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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
青年期

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15/24

3

曹達の血判状を手に入れたからといって、私たちがすぐに武力で正面から関所へ攻め込むわけではない 。

シャフルードの豪邸の地下に設けられた、窓のない広大な作戦室。


壁一面に張られた天青皇国の巨大な地図を前に、玲玉は冷たい紫水晶の瞳を細めていた。


「影王様。血判を手に入れたのは重畳ですが、あの疑り深い煌雷が、関所に戻った曹達の裏切りに気づかないでしょうか」

部屋の隅に控えていた隻腕のザウルが、鉄の義手をカツンと鳴らして懸念を口にした。


「煌雷は有能な軍人だ。必ず不審な動きを察知し、曹達の身辺を洗わせるだろうね」

玲玉は余裕の笑みを崩さず、地図の上の青鹿の谷を指先でなぞった。


「だからこそ、曹達には関所へ帰還した後の『偽装工作』の指示をすでに与えてある。……ザウル、お前の末端の密輸業者を数人、わざと曹達の部隊に捕らえさせろ」

「なっ……うちの若い衆を、生贄に差し出すと?」

ザウルが片目を大きく見開く。


「命までは取らせない。曹達には彼らを『国境を荒らす密輸業者を捕らえた手柄』として、煌雷への忠誠の証として王都へ差し出させるんだ。疑念を抱いた煌雷の目線を、意図的に用意した『小さな成果』に向けさせる。……煌雷がその偽装の裏にある決定的な裏切りの証拠を掴むには、必ず数日のタイムラグが生まれる」


玲玉のその冷徹な計算に、ザウルは喉の奥でヒュッと息を呑んだ。盤面を支配するためなら、自らの手駒すらも冷酷な囮として使い潰し、敵の思考の先を行く。二人の王による、血を流さない極限の知恵比べがすでに始まっていたのだ。


「それに、僕たちの手駒は、ザウルが束ねる裏社会のならず者たちが中心だ。煌雷が莫大な金をかけて鍛え上げた正規軍と正面からぶつかれば、いくら君が陣頭に立とうと三日で全滅する 」

玲玉の手が、地図上の『青鹿の谷』の関所から、さらに北の王都へと赤い線を引く。


「……僕の覇道は、力押しで無駄な血を流すことじゃない。盤面を完全に支配し、相手が剣を抜く前にねじ伏せることにある。ここからは、国を内側から崩壊させる『総仕上げ(チェックメイト)』だ 」

作戦室には、溶けた封蝋の焦げた匂いと、微かな埃の匂いが立ち込めている 。


「影王様。各地の商人たちへの手筈は整っております。いつでもいけますぜ 」

「ああ。……明日から、青鹿の谷の関所へ流していた『ダミーの物流』を完全に停止しろ 」

玲玉の冷徹な命令に、ザウルが片目を大きく見開いた。


「完全に、ですか? 適度な税と木っ端を流して煌雷の目を誤魔化していたのに、いきなりゼロにすりゃ、あの大将もさすがに異常に気づくのでは…… 」

「気づかせてやるんだよ。むしろ、気づいた時にはすでに手遅れになっているようにね 」


玲玉は羽ペンを置き、冷酷な笑みを浮かべた。

「今までは煌雷を安心させるための偽装だった。だが、開門の『鍵』を手に入れた今、もはや煌雷に一厘の税すらくれてやる必要はない。天青国への物資の流入を今日を境にゼロにする。恐怖政治で重税を課している煌雷の国庫と、軍需物資を完全に枯渇させるんだ 」


圧倒的な『経済の首絞め』。

武力ではなく、物流を完全に握る影王だからこそできる、国そのものの兵糧攻めだ。


玲玉はすぐに次の羊皮紙を引き寄せ、流麗な筆致で密書をしたため始めた。

その宛先の名前が目に入った瞬間、私の心臓が小さく跳ねた。


老将軍……)


それは、大将軍であった私の父の右腕であり、かつて私を『盾の呪縛』から解放しようと気遣ってくれた、あの温厚な老武将の名前だった。

煌雷が実権を握って粛清の嵐が吹き荒れる中、彼がどうなったのかずっと気がかりだったが、玲玉の情報網は彼がまだ軍の要職で生き長らえていることを掴んでいたのだ。


「煌雷の恐怖政治の下で、魏老将軍のような旧体制の武官たちは鬱血し、限界を迎えている。彼らの忠誠心は、決して簒奪者には向いていない」


玲玉は密書を丁寧に折りたたみ、その中に、先ほど曹達に押させた『血判状の写し』を同封した。


「彼らの元へ、『私は生きており、間もなく関所を開く』という密書を裏ルートで送り届ける。関所が内側から開くという物理的な証拠を見せれば、彼らは確実に動く。……帝都で、一斉蜂起の準備を整えさせるんだ」

「内乱を、起こさせるのですね」

「ああ。煌雷の目を、国境ではなく足元の帝都へ向けさせる」


玲玉は封蝋に自らの指輪を押し当て、完璧な封印を施した。


これこそが、彼の描いた恐るべき奪還の設計図だった。

ダミー物流の停止により国庫と物資が枯渇し、煌雷の軍が混乱に陥る。その最悪のタイミングを見計らい、帝都の心臓部で魏老将軍たち旧体制派の反乱の火の手が上がる。

煌雷の全神経と戦力が、足元の鎮圧と経済の立て直しに奔走させられる。


「……そして、その最高のタイミングで、僕たちの軍勢が国境へ到達する」


玲玉は立ち上がり、地図の『青鹿の谷』をドンッと力強く叩いた。


「罠に嵌めた曹達に内側から関所の門を開けさせ、強固な防衛線を一滴の血も流さずに突破する。……そのまま無血で関所を制圧し、燃え上がる帝都へ進軍するんだ」


ザウルが、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。

私もまた、無意識のうちに柄を握る手に力がこもっていた。


完璧だ。

力なきならず者の集団を率いて、大国の正規軍を相手に無傷で国境を越えるなど、狂気の沙汰としか思えない。だが、玲玉の構築したこの緻密な『盤面』の上では、それが紛れもない現実として機能しようとしている。

四年間、泥水を啜り、吐き気と自己嫌悪に耐えながら彼がシャフルードの闇で組み上げてきた歯車が、今、凄まじい速度で噛み合い、天青皇国を内側から食い破るための巨大な機構として動き始めたのだ。


「ザウル。今日から一睡もするな。すべての物流を止め、密使を放て。五日後に軍を動かす」

「御意に……! 我が王よ!」


ザウルが震える声で歓喜の叫びを上げ、嵐のような勢いで作戦室を飛び出していく。

静寂が戻った地下室で、玲玉は深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力をスッと抜いた。


「……これで、すべての準備が終わった」


玲玉が振り返り、私を見る。

その紫水晶の瞳には、かつてないほどの熱と、すべてを終わらせるという凄絶な覚悟が宿っていた。


「行くよ、凛華。僕たちの国を取り戻しに」


「はい。どこまでも、お供いたします」


これまでのじっくり年月をかけた盤石作りが終わり、チェックメイトへと急速に進む作戦。

もはや、足踏みしている時間はない。私たちのこれまでの年月の集大成が、ついに巨大なうねりとなって国境を越えようとしていた。






* * *





天青皇国、帝都。

重厚な黒曜石で設えられた謁見の間は、文字通り「鉄と血」の匂いが染み付いていた。

玉座に深く腰を沈めるのは、この大国を武力と恐怖で統べ、前皇帝から玉座を簒奪した覇王――鎮国公・煌雷こうらいである。


「……申し上げます。ここ数日、南方のシャフルードからの物流が『完全に』途絶えました。青鹿の谷の関所からの税収もゼロ。のみならず、市場に出回るはずの鉄や薬草、軍馬の飼料までもが、不自然なほど国内から姿を消しております」


軍務卿であるバロンが、大理石の床に額を擦り付けんばかりに平伏しながら、滝のような脂汗を流して報告した。


「国庫の備蓄はまだありますが、このままでは一月と持たず、北方の防衛軍の補給線が干上がります。南の山賊どもの仕業か、あるいはシャフルードの商人が結託して不当に値を吊り上げようとしているのか……」

「黙れ、バロン」


煌雷の、地鳴りのような低い声が謁見の間に響いた。

バロンがヒュッと息を呑み、硬直する。


煌雷は玉座の肘掛けに顎を乗せ、獲物を狙う猛禽類のように目を細めた。

彼は、力押ししか能のない愚鈍な武将ではない。兄である前皇帝の「平和という名の泥水」を誰よりも嫌悪し、この国を強固な要塞へと作り変えた、極めて有能で冷徹な軍人である。

だからこそ、彼はこの異常事態の「真の恐ろしさ」に、誰よりも早く気づいていた。


(……単なる盗賊や商人の小細工ではない)


煌雷の脳内で、国全体の巨大な地図がパズルのように組み上がっていく。

ダミーとして流されていた木っ端のような税が、突然ゼロになった。軍需物資だけがピンポイントで枯渇している。これは偶然ではない。

「隣国シャフルードに、天青国を意図的に干上がらせようとしている巨大な組織シンジケートが存在する」。


そして何より、煌雷の背筋を微かに撫でたのは、その見えない敵の『戦い方』だった。


武力で国境を荒らすのではなく、経済の血流を完全に掌握し、音もなく敵の首を絞め上げる盤面支配。力押しを嫌い、人間の強欲と弱みを利用して緻密な絡め手を使うその気配には――かつて自分が自らの手で殺した兄(前皇帝)の、あの軟弱な『知略』の匂いが色濃く漂っていた。


いや、違う。兄の「誰も血を流さない」という生温い理想を、冷酷な武器として極限まで研ぎ澄ませたような、国家レベルの恐るべき知略だ。


「……なるほどな」


煌雷の獰猛な口元が、三日月のように歪んだ。

彼は、燃え落ちた皇宮の記憶を呼び起こす。四年前、確かに兄の腹を貫いた。だが、あの夜、逃げ延びた者がいたはずだ。


「生き延びて、この俺に牙を剥くまでに成長したというわけか。……あの、ひ弱で温室育ちだった小僧が」


煌雷の直感が、事の真相を正確に射抜いていた。

血と泥の底から這い上がり、覇王となって首を狙いに来た甥の姿を幻視し、煌雷は喉の奥で低く嗤った。


「バロン。青鹿の谷の関所を束ねる曹達ソウタツの動きを洗え。あいつは強欲で小賢しい。……すでに、首輪を付けられている可能性が高い」

「そ、曹達が裏切ったと申されるのですか!? しかし、あそこは難攻不落の……」

「シャフルードの闇に潜む『亡霊』が、直接手を下したのだろう」


煌雷は玉座から立ち上がり、黒いマントを翻した。

「……雷覇らいは!!」


覇王の怒号が響いた瞬間。

謁見の間の太い柱の影から、一人の男が音もなく滑り出た。

「お呼びかな、陛下」


年齢は玲玉より少し上だろうか。しなやかで凶暴な獣を思わせる筋肉に、銀灰色の髪。その瞳には、血の匂いを嗅ぎつけた飢えた狼のような、ギラギラとした狂気が宿っていた。


煌雷が最も信頼する懐刀であり、天青皇国最強の特務部隊を率いる若き狼・雷覇。

四年前の皇宮襲撃の夜、当時から無敵を誇っていた凛華の直剣を、圧倒的な腕力と野性の剣技で弾き飛ばし、彼女に屈辱的な敗北と傷を負わせた張本人である。


「青鹿の谷へ向かえ。曹達が裏切っていれば、その場で首を刎ねろ」

煌雷は冷酷に命じた。

「その後、国境を越えてシャフルードの娼館へ潜入しろ。そこに、天青を裏から喰い破ろうとしているネズミの巣がある。……すべて焼き払い、亡霊の首を俺の足元へ持ち帰れ」


「シャフルード、ね……」

雷覇は、獰猛な笑みを浮かべて首の骨をポキリと鳴らした。


「そういや、あの夜……玉座の間で俺から逃げおおせた『黒髪の狂犬』も、その亡霊の傍にいるんでしょうね?」


雷覇の脳裏に、かつて刃を交えた凛華の姿が蘇る。主君を守るために身を挺し、血まみれになりながらも凄絶な殺気を放っていたあの少女。


「……ああ。四年経って、あの雌犬の牙がどれだけ研ぎ澄まされたか。俺がもう一度、へし折って確かめてやりますよ」


雷覇は舌なめずりをし、闇に溶けるように謁見の間から姿を消した。


皇帝・煌雷は、無人となった謁見の間で、南の空を睨み据えた。

「来るなら来い、玲玉。お前のその小賢しい盤面ごと、俺の鉄と血で粉砕してやろう」


影の覇王と、鉄の覇王。

二人の王の知略が激突し、因縁の刃が再び交えられようとする圧倒的な戦火の気配が、天青皇国の空を黒く染め上げようとしていた。

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