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高級娼館の最奥、厚いビロードの帳に仕切られた特室。
青鹿の谷の関所を束ねる副官、曹達がこの部屋に案内されてきた時、彼の顔には国境守備の重圧と、煌雷の恐怖政治に対する絶え間ない疲労と警戒の色が張り付いていた。
「よくおいでくださいました、曹達様。お待ちしておりましたわ」
彼を出迎えたのは、シャフルードで最も美しく、そして影王(玲玉)によって極上の情報屋として鍛え上げられた三人の娼婦たちだった。
その中央で、艶やかな微笑みを浮かべて進み出たのは、この娼館の筆頭舞姫にして『砂漠の夜の至宝』と謳われる女、サーラである。
透けるような薄絹の衣装が、彼女の豊満な曲線美を蠱惑的に縁取っている。動くたびにふわりと広がる退廃的な麝香の香りが、曹達の鼻腔を甘く撫でた。
彼女たちは、最初から軍の機密を探ろうとは決してしない。まずは極上の異国酒と、微かな阿片を混ぜた乳香の煙で、彼の強張った神経を外側からゆっくりと解かしていく。
「……まったく、辺境の砂埃にはうんざりする。あの砦は石と鉄ばかりで、女の柔らかさの欠片もない」
長椅子にどっかと腰を下ろした曹達が、忌々しげに吐き捨てる。
すかさずサーラが彼の隣に寄り添い、その白く滑らかな指先で、曹達の無骨な手をそっと包み込んだ。
「お可哀想に。曹達様のような立派な武功を持つお方が、あのような寂しい場所で日々国をお守りになっているなんて……。剣を握り続けたこの力強いお手も、すっかり冷え切ってしまわれていますわ」
「ふん……分かるか。俺がどれほど身を粉にして働いているか、あの王都の連中はちっとも理解しちゃいない」
「ええ、分かりますとも。さあ、今夜は私どもの胸で、心ゆくまでお羽を伸ばしてくださいませ」
サーラの合図で、両脇に控えていた二人の娼婦が、赤瑪瑙の杯に極上の葡萄酒をなみなみと注ぐ。
薄絹越しに伝わる女たちの柔らかな体温。肩や太腿に密着する豊満な肉体の感触。そして、絶え間なく杯に注がれる酒と甘い賛美の言葉。
「曹達様のその猛禽のような鋭い眼差し……砦の兵たちも、さぞや貴方様を恐れ、そして頼りにしているのでしょうね」
「まあな。俺がいなけりゃ、あの青鹿の谷の防衛線はとっくに崩壊してるさ。だが……」
「煌雷様は、曹達様の本当の価値をお分りではないのですね。あのような恐怖だけで縛り付ける御方の下で、貴方様がこれほど疲弊されているのが、私には口惜しくてたまりませんわ」
サーラは潤んだ瞳で曹達を見つめ上げながら、自らの豊かな胸の谷間を、彼の腕にゆっくりと押し当てた。
その完璧に計算され尽くした女の武器と、自尊心を徹底的に満たしてくれる全肯定の嵐に、曹達の警戒心はドロドロに溶け落ちていく。煌雷の粛清に怯え、己の小ささを誤魔化すために軍の備品を横流ししている彼の「矮小な器」を、サーラたちはまるで天下の大将軍を褒め称えるかのように甘やかした。
二時間も経つ頃には、曹達の目は完全に酒と情欲で濁りきっていた。
「……全くだ。煌雷様の鉄と血を用いた統治とやらには息が詰まる。少しばかり横流ししたくらいで、首が飛ぶんだからな……俺がいなければ、あの谷の関所が回るはずもないというのに」
「ええ、本当に。煌雷様は曹達様の本当の価値をお分りではないのですわ」
筆頭舞姫であるサーラが、曹達の分厚い胸板を白く滑らかな指先で這うようになぞりながら、甘く、毒のように囁きかける。
やがて彼女は、蠱惑的な視線で曹達を絡め取りながら彼の手を引き、部屋の奥にある豪奢な天蓋付きの寝台へと誘い込んだ。
絹のシーツが滑る音と共に、サーラが曹達の首に蛇のようにしなやかな腕を回す。透けるような薄絹の衣から零れ落ちる豊満な胸元が、無防備に曹達の視界を塞いだ。動くたびに立ち昇る退廃的な麝香の香りと、彼女の紅を差した唇から漏れる熱い吐息が耳元を撫でる。極限まで高められた情欲と酒の回りが、曹達の中に残っていた最後の理性のタガを完全に外した。
「曹達様は、あの難攻不落の関所をすべて掌握しておられるのですね。ああ、なんて力強くて……素敵なのでしょう」
サーラが、その豊かな胸の谷間を曹達の胸にすり寄せながら、潤んだ瞳で上目遣いに彼を見つめる。男の庇護欲と支配欲を同時に満たす、計算し尽くされた完璧な媚態。その極上の色香に溺れ、曹達は男としての優越感を爆発させた。己の力を誇示したい、目の前の至宝に自分の偉大さを見せつけたいという浅ましい欲求が、絶対に口にしてはならない機密の扉を内側からこじ開ける。
「ははっ、当然だ! あの鉄壁に見える関所にもな……実は俺だけが知っている『抜け穴』がある。新月の夜だけ、交代の隙を突いて兵の配置が完全に空く谷道があってな。俺はそこを使って……」
その言葉が、曹達の口から滑り落ちた瞬間だった。
彼にすがりつき、とろけるような熱を放っていたサーラの瞳から、媚色がスッと消え失せた。先ほどまでの甘い女の顔は微塵もなく、そこにあるのはただ、極上の獲物を仕留めた氷のような情報屋の冷徹な光だけだった。壁の暗がりに同化していた私は、彼女の恐るべき手腕と変貌を、微かな戦慄と共に見逃さなかった。
(――網は、掛かった)
私が腰の直剣の鯉口を親指で微かに押し上げた、その時だ。
重厚な黒檀の扉が、音もなく開かれた。
双簧管の気怠い旋律が途切れ、室内の空気が急激に冷え込む。
寝台の上の曹達が、何事かと間抜けな顔で振り返った先。そこには、シャフルードの闇に君臨する支配者、『影王』――玲玉殿下が立っていた。
夜の砂漠を思わせる漆黒の衣を纏った彼は、かつての華奢な少年の面影を完全に脱ぎ捨て、見上げるほどに逞しい大人の男の骨格を備えていた。その紫水晶の瞳が放つ絶対零度の冷気に当てられ、曹達は酔いを吹き飛ばされたように目を丸くする。
「ご苦労だった。下がれ」
玲玉が短く命じると、先ほどまで曹達にまとわりついていたサーラたち娼婦は一言も発することなく、寝台から流れるように滑り降りて一斉に部屋を退出していった。密室に残されたのは、玲玉と私、そして半裸の曹達と二人の屈強な護衛だけだ。
「な、何だ貴様は! ここをどこだと……っ!」
曹達が慌てて衣を羽織り立ち上がろうとした瞬間、玲玉は彼の目の前の卓上に、数冊の帳簿と羊皮紙の束を無造作に放り投げた。
バサリ、という重い音が響く。
「天青皇国、国境守備隊副官、曹達。……軍資金三千両の横領記録と、先ほどの関所の警備に関する機密漏洩の証言だ」
玲玉の声は、硝子のように透き通り、感情の起伏を一切感じさせなかった。
卓上の裏帳簿を見た曹達の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。土気色に変わった顔面から、滝のような脂汗が噴き出した。
「これを天青の鎮国公・煌雷の耳に入れればどうなるか。……逆らう者は九族まで根絶やしにするあの男だ。明日には、お前の一族郎党すべてが、広場で首と胴体を切り離されることになるだろうね」
玲玉の言葉は、完璧な死の宣告だった。
恐怖に顔を引き攣らせた曹達は、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、やがて絶望を狂気へと変えて叫んだ。
「き、貴様ら……っ! 生かして帰すな! こいつらをここで斬り捨てて、証拠を燃やせ!!」
曹達の背後に控えていた二人の護衛が、殺気を放ちながら剣の柄に手を掛けた。
――だが、遅い。
彼らの刃が鞘から半分も抜けるより早く、私は地を蹴っていた。
空気を切り裂く風切り音。
「が、はッ……!」
私は一人目の護衛の懐に滑り込み、その手首の関節を無慈悲に極め上げてへし折ると同時に、膝裏を蹴り砕いて石の床に這いつくばらせた。悲鳴を上げる暇すら与えない。
驚愕に目を見開いた二人目の護衛が剣を振り下ろそうとした瞬間、私はすでに曹達の背後に回り込み、抜刀した直剣の冷たい刃を、彼の頸動脈にピタリと押し当てていた。
「……動けば、斬る」
私の氷の底のような声に、護衛たちは完全に動きを止めた。
曹達の喉仏が上下に動き、刃に触れた皮膚から一筋の赤い血が、たらりと首筋を伝い落ちる。
ほんの数秒の間に敷かれた、完璧な物理的死線。私は瞬き一つせず、かつて悪徳商人ザバンを平伏させた時と同じように、圧倒的な殺気で室内を完全に制圧した。
玲玉は、目の前で刃が閃いても微塵も動揺することなく、ただ冷ややかに曹達を見下ろしていた。
「……僕の背後にいる護衛は、気が短くてね。あまり無駄な抵抗はしないことだ」
玲玉は、長椅子にゆっくりと腰を下ろし、足を組んだ。
そして、恐怖で股間を濡らし、過呼吸に陥っている曹達の目の前に、一枚の真新しい羊皮紙を滑らせた。
「僕は、お前の命を奪いに来たわけじゃない。……むしろ、極上の『利益』を提供してやると言っているんだ」
「り、利益……?」
曹達が、震える声で掠れた息を吐き出す。
「僕の軍勢が国境に到達した際、反乱を起こして内側から青鹿の谷の関所の門を開けろ」
玲玉の紫水晶の瞳が、仄暗い覇王の光を宿して曹達を射抜いた。
「そうすれば、僕が天青の玉座を取り戻した暁には、お前の命の保証と、新たな地位を約束しよう。……煌雷の恐怖に怯えながら辺境でくすぶるよりも、ずっと割のいい取引のはずだ」
絶対的な死の恐怖(煌雷の粛清と、喉元の狂犬の刃)。
そして、生存と出世という抗いがたい欲望の誘惑。
玲玉は、人間の『恐怖』と『強欲』を完璧な計算式で天秤に乗せたのだ。
これだけの材料を突きつけられて、もはや曹達に提案を拒絶する思考能力など残されてはいなかった。
「あ……あぁ……っ」
曹達は嗚咽のような声を漏らしながら、震える手で羊皮紙を引き寄せた。
そして、自らの親指を噛み切り、玲玉の提示した「関所開門の誓約書」に、べっとりと血判を押した。
「賢明な判断だ」
玲玉が冷酷な笑みを浮かべ、誓約書を懐に収める。
私は直剣の血振るいをして鞘に納め、音もなく玲玉の斜め後ろ、三歩下がった位置――いつもの盾の定位置へと戻った。
部屋を後にする際、玲玉は振り返ることなく扉をくぐり抜けた。
廊下の影を歩きながら、私は彼の広く逞しい背中を静かに見つめる。
人間の弱さと欲望を完全に掌握し、一切の血を流さずに難攻不落の関所の『鍵』を手に入れた、冷徹で美しき覇王がそこにいた。
私は柄を握る手に力を込め、彼と共に歩む血塗られた修羅の道に、改めて強い覚悟の楔を打ち込んだ。
決戦の夜は近い。私たちからすべてを奪った天青皇国への、四年越しの反逆の狼煙が、今、シャフルードの闇の中で静かに上がり始めていた。




