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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
青年期

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14/24

2.5

俺は、この砂礫の国シャフルードの最も底意地の汚いスラムで生まれ育った。


親の顔も知らねえ。路地裏に立ち込める腐った羊の肉と汚水の臭いの中で、野犬とパンの耳一つを奪い合いながら生きてきた。生きるためには騙し、盗み、相手の目を躊躇なく突き刺すのが当たり前の世界だった。


十四の時だ。当時、俺には唯一背中を預けていた、実の兄のように慕う「相棒」がいた。

だが、ある日、街の顔役だったマフィアの密輸品をくすねようとして捕まった時……そいつは、あっさりと俺を売り飛ばした。

『こいつの右腕を斬り落とせば、お前だけは見逃してやる』

ボスの気まぐれな宣告を聞いた相棒は、一秒の躊躇いもなく、縛り上げられた俺の右腕に錆びた斧を振り下ろしやがった。

「悪く思うなよ、ザウル。お前も俺の立場なら同じことをするだろ?」と、下劣に嗤いながら。


吹き出す血と、気が狂うほどの激痛の中で、泥に顔を押し付けられた俺は悟った。

情や絆なんてものは、いざという時に真っ先に自分を裏切る、くだらねえ『弱点』に過ぎない。この理不尽な世界で最後に信じられるのは、他人の命をねじ伏せる「暴力」と、魂すらも買い叩ける「金」。それだけなのだと。


右腕の肘から先を失った俺は、それでも泥水を啜り、残った片腕で這いつくばって生き延びた。

熱病にうなされながら失った右腕に黒光りする鉄のフックを打ち込み、数年後、俺を売った相棒の喉笛を、その鉄の義手で自ら引き裂いた。相棒がすがりついていたマフィアのボスも皆殺しにして、組織を丸ごと乗っ取ってやった。


そうして俺は、暴力と恐怖だけを信じ、歯向かう奴は片っ端から砂漠の底に沈めて、この街の裏社会を取り仕切る元締めにまで這い上がったのだ。


人間の醜さも、金と暴力がすべてをねじ伏せる現実も、裏社会の酸いも甘いも知り尽くしているつもりだった。

人間の命の価値も、欲望の底の浅さも、すべて俺のこの片手で握り潰せるものだと高を括っていた。


だが、俺は何も分かっていなかったのだ。

あの夜、水タバコとゲロの臭いが染み付いた俺の地下酒場に、本物のバケモノが迷い込んでくるまでは。


階段を下りてきたのは、泥だらけでボロボロの襤褸切れを纏った、十五歳のガキだった。ひ弱で、真っ白な顔をして、足はガタガタと無様に震えていた。俺にはそれが、毛を毟られた哀れな雛鳥が自ら蛇の巣穴に飛び込んできたようにしか見えなかった。


だから、下劣に嗤ってやった。手下に命じて机に顔面を叩きつけさせ、右の眼球にナイフを突き立ててやった。恐怖で泣き叫び、小便を漏らすのが普通のガキの反応だ。


だが、そいつは違った。

眼球に刃先が触れ、血が滲んでいるというのに、そいつは瞬き一つしなかったのだ。


『……殺せよ』


俺を見据えたその紫水晶アメジストの瞳は、絶対零度だった。死の恐怖などとうの昔に焼き捨ててきたような、一切の感情を持たないその目。俺はその瞬間、背筋にぞっとするような氷塊をねじ込まれた気分になった。

そしてガキは、上の部屋にいる狂犬を盾にして、南の旧街道の密輸ルートという途方もないハッタリをぶち上げてきやがった。

俺は、震える背筋の寒気を誤魔化すように、渋々そのハッタリに乗ることを決めた。……それが、俺の運命のすべてを変えた。


俺たちはまんまと、あのガキのハッタリに乗せられていた。

だが、あのガキが真に恐ろしいのは、ただ口先が回るだけじゃない。吐いたデタラメなハッタリを、己の頭脳一つで『本物の巨大な経済網』へと錬成してみせたことだ。


そいつは紙とペンだけを使い、頭の中にある地図の記憶だけで俺の手下を動かした。旧街道の凶悪な山賊どもを奇襲で制圧させると、皆殺しにはせず「食料と報酬」を餌にして、忠実な道の警備隊として再利用しやがった。

さらに、シャフルードの悪徳商人たちの裏帳簿を握り潰すぞと脅しをかけた直後、「関所の半分以下の税で安全な道を提供する」と甘い蜜を垂らし、商人たちから絶対に逆らえない服従と莫大な利益を搾り取った。

極めつけは、国境の役人を金と阿片で買収し、正規の関所にはゴミや腐った穀物を積んだ馬車を走らせる「ダミーの物流」の構築だ。大国の目を完璧に欺きながら、裏のルートで莫大な金と物資を動かしていく。


ほんの数ヶ月後。俺の目の前には、見たこともないような金貨の山が積まれていた。

ただのハッタリだった紙切れから、無から有を生み出す悪魔的な知略。暴力しか知らなかった俺は、その恐るべき化け物の前に、震えながら平伏し、完全な忠誠を誓うしかなかった。


逃亡から三年が経つ頃には、あのガキの身体は恐ろしい速度で大人の男へと急成長していた。背丈はとうに俺たちを見下ろすほどになり、シャフルードの裏社会の半分を支配する豪邸の主、若き覇王として君臨していた。


もはや、俺の腹の中に、逆らおうなどという気は微塵も起きない。

玉座に座る影王が、一度その冷たい紫水晶の瞳を向ければ、俺は息を呑んで首を垂れる完璧な手足となっていた。背後に常に控える、あの恐ろしい黒衣の狂犬の存在も、組織の誰もが震え上がるほどの脅威だった。


影王の戦い方は、俺たちのような野蛮な暴力じゃない。見えない真綿で、確実に敵の首を絞め上げる盤面支配だ。

ある夜、南のオアシスで俺たちの水利権に手を出した組織があった。影王は一切の感情を交えず、ただ一言「地下水脈に岩塩と毒を流し込め」と命じた。渇きで女子供ごと干上がらせ、砂漠へ逃げ出したところを狩る。一切の容赦がない冷酷無比な決断だった。

玉座に座ったまま、チェスの駒を動かすように街の組織を次々と壊滅させ、吸収していく。俺はその血も凍るような采配に、畏れおののくことしかできなかった。


そもそも、あいつらが最初に安宿に転がり込んできた時の「病弱な弟と、それを守る強い姉」なんて設定は、俺の中ではとうの昔に破綻していた。


五十年前の天青国の正確な測量記録、複雑な税の仕組み、大国の軍事の機密。そんなものを空で暗唱し、盤上の駒のように操れるスラムの孤児や商人の息子などいるはずがない。あの恐るべき知識量と、他者の命を平然と使い潰す冷酷な王の目。

……奴は間違いなく、天青国の中枢で最高峰の帝王学を叩き込まれた、極めて高貴な身分――玉座を狙う正当な権利を持つ『王族』か何かの生き残りだ。


俺たち組織の人間も、いつしか表向きの姉弟という設定など忘れ、奴らを高貴な若君と、彼に影のように付き従う絶対的な護衛として扱うようになっていた。


そして四年目。影王の次の標的は、高級娼館(色街)だった。

俺を使って経営権を裏から買い叩かせると、娼婦たちをただの女ではなく「極上のスパイ」として教育しやがった。

天青国の高官や死の商人たちが、女の甘い香りに酔って吐き出す「軍の機密」や「倒錯した性癖の証拠」。それらをすべて握り、巨大な大国の首根っこをシャフルードの娼館から完全にコントロールするシステムを作り上げたのだ。


だが。

四年も仕え、影王の冷酷さも正体も悟ったはずの俺にとって、一つだけ……背筋が薄気味悪くなるほど、理解できない異常さがあった。


それは、あの二人の間のいびつな関係性――影王の『女関係』だ。


シャフルードの裏の頂点に立ち、あれほどの凄絶な色気と美貌を備えた大人の男だ。女なんて選び放題だし、権力者や商人たちから、毎晩のように極上の美女が献上されてくる。


俺たちの支配下にある娼館には、『砂漠の夜の至宝』と呼ばれる筆頭舞姫、サーラがいる。透き通るような柔肌と極上の曲線美を持ち、俺を含めたこのシャフルードのすべての男が「一生に一度でいいから抱いてみたい」と熱狂し、焦がれる絶世の美女だ。

そのサーラが、自らの女の武器とプライドのすべてを懸け、むせ返るような色香で擦り寄り、影王を自らの寝所へと誘惑しようとしたことがあったという。


しかし、影王はただの一度として、彼女に指一本触れようとしなかったのだ。

あの至宝の豊満な肉体を押し当てられても、影王の紫水晶の瞳は微塵も揺らがず、まるで道端の石ころか、ただの便利な道具を見るような絶対零度のままだった。


女を宛がわれるたび、影王は余裕たっぷりに笑ってこう躱す。

『背後の狂犬が嫉妬深いからね。他の女を抱けば、喉笛ごと殺されかねない』


周囲の奴らや、女の矜持をへし折られたサーラ自身は、その大人の色気を漂わせたハッタリに騙されているが……一番近くで仕えてきた俺には分かる。狂犬が嫉妬深いからじゃない。影王自身が、狂犬以外の女を視界に入れることすら拒絶しているのだ。


あの冷酷な影王が、裏社会の泥にまみれ、人間のあらゆる欲を冷徹に利用しながらも、国中の男が憧れる至宝にすら目もくれない。

あの王の底知れない情欲と、狂気じみた過保護な執着は――常に背後に立つ、あの不器用で無愛想な黒衣の女護衛、ただ一人に向けられている。


(なぜ、さっさと手籠にしないのだ?)


俺には理解できない。権力も金も、圧倒的な力も持っているのだ。裏社会の流儀なら、力ずくでベッドに組み敷き、自分の女にしてしまえばそれで終わる話だ。

だが影王は、まるで触れれば壊れてしまう神聖なガラス細工でも扱うかのように、自らの煮えたぎるような男の欲を、ギリギリのところで鎖に繋いで耐え続けている。


何百人もの人間を冷酷に謀殺しておきながら、たった一人の護衛の女から盾という呪いを解き、自分の腕の中でただの女として独占するためだけに、大国一つをひっくり返そうとしている。

影王の唯一の弱点であり、世界を裏返してまで手に入れようとしている真の目的は、玉座なんかじゃない。あの黒衣の護衛なのだ。


それがどれほど異常で、底知れぬ一途さか。

俺はその、一人の女に対する重すぎる執念に気づいた時、ある種の薄気味悪さと同時に、とてつもない畏敬の念を抱いた。


そして現在。逃亡から四年。

影王はついに娼館の網を使い、天青国の関所の副官を嵌め、「関所開門の血判」を押させるという最大のミッションを完遂させた。俺の目の前で、大国の防衛線が、一滴の血も流さずに崩れ落ちたのだ。


「……行くよ、凛華。僕たちの国を取り戻しに」


作戦室で、あの女護衛に向かってそう告げた影王の顔には、すべてを飲み込む覇王の凄みが宿っていた。


あのカビ臭い地下酒場で、眼球にナイフを突き立てられても笑っていたあのガキが。

一人の女への途方もない情欲を腹の底に隠し持った若き王が、ついに大国を飲み込もうとしている。


俺は残された左腕で、腰の曲刀の柄を固く握りしめた。

ああ、付き合ってやるさ。

俺は、隻腕のザウルは、この恐ろしくも底知れない影王が、一体どこまでこの世界をひっくり返すのか。……俺の命が燃え尽きる、地獄の底まで見届けてやるつもりだ。

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