていた。
「ザウル。南の旧街道の出口にあたる天青側の末端の役人たちに、この金貨の山と、シャフルードの最高級の香辛料や阿片をばら撒け」
「役人を……買収するのか?」
「煌雷の恐怖政治で、末端の役人たちは常に首を切られる恐怖と疲弊に晒されている。そこに莫大な快楽と裏金を流し込めば、彼らの忠誠心など泥のように崩れ去る。関所の警備の目を、意図的に逸らさせろ」
玲玉の指先が、地図上の『青鹿の谷』——煌雷が築いた正規の巨大な関所をトントンと叩いた。
「そして、ここからが重要だ。お前たちの配下の商人に指示を出せ。価値の低い、嵩張るだけの木材や腐りかけの穀物を大量に積んだ荷馬車を、あえてこの『正規の関所』へ通させるんだ」
ザウルが、意味が分からないというように隻眼を瞬かせた。
「はあ? なんでわざわざ煌雷の関所に荷を通す? 税を取られるだけじゃねえか」
「『ダミーの物流』だ」
玲玉は、氷のように冷たく、狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「煌雷の関所には、適度な税を落とし、大量の荷馬車が常に行き来しているという『忙しい光景』を見せつけて安心させる。……その裏で、本当に高価な鉄、薬草、武器、そして莫大な金は、すべて僕たちの裏ルートで運ばせる」
表向きは、煌雷の経済は回っているように見える。だがその実態は、空っぽの荷馬車が往来するだけの巨大な張りボテだ。その張りボテの裏側で、このシャフルードの地下深くには、天青皇国を内側から食い破るための莫大な軍資金が、音を立てて蓄積されていく。
「……っ」
ザウルが、喉の奥でヒュッと息を呑む音が聞こえた。
彼は、卓上に広げられた地図と、その前で冷酷に微笑む十五歳の少年を、まるで人知を超えた化け物を見るような目で凝視していた。
ほんの数ヶ月前、この地下酒場に迷い込んできた泥だらけのガキ。
自分のハッタリに乗ってしまったと後悔した夜もあっただろう。だが今、ザウルの目の前に積み上げられた莫大な金貨の山と、大国を根底から欺き、経済を完全に支配しようとしているこの壮大な盤面はどうだ。
ザウルの顔から、裏社会の元締めとしての驕りが完全に消え去った。
残された片腕が小刻みに震え、彼は無意識のうちに、玲玉の前に深く、深く平伏していた。
「……御意のままに。我らの『王』よ」
それは、恐怖で縛り付けられた屈服であり、同時に、何もない無から途方もない有を生み出した本物のカリスマに対する、絶対的な忠誠の誓いだった。
「ご苦労様、ザウル。……凛華、少し水をもらえるかな」
ザウルが部屋を退出した後、玲玉はふっと肩の力を抜き、ひどく疲れたように椅子の背もたれに身体を預けた。
「はい、殿下」
私は水差しから杯に冷たい水を注ぎ、彼に手渡した。
杯を受け取る彼の指先には、ペンを握り続けたことで赤黒いタコができ、目の下には消えない隈が深く刻まれている。彼は私の前でだけ、その王の仮面を外し、十五歳の少年の脆い呼吸を吐き出していた。
(私は、彼に守られている)
私は腰の直剣の冷たい柄に触れながら、奥歯を噛み締めた。
彼は私に一度も剣を抜かせることなく、自らの心と頭脳をすり減らして、この巨大な闇の世界を構築してしまった。
私が彼を「守る」ために裏社会へ足を踏み入れたはずなのに。気づけば私は、彼が血の滲むような努力で築き上げた安全な玉座の背後で、ただ彼の背中を見つめるだけの存在になりつつある。
杯の水を飲み干し、再び地図へと向き直る玲玉の横顔は、私が知る優しくて無防備な少年のものではない。
果てしない血と欲望の海を、たった一人で飲み込もうとするような孤独な目をしていた。
それから時が過ぎた。
砂漠の夜風が、乾いた砂粒を窓枠に打ち付ける微かな音が部屋に響いていた。
「……南のオアシスの水利権に手を出した『黒蛇』の残党ですが、どう始末をつけましょうか。若君」
「彼らが使っている地下水脈の経路に、岩塩と毒を流し込め。三日もすれば水は飲めなくなる。干上がって砂漠へ逃げ出したところを、お前の手下たちで狩れ。……女子供も、一人生かしてはおくな。僕たちに逆らえばどうなるか、この街のすべての組織に見せしめにする」
ザウルの報告に対する玲玉殿下の声は、硝子のように透き通り、そして絶対零度の冷気を帯びていた。
「御意に」
ザウルが深い畏敬を込めて頭を下げ、部屋を退出していく。重い扉が閉まる音が、私の胸の奥で重い鉛となって落ちた。
部屋の隅で直立したまま、私は腰の直剣の柄を握る左手に、じんわりと嫌な汗が滲むのを感じていた。
(毒を流し込み、渇きで弱らせた背後から狩る。女子供すらも……)
大将軍であった父から叩き込まれた武人の誇りが、私の奥底でギリギリと軋み、悲鳴を上げていた。
剣とは、正々堂々と敵を見据え、己の命を懸けて振るうもの。謀略で真綿で首を絞めるように弱者を追い詰め、闇討ちで命を奪うなど、武門の娘としては決して許容できない「外道」の所業だった。
だが、その命令を下したのは、私が命に代えても守ると誓った主君なのだ。
そして何より、私の心を最も深く、残酷に抉っていたのは――武人としての良心の呵責以上に、途方もない『喪失感』だった。
私は、柄に添えた自分の手を見下ろした。
かつては毎日のように血と油で汚れ、刃こぼれを研ぎ直していた私の直剣は、この数ヶ月間、鍛錬以外で一度も鞘から抜かれていない。柄の装飾には、微かな埃すら積もり始めている。
殿下は、ザウルらならず者たちや山賊たちといった強大な「手足」を手に入れた。
圧倒的な知略と、金という見えない力で盤面を支配し、手を下すのは裏社会の暗殺者たち。もはや、私がいちいち敵の前に立ち塞がり、剣を振るう必要などどこにもなくなってしまったのだ。私の役割は殿下のすぐ後ろで護衛を続けることのみ。
『これからは僕がこの国の裏社会を支配し、安全な場所を作る。だから君はもう、僕のために剣を抜かなくていい』
あの日、彼が私を守るためにくれた優しい宣告が、呪いのように私の全身に絡みついている。
(殿下にはもう、私という『盾』は必要ないのだ)
強大で冷酷な覇王へと成長していく彼の背中を見つめながら、私は自分の存在意義が砂のように指の間からこぼれ落ちていく微かな恐怖に、奥歯を噛み締めて耐えることしかできなかった。
* * *
砂漠の夜は、ひび割れた土壁の隙間から骨の髄まで凍りつくような冷気を運んでくる。
安宿の、粗末な寝台が一つしかない狭い部屋。私は土間に敷いた硬い布の上で、浅い戦士の眠りについていた。
微かな衣擦れの音がして、玲玉殿下が寝台を抜け出したことには、すぐに気づいていた。
(……水をお飲みになるのだろうか)
私は目を閉じたまま、彼の気配を追っていた。ザウルたちを従え、この数ヶ月、彼は寝る間も惜しんで裏社会の盤面を動かしている。その重圧からか、最近の彼は夜中に何度も目を覚ましていた。彼にも一人の時間が必要だろうと、私はあえて護衛として声をかけることはせず、寝たふりを続けていたのだ。
だが。
暗闇の隅、水差しが置かれた小さな木箱の前から聞こえてきたのは、水を飲む音ではなかった。
「……っ、げほっ……うぇっ……」
胃液を吐き戻す、苦しげな呻き声。
私は弾かれたように目を開け、音もなく身を起こした。
月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の隅で、玲玉は木箱に両手をつき、ひきつけを起こしたように胃を痙攣させていた。昼間、ザウルたちに見せているあの底知れぬ冷気と威厳はどこにもない。そこにあるのは、肩をガタガタと震わせ、嘔吐と冷や汗にまみれた、ただの十五歳の少年の無残な姿だった。
「殿下……!」
たまらず声をかけ、立ち上がった私に気づき、玲玉は弾かれたように顔を上げた。
「来るなッ!!」
拒絶の叫び。その激しさに、私は思わず足を止めた。
玲玉は乱暴に口元を拭うと、水差しから鉢に水を注ぎ、自らの両手を狂ったように擦り合わせ始めた。バシャリ、バシャリと冷たい水が跳ね、狭い土間に黒い染みを作っていく。
「……落ちない。どんなに洗っても、落ちないんだ、凛華」
玲玉の紫水晶の瞳は、焦点が合っていなかった。
彼は、何も汚れてなどいない自分の白い手を、皮膚が赤く腫れ上がるほどに、自らの爪でガリガリと掻き毟り続けていた。
「僕が殺した。今日……僕が、ザウルに命じたんだ。敵対組織の地下水脈に毒を流し込めって。……顔も知らない何十人もの人間が、砂漠で血を吐いて死ぬ。水が飲めなくて泣き叫ぶ子供ごと、僕が殺すんだ……っ!」
ガチガチと激しく鳴る歯の根。
その姿は、かつて皇宮の裏庭で、泥だらけの小鳥の死骸を抱きしめてボロボロと涙をこぼしていた、あの心優しい少年のままだった。
彼は冷酷なバケモノなどになってはいなかったのだ。
あの果てしなく深く、底知れぬ「仁の心」を持ったまま。他者の痛みを自分の痛みとして感じ取る、あの剥き出しの神経を持ったまま――彼は自らの魂を八つ裂きにしながら、無理やりに「覇王の仮面」を顔に縫い付けていた。
「……汚いだろう。凛華……」
玲玉は、水滴と涙でぐしゃぐしゃになった顔を私に向けた。
「君の父上が嫌悪するような、卑怯な謀略だ。罪のない子供すら手に掛ける外道だ。……僕は、君が守るに値するような、清らかな王なんかじゃない。……だから、見ないでくれ」
その悲痛な叫びを聞いた瞬間。
私の胸の奥で、自分自身に対する激しい嫌悪と怒りが爆発した。
(私は、何を見ていたのだ)
この数ヶ月。彼がザウルたちを従え、冷酷な決断を下すたびに、私は「武門の誇りに反する」「私にはもう盾としての価値がないのではないか」と、自分のアイデンティティが揺らぐことばかりを嘆いていた。
己の『綺麗な盾』としての誇りばかりを気にして、最も大切な彼自身の心から、完全に目を逸らしていたのだ。
私は歩み寄り、彼の手を力任せに掴んだ。
その手を見た瞬間、私の息が止まった。
彼の掌は、皇宮にいた頃の柔らかい絹のような手ではなかった。
無数のマメが潰れ、皮がむけ、固く歪んでいる。それは、村で鍬を握ったからだけではない。私が眠っている間、あるいは私が外へ出ている間、彼が隠れて血を吐くような剣の素振りや肉体の鍛錬を繰り返していた、その明白な証だった。
『もう君一人に、すべてを背負わせはしない』
あの日、私のベッドの傍らで彼がした誓い。
彼はそれを果たすため、私を血の穢れから遠ざけるためだけに、自分の手を血と泥で染め上げ、不釣り合いな重い剣を振り続けていたのだ。
彼にとって、これ以外に私とこの世界を守る道はなかった。その孤独な覚悟と戸惑いを、私は「護衛としての自分の価値」という浅ましいエゴで、無意識のうちに見捨てていた。
「……申し訳、ありませんでした」
私は、彼の傷だらけの手を、自らの両手で包み込んだ。
そして、その冷え切った指先に、自らの額をピタリと押し当てる。
「私が武門の誇りなどという見栄を捨てきれず、綺麗な盾でいようとしたから……貴方に、すべての罪を一人で背負わせてしまった」
私は顔を上げ、涙で濡れた彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。
もう、父の呪縛などどうでもいい。
大将軍の娘としての誇りも、正々堂々とした武人の道も、この暗く冷たい部屋で震える彼を救えないのなら、ちりあくた(塵芥)以下の価値しかない。
「その手が穢れているというのなら、私も共に穢れましょう。殿下」
「……凛華……?」
「貴方が毒を盛るなら、私がその毒を混ぜます。貴方が修羅に堕ちるなら、私は貴方のための悪鬼となります。……私はもう、殿下を守るだけの『綺麗な盾』であることをやめます」
私は彼の細い身体を、自らの両腕で力強く抱きしめた。
彼の震えが、私の胸を直接叩くように伝わってくる。
「私は、貴方の共犯者です。貴方がどれほど深い地獄へ向かおうとも、その罪と戸惑いを、私がすべて半分背負います。……だからもう二度と、一人でこんな風に泣かないでください」
私の誓いの言葉に、玲玉の目から堰を切ったように大粒の涙が溢れ落ちた。
彼は私の背中に両腕を回し、私の胡服をきつく握りしめると、私の首筋に顔を埋めて、ついに子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「……う、あぁぁっ……凛華、凛華……っ!」
砂漠の冷たい夜。土壁に囲まれた狭い部屋の中。
私は彼の背中を優しく、力強く撫で続けながら、暗闇の彼方を見据えていた。
私はもう、ただ彼に追従するだけの盲目な護衛ではない。
彼がこの理不尽な世界を飲み込んで進むと決めたのなら、私はそのすべてを肯定し、彼と共に血の海を渡る。
それは、剣を抜かない護衛と、血に濡れた若き覇王が、互いの最も脆い部分を晒し合い、真の意味で『魂の共犯者』となった夜だった。




