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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
青年期

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16/24

4

曹達が血判状に指を押し当ててから、三日の夜が過ぎた。


「……王都の老将軍から、返書が届きましたぜ」


むせ返るような乳香の香りが漂う娼館の最奥。そのさらに地下に隠された作戦室へ、隻腕のザウルが重い足音を立てて入ってきた。

彼の鉄の義手から差し出された一枚の羊皮紙を、玲玉殿下は静かに受け取る。その紫水晶の瞳が、暗号化された文面を滑るように読み解いていく。


『――亡霊の帰還を歓迎する。我ら旧体制の老骨、貴方様が関所を開くその日に、帝都に決起の火の手を上げん』


「これで、内乱の準備は整った」

玲玉は羊皮紙をランプの火にかざし、灰になるまで燃やし尽くした。

しかし、彼の顔に安堵の色は微塵もなかった。むしろ、その瞳の奥には、氷のような極度の警戒感が張り詰めている。


「影王様、何か懸念が?」

ザウルが、残された片目を細めて問う。


煌雷こうらいは愚かじゃない。有能な軍人だ。国全体の血流が止まった異常に、そして関所の副官の不審な動きに、必ず気づく」

玲玉は、壁の地図を睨み据えたまま言葉を続けた。

「あの男なら、僕たちの『知略』という盤面そのものを、理不尽な『暴力』で物理的にひっくり返しに来るはずだ」


「つまり、このシャフルードに刺客が来るってことですか」

「おそらくね。……だから、すでに手は打ってある」


玲玉は冷徹に言い放った。彼はこの数日間、ただ吉報を待っていたわけではない。煌雷の直感を読み切り、この巨大な娼館全体に、無数の隠し通路と罠を仕込ませていたのだ。


「盤面が壊されたなら、その壊れた破片で敵の喉首を刺すまでだ」


その冷酷で完璧な備えに、ザウルはふっと口元を緩め、喉の奥で低く嗤った。


「四年前、地下酒場でアンタの狂ったハッタリに乗った時は肝を冷やしたが……今じゃ、アンタのその頭脳に底知れねえ恐ろしさすら感じるぜ。俺はいい主に拾われた。地獄の底まで付き合いますよ、我が王」

「頼りにしているよ、ザウル」


四年の歳月が培った、裏社会の元締めと若き覇王の、確かな絆。

だが、その強固な絆と知略を試すかのように――煌雷の放った『理不尽な暴力』は、最悪のタイミングで襲いかかってきた。


四日目の深夜。

甘い香りが満ちていた娼館に、突如として焦げた肉の臭いと、重厚な扉が爆砕される轟音が響き渡った。


「敵襲ォォッ!!」


見張りの絶叫と共に、豪奢な薄絹の帳が一瞬にして紅蓮の炎に包まれる。

踏み込んできたのは、黒鉄の鎧に身を包んだ天青皇国の精鋭部隊。そしてその先頭で、燃え盛る炎を背景に身の丈ほどもある大剣を肩に担いで嗤っている、銀灰色の髪の男。


煌雷の懐刀、親の仇である王都の象徴を憎悪し、本物の殺気を持つ若き若き狼――雷覇らいはだった。


「ヒャハハハッ!! どこに隠れてやがる、四年前のネズミ共!!」


大剣が一閃されるたびに、ザウルの手下たちが木っ端微塵に吹き飛ばされ、血しぶきがペルシャ絨毯を赤黒く染めていく。火の粉が舞い上がり、むせ返るような乳香の匂いが、焦げた煙の悪臭へと変貌した。パニックに陥った客と娼婦たちの悲鳴が、建物を揺るがす。


圧倒的な武力による強襲。だが、玲玉は微塵も動揺を見せなかった。


「ザウル、客と女たちを地下の隠し通路から逃がせ! 僕は罠を起動する」


玲玉は壁際の隠しレバーを引き、あらかじめ仕込んでおいた凶悪なからくりを次々と作動させた。

雷覇の部下たちが踏み込んだ廊下の床が突然抜け落ち、彼らは刃の飛び出た地下室へと串刺しになる。逃げ場を失った精鋭たちの首筋を、壁の隙間から放たれた猛毒の吹き矢が次々と射抜いていく。


イレギュラーな特攻に対し、玲玉は自らの庭である地の利を完璧に活かし、敵の戦力を分断・無力化する知略の総力戦を展開した。


しかし、雷覇だけは違った。


燃え盛る大広間。からくり仕掛けの罠など意に介さず、炎を上げて崩れ落ちる太い柱を大剣で無造作に叩き割りながら、血に飢えた獣が一直線に私たちの前へと立ち塞がった。


「ヒャハハハッ!! 随分と派手な歓迎じゃねえか。……見つけたぜ、四年前の負け犬(雌犬)さんよォ!」


火の粉を散らして現れた雷覇のギラついた狂気が、真っ直ぐに私を射抜く。

かつて皇宮の離宮で、この男の圧倒的な暴力と殺気の前に、私は手も足も出ず、無様に這いつくばって玲玉殿下を危険に晒した。その屈辱の記憶と古傷が微かに疼き、私の身体を一瞬だけ強張らせる。


雷覇はニタニタといやらしい笑みを浮かべたまま、私の斜め後ろに立つ長身の男――玲玉殿下へと視線を移した。そして、怪訝そうに太い眉をひそめる。


「あァ? なんだ、その隣に突っ立ってる偉そうな色男は。お前、あの泣き虫でひ弱な坊ちゃんを見限って、シャフルードで新しいパトロンでも見つけたのか?」


雷覇の言葉に、私は怒りよりも先に、滑稽さすら感じていた。

無理もない。雷覇の記憶にある『玲玉』は、背丈も低く、指で触れれば折れてしまいそうなほど華奢で、ただ私の背中に隠れて震えているだけの十五歳の少年なのだ。

目の前に立つ、自分と同じかそれ以上の背丈を持ち、強靭な獣のような骨格と、周囲を氷点下に染め上げるほどの絶対的な覇気――『影王』としての威圧感を纏ったこの大人の男が、あの日の病弱な皇子と同一人物だとは、到底認識できないのだろう。


玲玉殿下は、自身に向けられた侮蔑の言葉にも微塵も表情を変えず、ただ冷ややかな、見下すような視線を雷覇へと向けた。


「……相変わらず、野蛮で知性の欠片もない犬だ。煌雷(叔父上)は、飼い犬のしつけもまともにできないらしい」


地を這うような、絶対零度の声。

その凄絶なまでの冷気と、炎の明かりに照らされて妖しく輝いた『紫水晶アメジストの瞳』を見た瞬間。雷覇の顔から、下劣な笑みがスッと消え失せた。


「……は? その、紫色の目……嘘だろ。まさか、お前……」


雷覇の銀灰色の瞳が、信じられないものを見るように限界まで見開かれる。

あの泥の中で這いつくばっていたひ弱な小僧が、たった四年間で、己を凌駕するほどの体格と、裏社会を統べる『王』の威光を身につけて目の前に立っている。その乖離の激しさに、戦闘狂である雷覇でさえ、一瞬理解が追いつかず息を呑んだ。


だが、次の瞬間には、その驚愕はドス黒い歓喜と殺意へと塗り替えられた。


「ヒャハハハッ! 傑作だ! あの温室の小鳥が、随分と立派なバケモノに育ちやがって!! なら、その立派に育った首を叩き落とすのが余計に面白くなったぜェ!!」


雷覇から、四年前を凌ぐ凶悪な殺気が爆発する。


(だが、今の私は違う)


私は表情筋を完全に殺したまま、腰の直剣を抜き放ち、玲玉の前に進み出た。


雷覇が、獰猛な笑みを浮かべて焦げた絨毯を蹴り砕く。

奴の神速の初撃、その標的は私ではない。私の背後に立つ玲玉だ。


「主君を庇って、また無様に体勢を崩しなァ!!」


四年前と全く同じ戦法。護衛の「盾」としての本能を利用し、私が玲玉を庇って防御に回ったところを、大剣の圧倒的な重量と遠心力で、私の刃ごと二人まとめて叩き潰す算段だ。


雷覇の凶刃が玲玉へと振り下ろされるその刹那。

私は、盾として玲玉の前に立ち塞がることを、完全にやめた。

(私はもう、貴方を守るだけの綺麗な盾ではない。貴方の修羅道を切り開く、共犯の悪鬼だ!)


「……ッ!?」


私は防御の構えを一切捨て、前傾姿勢のまま、雷覇の懐へと神速で飛び込んだ。


「狂ったか!」


雷覇が驚愕に目を見開く。彼は慌てて大剣の軌道を急激に変え、玲玉ではなく、目前に迫った私の左半身を捉えようとした。


避けない。いや、最初から避ける気などなかった。


『肉を切らせて、骨を断つ』。


ズガァァンッ!! というすさまじい衝撃と共に、雷覇の大剣が私の左肩の肉を深く抉り、骨に達する鈍い音が響き渡った。


「取った――!」


雷覇が勝利を確信し、大剣をさらに押し込もうとした、まさにその瞬間。私は左肩の激痛を完全に無視し、自らその大剣の刃を肉に食い込ませるようにしてさらに一歩踏み込んだ 。

そして、大振りな剣を振り抜いた反動で隙だらけになった雷覇の首元へ、己の直剣を突き入れる。


だが。


「甘ェんだよ、雌犬がァ!!」


雷覇は獣のような反射神経で首を捻り、私の必殺の刺突を、己の肩当ての装甲でギリギリ防いでみせた。


火花が散る。


そして、そのまま私の腹部を力任せに蹴り飛ばそうと強靭な脚を振り上げた。かつての「将軍の娘」であった私なら、ここで一度距離を取り、体勢を立て直していただろう。

だが、この四年間、シャフルードの裏社会で血と泥を啜ってきた私は、もはや「綺麗な剣士」ではない。


「……ッ!」


私は距離を取るどころか、蹴りが届くよりも速く雷覇の顔面めがけて、足元の焦げた絨毯の灰と砂埃を力任せに蹴り上げた。


「ぐぉっ!?」


目潰し。大将軍の娘であれば絶対に選ばない、下劣で泥臭い裏社会の戦法。


雷覇の視界が一瞬だけ塞がれた隙に、私は左手に逆手で隠し持っていたパリング・ダガーを引き抜き、彼の大剣を持つ右腕の関節の隙間へと、躊躇なく深々と突き立てた。


「が、あァァッ!! この、狂犬が……ッ!!」


雷覇が激痛に咆哮し、力任せに私を弾き飛ばそうとする。

百戦錬磨の彼の膂力と闘争本能は、目が見えず腕を刺されてなお、私の頭蓋を叩き割るための圧倒的な殺気を放っていた。


私と雷覇の力が拮抗し、膠着しかけた、そのコンマ一秒の刹那。


「十年前の黒鉄関。……平和を愛した僕の父上が、援軍を『意図的に』遅らせるはずがないだろう」


燃え盛る炎の中で、玲玉の氷のように冷たく、透き通った声が響いた。


「な、に……?」雷覇の動きが、ほんの一瞬、だが決定的に強張った。

「惨劇を起こし、『鉄と血』の正当性を証明したかったのは誰だ? 孤児となったお前を拾い、最も利益を得たのは、一体誰だったのかな 」


それは、雷覇の魂の根幹である「親の仇、王都への憎悪」と「煌雷への忠誠」を根底から揺さぶる、悪魔のような心理攻撃だった。


「でたらめを、言うなァァッ!!」雷覇が激高し、玲玉に向かって怒号を上げたその瞬間。


玲玉はただ背後で守られていたわけではなかった。

この四年間、睡眠時間を削り血を吐くような鍛錬で鍛え上げた動体視力で雷覇の死角を完璧に読み切り 、彼の腕から放たれた『何か』が、炎の明かりを反射して一直線に飛来した。


――娼館の罠として仕込んでいた、猛毒を塗った暗器。


「ッ!?」それが雷覇の無防備な左太腿に深々と突き刺さる。

毒の痺れと激痛で、百戦錬磨の狼の体勢が、ついに完全に崩れた。玲玉が作り出した、雷覇の心と身体の両方を破壊する、完璧な『隙』。


「殿下に、刃を向けるなッ!!」

私はそのコンマ一秒を逃さなかった。

雷覇の懐へともう一歩深く沈み込み、下から上へと、渾身の力を込めた直剣を突き入れる。


「ガ、ァ……ッ!?」


私の刃は寸分の狂いもなく彼の頸動脈を貫き、首の後ろまで深々と突き抜けていた。圧倒的な暴力を誇った若き狼は、防御という本能を捨て去り「泥臭い狂犬」と化した私の刃と、冷徹に盤面を支配する玲玉の知略の前に、ついに戦慄と理解が追いつかないまま、ごぼりと血の泡を吐き出し、ドサリと崩れ落ちた 。


燃え盛る大広間。火の粉が舞う中。

私は左腕からおびただしい血を滴らせながら、息も絶え絶えに剣を引き抜いた。

背後で、玲玉が私の名を悲痛に呼んで駆け寄ってくる足音が聞こえる。


「凛華……っ!!」


玲玉が私の身体を抱き留める。彼の震える手が、私の血まみれの左肩を必死に押さえた。

激痛で視界が霞む中、私の心にはかつてないほどの静かな達成感と、熱い歓喜が満ちていた。


「……殿下。私はもう、重い盾ではありません」


私は、彼の紫水晶の瞳を見つめ返し、血に濡れた唇で微かに微笑んだ。


「貴方の覇道を阻む者は、私がすべて、この剣で斬り伏せます」


私はついに、父の呪縛である『盾』を打ち砕いた。

彼に守られるだけの存在ではなく、彼と共に血の海を渡る対等の剣として、本当の覚醒を果たしたのだ。炎上する娼館の熱気の中、私たちは血に塗れながらも、天青の玉座へ続く最後の扉を、ついに物理的にこじ開けたのであった。

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