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「おい、聞いたか。西のバザールを仕切ってた『赤蠍』の一家が、昨夜一晩で潰されたらしいぞ」
「ああ。またあの『若君』の仕業だろ。ザウルの縄張りを乗っ取ってからまだ三年だってのに、これでシャフルードの裏通りの半分はあいつのモンだ。血の気は多いが、頭の回り方が尋常じゃねえ」
「恐ろしいのはあの若君の頭脳だけじゃねえよ。常に影のように付き従ってる、凄腕の用心棒がいるらしいじゃねえか。一度でも若君に牙を剥いた奴は、その日の夜に喉笛を掻き切られるって噂だ。……冷たい目をした、黒衣の『狂犬』がよ」
むせ返るようなクミンと羊肉の焼ける匂いが立ち込める酒場で、男たちがひそひそと交わす噂話。
それを、私は酒場の隅の暗がりで、冷めたミント茶を口に運びながら静かに聞いていた。
砂礫の国シャフルードに、私たちの血と泥にまみれた月日が降り積もっていった。
逃亡から一年目。
玲玉殿下はザウルの組織を裏から完全に掌握した。私は、殿下の盤面を脅かす裏社会の不穏分子を暗がりに沈める『狂犬』として、ただ黙々と剣を振るい続けた。
逃亡から二年目。
殿下は睡眠時間を削って異国の言語と商売の仕組みを喰らい尽くした。それだけでなく、砂漠の熱風の中で、血を吐くような武術と馬術の鍛錬を自らに課し始めた。あの村の広場で思い知った「力なき正義」の無力さを、もう二度と味わわないために。
――そして、逃亡から三年目の秋。
『五年で身体を大人に作り変える』。
安宿の冷たい土間で立てたその誓いの通り、殿下の成長は恐ろしいほどに早かった。
白磁のようだった肌は砂漠の太陽に焼かれ、いつしかその背丈は、護衛である私を完全に追い越していた。幼い頃の丸みは削ぎ落とされ、大将軍の過酷な訓練にも耐え得るような、しなやかで強靭な獣の筋肉が備わりつつある。
今や彼は、シャフルードの物流の半分を支配し、莫大な富と権力を握る「若き覇王」として君臨していた。
私たちは一年間の潜伏生活を送った不衛生な安宿を引き払い、シャフルードの中心街に程近い、堅牢な城壁に囲まれた豪邸へと拠点を移したのだ。
砂礫の国シャフルードの夜は、太陽が沈むと同時に、昼間の荒々しい熱波とは全く異なる、ねっとりとした妖艶な熱を帯び始める。
街の中心部から少し離れた裏通り。一見すれば分厚い土壁に囲まれただけの要塞のような建物だが、重厚な扉の向こう側には、この国で最も深く、最も業の深い欲望が渦巻く巨大な「迷宮」が広がっている。
甘い乳香と、水タバコの紫煙が、部屋の空気を気怠くよどませている。薄絹の帳の向こうでは、半裸の踊り子たちが退廃的な双簧管の旋律に合わせて、蛇のようにしなやかに身をくねらせていた。床に敷き詰められた最高級のペルシャ絨毯の上には、幾つもの豪奢な長椅子が並び、異国の商人や裏社会の顔役たちが、酒と女の香りに酔いしれている。
ここは、シャフルードの裏社会において最高峰と謳われる高級娼館。
そして同時に、私たちが作り上げた巨大なシンジケートの『中枢』でもあった。
私は壁を背にし、気配を完全に殺して、腰に帯びた直剣の柄に静かに手を添えていた。
視線の先にある、一段高く設けられた豪奢な特等席。そこに深く腰を沈め、眼下の狂乱を氷のように冷たい瞳で見下ろしている一人の男がいる。
玲玉殿下。
いや、この血と欲望にまみれた裏社会で、彼をその名で呼ぶ者は誰もいない。今やシャフルードの闇を歩くすべての人間が、彼を畏怖と絶対的な服従を込めて『影王』と呼んでいた。
あの日、極寒の雪山を越え、安宿の冷たい土間で「五年で、この国の裏の血流をすべて支配し、力を手に入れる」と誓いを立ててから、すでに四年の歳月が流れていた。
十五歳の頃の、白磁のように透き通る肌を持ち、骨格にも少年の華奢な丸みが残っていた病弱な弟の面影は、もはや彼のどこを探しても見当たらない。
砂漠の過酷な太陽と、血を吐くような武術の鍛錬は、彼の身体を完全に大人の男へと作り変えていた。かつての、指で触れれば折れてしまいそうだった細い首筋は、しなやかで強靭な獣の骨格へと成長し、その背丈はとうの昔に私を追い越している。
鋭く整った目鼻立ちは、凄絶なまでの色気を放ち、彼がただそこに座っているだけで、周囲の空気を重く支配してしまうほどの圧倒的なカリスマを備えていた。玉座に座る彼が、一度その冷たい紫水晶の瞳を向ければ、裏社会で何十年も生き抜いてきた古参のボスたちですら、息を呑んで平伏する。
逃亡からしばらくして、彼はザウルの暴力的な力を手足とし、南の旧街道を使った密輸ルートで莫大な富を蓄積した。だが、彼の真の恐ろしさは、その「暴力と金」に胡坐をかくことなく、次なる支配の形――『情報の支配』へと極めて冷徹に駒を進めたことにある。
玲玉は、密輸で得た莫大な資金を元手に、シャフルードの高級娼館の経営権を次々と裏から買い叩いていった。
力だけで他者を押さえつけることには限界がある。どれほど強大な暴力で縛り付けても、人間は隙を突いて裏切る生き物だ。ならば、どうするか。
『人間の生々しい欲望と恥部を完全に掌握し、盤上の駒として操るんだ』
それが、彼の導き出した答えだった。
彼は、この娼館で働く美しく賢い娼婦たちを、単なる慰み者としてではなく、極めて優秀な「情報屋」として教育し直した。客がどんな酒を好み、どんな性癖を持ち、誰に恨みを抱き、誰に借金をしているのか。夜の帳の中で、女の甘い香りに酔い、理性を失って口を滑らせた一言一句が、すべて玲玉の元へと集約される冷酷な情報網を構築したのだ。
なぜ、だが彼の側に片時も離れず控えている私は知っている。彼は色街を、心の底ではひどく嫌悪している。 なぜ最高の機関として掌握したのか。それは単なる金儲けや、裏社会での地位の確立のためではない。
すべては、彼の叔父である簒奪者・煌雷が支配する天青皇国を内部から崩壊させ、祖国へ進軍するための大義名分と物理的な突破口を得るためだった。
現在の天青国は、煌雷の鉄と血による恐怖政治の下、莫大な軍備が整えられ、民は重税に喘いでいる。だが、恐怖で縛り付けられた組織ほど、内側からの腐敗は早い。煌雷の厳しい監視下で息を詰まらせている天青の高官や、軍需物資の取引で私腹を肥やす大商人たちは、その重圧から逃れるように、密かに国境を越えてこの隣国シャフルードの高級娼館へ快楽を求めてやってくるのだ。
玲玉は、その蟻地獄のような罠を周到に張り巡らせた。
天青の将軍が抱える倒錯した欲望の記録。腐敗した財務官が国庫を横領している決定的な証拠。あるいは、娼婦の胸に抱かれながら誇らしげに語った、北方の軍の最新の配置図。
それらの致命的な弱みはすべて、美しい娼婦たちの耳から玲玉の元へと集結し、彼らの首根っこを完全に押さえるための最強の武器へと変換されていく。
その情報網の頂点に君臨し、今まさに玲玉の膝元に侍っているのが、『砂漠の夜の至宝』と呼ばれるこの高級娼館の筆頭舞姫、サーラだった。
透けるような薄絹の衣装から、豊満な曲線美を惜しげもなくさらし、動くたびに甘く退廃的な麝香の香りを漂わせる。男装の胡服を纏い、常に鉄や血の匂いを漂わせている私とは、文字通り完全な対極にある、女性らしさを極限まで磨き上げた存在だ。
「……なるほど。天青の西方守備隊を束ねる副将は、随分と幼い少女の泣き顔がお好みのようだね」
長椅子に座る玲玉の胸元に、サーラが蛇のようにしなやかな腕を絡ませて耳打ちをする。彼女は男が何を求めているかを熟知していた。潤んだ視線、吐息交じりの甘い声のトーン、そして豊かな胸の谷間を玲玉の腕に押し当てるような肌の触れ合わせ方のすべてを武器にして、彼を艶やかに誘惑している。
「その男の裏帳簿と、彼がここで吐いた暴言の記録をすべてまとめろ。明日の夜、彼に『西方ルートの兵糧輸送を三日遅らせれば、この記録は闇に葬ってやる』と交渉の席を設けろ。……断れば、彼の横領と軍紀違反の証拠を、王都の煌雷の執務室へ直接届けるだけだ」
「仰せのままに、我が王。……ねえ、このお仕事が終わったら、今夜こそ私に、極上の褒美をくださいますわよね?」
サーラはうっとりとした熱い溜息を吐き、玲玉の膝に赤い口紅の跡を残すと同時に、背後に立つ私へと流し目を送った。
女としての圧倒的な優越感と、「貴女のような色気のない護衛には、彼を癒やせない」と言わんばかりの挑発的な視線。
私の腹の奥で、ギリッと嫌な音が鳴った。私の中にある強固な盾の鎧の隙間から、ドス黒い嫉妬の泥がじわりと染み出してくるのを抑えられない。
私は無言のまま冷たい殺気を放って二人の間にスッと割って入り、直剣の柄に手を添えた。
「殿下。その者は香の匂いが強すぎます。刃物や暗器を隠し持っていても嗅ぎ分けられません。これ以上の接近は、護衛として許可できません」
と、極めて事務的で冷徹な声で言い放つ。
サーラはハーっと溜息を吐くと、私を一瞥すると玲玉の膝に唇を落として退室していった。
玲玉は、彼女が離れた瞬間に、触れられた膝の辺りを無意識に、少しだけ忌々しげに手で払った。
彼は、この色街に渦巻く人間の泥のような愛憎を、決して楽しんでいるわけではないのだろう。かつて、泥だらけの小鳥の死に涙し、鞭打たれた下働きの少年のために己の最高級の絹衣を躊躇いなく引き裂いた、あの潔癖なまでの優しさと仁の心は、彼の奥底で今も静かに息づいている。
だからこそ、自らの手をこれほどまでに生々しい欲望の泥水に浸すことに、人知れず吐き気と自己嫌悪を抱えながら、それでも彼は完璧な覇王としての仮面を被り続けているのだ。
私は壁際から、その横顔をただ静かに見つめていた。
私は彼の傍らに立つ無敵の「狂犬」として、この四年、組織の絶対的な防衛線として機能し続けてきた。玲玉に牙を剥こうとする者がいれば、私の直剣が音もなくその喉笛を掻き切る。彼が頭脳であり、私が彼を守る絶対の刃。その関係は、あの日から変わっていないはずだった。
だが、五年という約束の期限が目前に迫る中、私たちの個人的な目的と、その底で燻る感情は、最高潮の熱を帯びて臨界点に達しようとしていた。
玲玉の目的は、明確だ。
一つは、煌雷を討ち、阿星や春燕のように誰も理不尽に奪われない国を作ること。
そしてもう一つ――大人の男としての彼の最大の渇望は、祖国を取り戻し「戦い」を終わらせることで、私から『盾』という呪いのような鎧を完全に剥ぎ取ることだった。
『もう君一人に、泥水を啜らせはしない。僕がこの国の裏社会を支配し、安全な場所を作る。だから君はもう、僕のために剣を抜かなくていい。僕が、君を守るから』
彼はその誓いを、異常なまでの執念で現実のものとしつつある。
私が剣を抜く理由をこの世から消し去り、私を「ただの凛華」という一人の女性にして、自分の腕の中に永遠に閉じ込めること。それが、彼が地獄のような裏社会で這い上がるための、最大の原動力だった。
一方の私にも、決して譲れない目的があった。
自らが誓った通り、彼に迫る悪意をすべて斬り伏せる「最強の剣」として、彼を天青の玉座へと連れて行くこと。父の呪縛だと嗤われようと、それが私のすべてだった。
しかし。
「……影王様。今回の鉄の取引、どうか私めにお任せを。ああ、そうだ。南の国から極上の美女を買い付けておりましてな。今夜、貴方様の寝所へお送りしましょう。どうかご賞味ください」
向かいの席で脂汗を流していた恰幅の良い商人が、下劣な提案を口にした瞬間。
私の腹の底で、黒い、どろどろとしたものが溢れてきて、胸に痛みが刺した。
私が腰の剣の鯉口をカチャリと鳴らそうとした、その時だ。
玲玉は手にしていた酒杯をゆっくりと置き、大人の余裕を纏った仄暗い笑みを浮かべた。
「……せっかくの美しい贈り物ですが、お断りしておきましょう」
玲玉の視線が、背後に立つ私へと流し向けられる。
「私の背後にいる狂犬は、ひどく嫉妬深くてね。私が他の女を抱こうものなら、女の喉笛ごと私まで殺されかねない。……私はまだ、死にたくないのでね」
商人がビクリと肩を跳ねさせ、私を見た。
私は表情筋を完全に殺したまま、本物の死線を宿した殺気を商人の眼球へと真っ直ぐに突き刺した。
「ひっ……!」
商人は顔面を蒼白にし、「し、失礼いたしました……!」と逃げるように部屋を飛び出していった。
静寂が戻った部屋で、玲玉は小さく息を吐き出し、張り詰めていた覇王の仮面を少しだけ緩めた。
「……また、君を脅しのダシに使ってしまった。ごめんね、凛華」
その声は、かつての私の知る、少し不器用で優しい少年の響きを含んでいた。
「構いません。私は殿下の盾であり、剣です。……ですが」
私は、先ほどの娼婦に向けられていた彼の色気のある流し目や、彼が他の女を寝所に招くという想像だけで、胸の奥がチクチクと苛立つように痛むのを抑えられなかった。
「……最近の殿下は、少し手慣れすぎではありませんか。あの者たちが本当に寝所に忍び込んできたら、どうされるおつもりですか」
私の咎めるような言葉に、玲玉はふっと立ち上がり、静かな足取りで私の目の前まで距離を詰めてきた。
大きな影が私を覆う。かつて見上げていたはずの彼の顔が、今は私をはるか上から見下ろしている。
「忍び込ませるわけがないだろう」
玲玉の指先が、私の頬にこびりついていた微かな埃を、優しく、けれど逃げ場を奪うような男の力強さで拭い去った。
「僕の寝所には、昔から……世界で一番恐ろしくて、可愛い狂犬が居座っているんだから」
紫水晶の瞳が、仄暗い熱を帯びて私を真っ直ぐに射抜く。
心臓が、嫌な音を立てて大きく跳ねた。
私は「女ではありません」と強がりながらも、この四年間の歪な同居生活の中で、彼から向けられる男としての熱に限界まで揺さぶられていた。
夜ごと、同じ部屋で彼の寝息を聞くたびに。彼が強引に私の傷を手当てし、私の強固な鎧を剥がそうとするたびに。
私の胸の奥底には、彼への一人の女としての深い愛情と嫉妬が、どうしようもなく育ってしまっていた。盾としての誇りと、女としての情欲の狭間で、私の心は引き裂かれそうだった。
だが、今はその甘い葛藤に溺れている暇はない。
私たちの五年の誓いを完遂するための、最後の、そして最も重要なミッションが目前に迫っていた。
『関所の鍵』の強奪。
祖国・天青へ戻り、玉座を奪還するためには、煌雷が築き上げた難攻不落の「青鹿の谷の関所」と、国境の防衛線を突破しなければならない。
外からの武力攻撃だけでは、被害が大きすぎる。だからこそ、玲玉は最も確実で冷酷な策を講じていた。
ターゲットは、国境守備の最高責任者であり、軍務卿バロンの右腕とも言える腹心の将軍。
煌雷の恐怖政治の重圧から逃れるため、彼が月に一度、お忍びでこのシャフルードの高級娼館を訪れるという情報を、私たちはすでに掴んでいた。
四日後の夜。
彼が娼館の密室で油断しきったところを狙い、完全に罠に嵌める。
玲玉の知略と、私の刃によって彼に逃げ場のない致命的な弱み、横領の決定的な証拠と、彼の家族の命を突きつけ、「私たちの軍勢が国境に到達した際、反乱を起こして内側から関所の門を開ける」という血の誓約を結ばせるのだ。
これこそが、奪還の火蓋を切るための最後の一欠片となる。
「……凛華」
玲玉の指先が、私の頬から首筋へと滑り落ち、私の顎をそっと掬い上げた。
「四日後の夜。あの将軍の首輪を確実にはめる。……これが終われば、僕たちは天青へ帰る。そして、すべての戦いを終わらせよう」
彼の声は、決戦を前にした王としての冷酷さと、その後に待つ私との未来を希求する男としての熱い渇望が、危険なバランスで入り混じっていた。
「……はい、殿下」
私は、彼の指先から逃れるように一歩だけ後ろへ下がり、深く頭を下げた。
女としての甘い毒を奥歯で噛み殺し、私は再び鉄の盾としての冷徹な眼差しを纏う。
「私が、殿下の行く手を阻むすべての障害を斬り伏せます。……必ず、貴方をあの玉座へと帰還させてみせます」
むせ返るような香の匂いと、娼館の退廃的な音楽が響く中。
若き覇王と、その影である無敵の狂犬は、祖国奪還という壮大な復讐劇の最終幕に向けて、静かに、そして確実にその刃を研ぎ澄ましていた。
四日後の夜、私たちの五年の全てを懸けた、血と知略の狂宴が始まろうとしていた。
* * *
広大な豪邸の、最も奥まった場所にある豪奢な寝室。
分厚いペルシャ絨毯が敷き詰められるその部屋で、豪奢な天蓋付きの寝台に玲玉がゆったりと腰を下ろし、そこから数歩離れた床の寝具の上で、私は静かに愛刀の手入れをしていた。
部屋には、かつて天青皇宮の奥深くを満たしていたような、最高級の白檀の香りが焚き染められている。だが、今この空間で私たちが纏っている空気は、あの頃の無防備で温かなものとは全く違っていた。研ぎ澄まされた刃のような、決戦前夜の静寂だ。
「……明日の夜。青鹿の谷の関所を束ねる副官が、うちの娼館にやってくる」
玲玉が、手元のワイングラスを傾けながら静かに口を開いた。
赤い液体が、薄暗いランプの光を反射して怪しく揺れる。
「女たちにはすでに指示を出した。彼が甘い香りに酔い、軍の機密を口走った瞬間を記録し、逃げ場のない罠に嵌める。……それが成功すれば、ついに僕たちは祖国へ進軍するための『鍵』を手に入れることになる」
私は直剣の刀身を布で拭う手を止め、静かに頷いた。
「はい。いかなる事態になろうとも、私が殿下の背後で完璧な死線を敷き、確実に誓約書に血判を押させます」
私の迷いのない返答に、玲玉はグラスをサイドテーブルに置き、ふっと短く息を吐き出した。
「……早いね。シャフルードのカビ臭い安宿で、五年でこの国の裏社会を支配すると誓ってから……もう四年が経つんだ」
「ええ。あの夜、私が熱を出して倒れた時……殿下が私のために一人で地下酒場へ行き、ザウルを屈服させてこられたと知った時は、本当に肝を冷やしました」
私の言葉に、玲玉は目を細め、遠い過去を幻視するように柔らかく微笑んだ。
「昔の僕は、ただの温室の小鳥だった。庭で死んだ小鳥のために泥だらけになって泣き、父上の過酷な訓練で君が青痣を作るたびに、ただ君の代わりに泣くことしかできなかった。皇宮の外で起こっていること、父上への批判があったことにも薄々気づきながらも、無関心を貫いていた。」
玲玉は寝台からゆっくりと立ち上がり、床に座る私の目の前まで、音もなく歩み寄ってきた。
見上げていたはずの彼の背丈は、今や私をすっぽりと影で覆い隠してしまうほどに大きく、逞しい。
「……でも今は違う。僕は、君にこれ以上血を流させないためなら、娼館の女だって、人間の醜い欲望だって、すべて盤上の駒として使い潰す。どんな泥だって被るよ」
淡々と告げるその声には、裏社会を統べる大人の男としての冷酷さと、落ち着いた色気が滲み出ていた。
その響きに、私の胸の奥がチクチクと苛立つように痛む。明日の任務で、彼が百戦錬磨の娼婦たちを従え、艶やかな笑みを浮かべて夜の世界を渡り歩く姿を想像すると、暗殺への警戒とは全く違う、女としての生々しい嫉妬が、無意識のうちに微かに疼いてしまうのだ。
「……殿下は、強くなられました」
私は、その動揺を悟られまいと目を伏せ、手元の剣を見つめた。
「ですが、私は忘れません。敵対組織の地下水脈に毒を流し込んだ夜……貴方が自らの罪の重さに耐えきれず、手を血が出るのも厭わず掻き毟って泣いていたことを」
その言葉に、玲玉の足がピタリと止まった。
「私はあの夜、『貴方が修羅に堕ちるなら、私は貴方のための悪鬼となる。私は貴方の共犯者だ』と誓いました。……その誓いがあったからこそ、私はこの四年間の地獄を生き抜けました。貴方がどれほど手を血に染め、冷たく映ろうとも、あの夜の涙を知っている私だけは、貴方の本当の優しさを知っています」
彼が一人で地獄を背負おうとするなら、私がそれを引き留める。
それが、盾としての、そして彼を愛する共犯者としての私の意地だった。
玲玉の紫水晶の瞳が、激しい感情に揺さぶられるのが見えた。
彼は躊躇うことなく私の目の前の床に片膝をつき、私が剣の柄を握っていた硬い手を、自らの無骨で大きな手で包み込んだ。
「……凛華」
玲玉の顔が近づく。
彼の放つ強い沈香の香りと、熱い吐息が、私の頬を直接撫でた。
「あの夜、君が僕のすべてを肯定して、半分背負ってくれたから、僕は覇王でいられた。……でも、もう十分だ」
玲玉の親指が、私の剣ダコのある手のひらを愛おしむようになぞる。
「明日の任務をこなし、国に帰って煌雷の首を落とせば、君が剣を抜く理由はすべてこの世から消え去る」
逃げ場を奪うように、玲玉のもう片方の手の指先が、私の顎をそっと掬い上げた。
視線が絡み合い、彼の瞳の奥底で燃える、恐ろしいほどの独占欲と純粋な情熱が私を射抜く。
「盾としての呪いを、僕がすべて終わらせる。……そうしたら君は、もう『将軍の娘』なんて重い鎧は脱ぎ捨てて、僕の腕の中で、ただの一人の女になってほしい」
「で、殿下……っ」
心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
大人の男の圧倒的な熱と、逃れようのない深い愛情。私はいつものように「私は女ではありません。殿下をお守りする盾です」という逃げ口上を口にしようとした。
だが、私が言葉を発するよりも早く、玲玉のもう片方の手が、就寝に備えて結び目を解いていた私の長い黒髪にするりと滑り込んだ。
ビクッと肩を跳ねさせた私を逃がさないように、彼の大きくて熱い手のひらが、無防備に晒された私の細いうなじをそっと撫で上げる。彼は艶やかに流れ落ちた黒髪の束を指に絡め、愛おしむように自らの鼻先へと寄せた。
「……ふわりと漂う、君のこの清潔な石鹸の匂いも。怪我をした時、僕に手当てされて戸惑うように揺れる、その潤んだ瞳も」
玲玉の低く甘い声が、耳元で鼓膜を溶かすように響く。
「誰もが震え上がる黒衣の狂犬の……僕だけが知っている、不器用な素顔だ。広大な豪邸を手に入れても、僕が強引に理由をつけて君を同じ寝室に閉じ込めているのは、他の誰にも君のこの夜の姿を見せたくなかったからだ」
「……っ」
彼の口から明かされた、執拗で途方もない独占欲。
単なる護衛の便宜上だと思い込もうとしていた私の逃げ道が、完全に塞がれた瞬間だった。
「もう、十分待っただろう?」
玲玉の顔がさらに近づき、その熱い吐息が私の唇の端を掠めた。彼の紫水晶の瞳に宿る、どす黒いほどの情欲が、私を真っ直ぐに射抜く。
「君は知っているかい? 僕が君に対して何を思っているか。……この二年間、毎晩、同じ部屋で君の寝息を聞きながら、君をどうしたいと思い続けてきたか」
(ああ……)
私の最も脆い部分を真っ直ぐに見つめ、すべてを包み込み、そして甘く喰らい尽くそうとする彼の切実な瞳。
その抗えない男の熱の前に、私が長年すがりついていた「盾」という強がりの言葉は、喉の奥で音を立てて溶けていった。
私は彼の腕を振り払うことができず、ただ震える唇を噛み締めて、ゆっくりと目を閉じた。
すべてを奪われる覚悟――いや、女としての本能が、彼の熱に完全に身を委ねようとした、その時だった。
「……っ」
触れるか触れないかの距離で、玲玉の熱い吐息がピタリと止まった。
彼は私の震える唇に自らの唇を重ねることはせず……ギリッと、奥歯を強く噛み締める音を立てて、私の額に、己の額をこつんと押し当てた。
「……でも、今はここまでだ」
ひどく掠れた、限界まで理性を総動員している男の、抑え込んだ声だった。
私が驚いて目を開けると、玲玉の紫水晶の瞳が、狂おしいほどの熱と痛みを孕んだまま私を至近距離で見つめ返していた。
「今ここで君を抱けば、君はまだ心のどこかで『盾としての服従』を言い訳にするだろうから。……君から剣を奪い去って、君が心から、一人の女として僕だけを求めるようになるまで、この続きはとっておくよ」
玲玉は私の髪にそっと名残惜しそうに口付けを落とすと、絡めていた指先を離し、ゆっくりと距離を置いた。
「……っ」
離れていく彼の体温に、私はへなへなとその場に崩れ落ちそうになる両膝を必死に堪えた。
心臓が破裂しそうなほどに打ち鳴らされ、呼吸の仕方を忘れたように胸が上下する。
「おやすみ、凛華。……明日の夜は、頼りにしてるよ」
玲玉は何事もなかったかのように微笑んで見せたが、その声の端には隠しきれない大人の男の熱情がこびりついていた。彼が自らの天蓋付きの寝台へと戻っていく足音を聞きながら、私は熱を持った自分の額を震える手で押さえた。
「盾としての呪いを終わらせる」という彼の宣戦布告。
それは、煌雷の首を落とすことよりも遥かに甘く、そして私を根底から作り変えてしまう、抗いようのない愛の呪いであった。
* * *
僕は自らの天蓋付きの寝台へと潜り込んだ。
分厚い絹のシーツを掴む僕の右手に、まだ凛華の素肌の感触と、震えていた彼女の細い顎の骨の感触が残っている。
(……馬鹿だな、凛華は)
僕は暗闇の中で、自嘲気味に深く息を吐き出した。
彼女は最後まで「自分は盾だ」と言い張り、僕の手を振り払おうとした。だが、僕の熱に当てられて揺れたあの瞳も、解かれた髪から漂う微かな石鹸の匂いも、すべてが「ただの女」としての彼女を雄弁に物語っていたというのに。
シャフルードの裏社会に飛び込んでからの四年間。
僕は地獄の底で、泥と血を啜りながらこの身体と頭脳を大人に作り変えた。ザウルの組織を裏から乗っ取り、対立するマフィアを経済的に干上がらせ、時には毒や暗殺すら辞さずに街の物流を完全に掌握した。
かつて小鳥の死に泣いていた、温室の皇子はもういない。
誰も理不尽に奪われない国を作るためなら、自らが最大の理不尽なバケモノになることを僕は厭わなかった。
いつしか、彼女への家族としての想い――ただ純粋に「姉のように慕い、守りたい」と願っていた幼い慕情は、僕の身体の成長と裏社会を成り上がる過程で、どろどろとした別の熱へと姿形を変えていた。
僕が自らの内に巣食うその不可解な感情を、明確に「大人の男としての情欲であり、狂おしいほどの独占欲」だと自覚したのは、シャフルードの情報網として色街を支配し始めた頃だ。
娼館の奥深くでは、毎夜、人間の生々しい性欲と泥のような愛憎が入り乱れていた。金と暴力で女を買い、醜く身をよじる男たち。僕は玉座から彼らの欲望を盤上の駒として操りながら、そのむせ返るような交わりを氷のような視線で見下ろしていた。
だが、大人の世界の男女の仕組みを知識として頭に叩き込んだ時。ふと、自分自身の奥底で燻り続けている感情の正体に気づかされたのだ。
僕の脳裏を占めるのは、幼い頃から常に一人の不器用な少女のことばかりだった。
戦場では血に濡れた無敵の死神である彼女が、実は料理も裁縫も壊滅的で、僕に世話を焼かれて恥ずかしそうに目を伏せること。痛みを隠して強がり、かつて僕の前でだけ、たった一度だけ声を殺して涙を流したこと。
その普通の女の子としての脆さを、世界で僕だけが知っていたい。僕だけが彼女の傷を舐め、僕だけが彼女を甘やかし、他の誰の目にも触れさせたくない――。
背筋が粟立つような衝撃だった。
僕が凛華に向けている、この胸の奥を掻き毟りたくなるような焦燥感は、高潔な主従の絆でも、弟が姉を慕う家族愛でもない。
それは、色街で欲望に狂った男たちが女に向けているのと同じ、いや、それ以上に昏く深く煮詰まった『大人の男の情欲と独占欲』そのものだったのだ。
それに気づいてしまってからの毎日は、まさに甘く残酷な拷問の始まりだった。
彼女は自分自身が僕を守る鉄の盾だと思い込んでいるからこそ、僕の前で恐ろしいほどに無防備になる。
夜、一日中きつく結い上げていた黒髪を解く瞬間。重力に従って艶やかな黒髪が滝のように彼女の背中へと流れ落ちる、あの無防備なうなじ。櫛を通すたびにふわりと漂う、彼女特有の清潔な匂い。
大人の男になりつつある僕にとって、それがどれほどの凶器になるのか、彼女は微塵も理解していない。
(……狂いそうだ。今この瞬間だって、すぐにでもあそこへ行き、彼女をこの腕の中に閉じ込めてしまいたい)
先ほど、彼女の顎を掬い上げ、髪を弄んだ時。
至近距離で僕の熱に気圧され、潤んだ瞳を彷徨わせる彼女を見て、僕は本気で理性が焼き切れるかと思った。あのまま床に押し倒し、その強固な鎧ごと組み敷いて、僕の名前を泣き叫ぶまでそのすべてを暴いてしまいたかった。
娼館の美貌の舞姫であるサーラが僕の腕に豊満な肉体を押し付けてくる時だって、僕の心は氷のように冷めたまま。砂漠の至宝と謳われる彼女の麝香の香りも、熟練の誘惑も、僕にとってはただの駒の動きに過ぎないのに。
その光景を背後で見ていた凛華から、生々しい嫉妬の殺気が放たれた瞬間――僕の身体の奥底では、背筋が痺れるような本当の昂ぶりが生まれるのだ。
僕は、サーラという極上の美女を「凛華を揺さぶるための道具」として利用している自分に、時折、歪んだ愉悦すら感じている。
僕以外の女に触れられることを嫌い、独占欲に瞳を濁らせる彼女の姿は、どんな誘惑よりも僕の情欲を煽るのだ。
(駄目だ。まだ焦るな)
僕は寝台のシーツをギリッと握りしめ、荒れそうになる呼吸を必死に殺した。
今、力ずくで彼女を奪えば、彼女は自分の存在意義である、「盾」という誇りを守れなかった絶望で壊れてしまうだろう。凛華は、女である自分を僕は彼女を、僕への「忠誠」や「服従」という言い訳で抱きたくはない。 女としての自分を律し拒絶している、あんなにも不器用で、僕のことしか見えていない哀れで愛おしい彼女を、心から一人の女として僕に溺れさせたいんだ。
なら、どうするか。
僕がこの世界を、完全に統べればいい。
天青皇国を奪い返し、煌雷の首を落とし、彼女が剣を抜く理由をこの世からすべて消し去ってやる。
そうすれば、彼女はもう『盾』でいる必要がなくなる。僕の隣で、ただの凛華という一人の女として、僕の愛をすべて受け止めるしかなくなるのだから。
寝台の向こう側、部屋の隅で、彼女が寝返りを打つ微かな衣擦れの音が聞こえた。
明日の任務を前に、彼女もまた昂ぶる心を抑えているのだろうか。それとも、先ほど僕が見せた情欲の残滓に怯えているのだろうか。
「……おやすみ、凛華」
僕は声に出さず、暗闇に向かって口を動かした。
いつか必ず、その呪いのような鎧を剥ぎ取り、君をただの女の子にして、僕の腕の中に閉じ込めてみせる。
砂漠の冷たい夜の中。
僕の胸の奥で燃える独占欲という名の黒い炎は、明日の決戦への期待と共に、静かに、そして誰よりも熱く燃え盛り続けていた。




