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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
青年期

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17/24

5

燃え盛る大広間に、太い梁が焼け落ちる轟音が響き渡った。

火の粉が赤い雪のように舞い散り、かつて高級娼館を満たしていた甘い乳香フランキンセンスの香りは、今や焦げた絹と、雷覇の首から噴き出した濃密な血の悪臭に完全に塗り潰されている。


「ガ、ァ……ッ」

気管を断ち切られた若き狼が、信じられないものを見るように見開かれた瞳のまま、ごぼりと血の泡を吐き出して絨毯の上に崩れ落ちた。圧倒的な暴力を誇った巨体が痙攣し、やがて完全に動かなくなる。


私は、雷覇の頸動脈から自らの直剣を力任せに引き抜いた。

その瞬間、極限の緊張とアドレナリンで麻痺していた『肉体』が、唐突に現実の悲鳴を上げ始めた。


「……ッ、ぁ……」

雷覇の大剣に深く抉られた左肩から、ドクン、ドクンと心臓の拍動に合わせて凄まじい量の鮮血が噴き出している。骨にまで達した一撃は、左腕の感覚を根元から完全に奪い去っていた。視界が白く明滅し、平衡感覚が狂う。

床の焦げた絨毯へと前のめりに倒れ込みそうになった私の身体を、背後から力強い両腕がガシリと抱き留めた。


「凛華……っ!!」

耳元で、玲玉の悲痛な叫びが響く。

彼の大きな手が、私の血まみれの左肩を布越しに強く圧迫し、強引に止血を試みている。かつては指で触れれば折れそうだった細い腕が、今は血と汗に塗れた私の全体重を、ビクともせずに支えきっていた。


「……殿下。私はもう、重い盾ではありません」

激痛で視界が霞む中、私は彼の紫水晶の瞳を見つめ返し、血に濡れた唇で微かに微笑んだ。

「貴方の覇道を阻む者は、私がすべて、この剣で斬り伏せます」


それは、父の遺訓である『盾』という呪縛を打ち砕き、彼と共に地獄を歩む『共犯者の剣』として私が放った、完全なる覚醒の誓いだった。


玲玉は、私の顔にこびりついた血糊を震える指先で拭い、ギリッと奥歯を噛み締めた。

「……ああ。君は世界で一番恐ろしくて、愛おしい僕の剣だ。……でも、今は喋るな! 血が抜ける!」


「影王様!! 早くこちらへ!!」

猛烈な煙の向こうから、口元を布で覆ったザウルが姿を現した。彼の鉄の義手が、大広間の奥にある隠し扉のレバーを引き下ろしている。

「雷覇の部下どもは罠で八割方くたばりましたが、表の通りに天青の別働隊が到着しやがった! この火勢じゃ建物ももちません。地下の隠し水路へ!!」


「ザウル、退路を確保しろ! 凛華、しっかり捕まっていてくれ」

玲玉は私の腰に右腕を回し、私の右腕を自らの首に掛けさせると、迷うことなく燃え盛る大広間を背にして隠し扉へと飛び込んだ。


重厚な石の扉が閉まった瞬間、背後の爆炎の熱気が嘘のように遮断され、ひんやりとした地下特有のカビと泥の匂いが肺を満たした。

闇の中、ザウルが掲げる松明の薄暗い炎だけを頼りに、私たちは長く入り組んだ地下水路を無言で進んだ。左肩の激痛が、歩を進めるたびに脳髄を白く焼き焦がそうとする。私は意識を保つためだけに、玲玉の首に回した右手に死に物狂いでしがみついていた。

玲玉の息遣いが耳元で聞こえる。彼は私の歩幅に合わせ、決して私を急かそうとはしなかったが、その横顔は夜の砂漠のように冷徹に引き締まっていた。


「……ザウル」

歩きながら、玲玉が氷の底のような声で口を開いた。

「五日後に予定していた進軍を、前倒しにする。……今夜、全軍を動かせ」


「なっ……今夜、ですか!?」

先導していたザウルが、驚愕に足を止めて振り返った。松明の炎が、彼の残された片目を赤く照らす。

「影王様、いくらなんでも急すぎます! 旧街道の警備隊や裏の傭兵たちを叩き起こして国境へ向かわせるにしても、物資の積み込みや隊列の整理が……」


「煌雷は、この国に雷覇という最高の『猟犬』を放った」

玲玉は足を止めず、真っ暗な地下水路の先を睨み据えたまま告げた。

「その猟犬が、今夜、僕たちの娼館で喉笛を噛み千切られて死んだ。……煌雷は疑り深い男だ。放った猟犬が丸一日帰還せず、連絡も絶えれば、彼は『雷覇が死んだ』、あるいは『異常事態が起きた』と即座に悟り、国境の守備をさらに強固なものへと変更するはずだ」


玲玉の紫水晶の瞳が、松明の光を受けて妖しく、そして残酷なまでに冴え渡った光を放つ。

「情報の空白タイムラグが生じるのは、今夜から明日の夜明けまでのほんの十数時間だけだ。曹達に仕込ませた『密輸業者を捕らえた偽の報告』で煌雷の目が曇っている、まさに今この瞬間。……盤面がひっくり返ったのなら、煌雷がそれを自覚する前に、盤面ごとあの男の喉元に突き立てるんだ」


一滴の血も流さないはずだった完璧な知略の盤面。そこに雷覇というイレギュラーな暴力が叩き込まれた。だが、玲玉はその予測外の事態すらも、瞬時に新たな『最速の死線』として組み直してしまったのだ。


「……ッ、ハハハハッ!!」

ザウルが、ひび割れたような声で狂ったように嗤い始めた。

「五日後の進軍を、数時間後に変更するたァ……正規軍の将軍が聞いたら泡吹いて気絶するような無茶苦茶な采配だ! だが、俺たち裏社会のならず者なら、夜逃げの準備なんざ一時間もありゃあ十分だ!!」

ザウルは鉄の義手をガチャンと壁に打ち据え、獰猛な笑みを浮かべた。

「承知しましたぜ、我が王。すぐにシャフルード中のクズ共を叩き起こして、国境に向けて進発させますよ!」


* * *


地下水路を抜け、シャフルードの外れにある隠れ家に辿り着いた頃には、私の意識はとうに限界を迎えていた。

冷たい石造りの部屋。硬い寝台の上に下ろされた瞬間、玲玉は凄まじい手際で私の胡服の襟元を短剣で引き裂き、傷口を完全に露出させた。


「……っ、ぁ……!」

空気に触れた傷口が焼け付くように痛み、私は反射的に身をよじった。

「動かないで、凛華。すぐに血を止める」


玲玉は、強い蒸留酒を容赦なく傷口に浴びせた。アルコールが切断された筋肉と神経を直接焼き、声にならない絶叫が私の喉を突き破ろうとする。玲玉は自らの分厚い革のベルトを私の口に噛ませ、「堪えてくれ」と苦しげに顔を歪めながら、持っていた真新しい麻布で私の肩を限界まで固く、強く縛り上げた。


「……んッ、ぐぅ……ッ!!」

布がきつく締め上げられるたびに、肩の骨が軋み、激痛で目の前が真っ暗になる。

だが、その痛みと同じくらい、私に触れる玲玉の手が火傷しそうなほどに熱かった。


「……馬鹿な女だ。僕を庇うなと言ったのに、防御を捨てて自分から肉を斬らせにいくなんて」

止血を終え、血まみれになった自らの手を無造作に布で拭いながら、玲玉が吐き捨てるように言った。その声は怒っているように聞こえたが、彼の瞳には、私がまたしても傷ついたことへの深い悲痛と、それを止めることができなかった己への苛立ちが渦巻いていた。


口からベルトを外し、荒い息を吐きながら、私は額に張り付いた前髪越しに彼を見た。

「私は……盾であることを、やめたのです。殿下」


「……」

「殿下が、自らの手を泥に沈めてでも修羅の道を往くというのなら……私が安全な場所で、ただ殿下を守るための『綺麗な盾』でいるわけにはいきません。……私は、貴方と共に血を浴び、貴方の敵を切り裂く『剣』になります」


玲玉の紫水晶の瞳が、大きく見開かれた。

今まで「大将軍の娘としての義務」という強固な鎧を着込み、彼を遠ざけてきた私が、初めて自らの意志で、彼と同じ地獄の底へと足を踏み入れたのだと。その真意を、彼は正確に理解したのだろう。


玲玉は、ゆっくりと私の傍らに膝をつき、血の気が引いて冷たくなった私の右手を、自らの熱い両手で包み込んだ。

「……そうか。君はついに、将軍の呪いを捨ててくれたんだね」

彼の親指が、私の指先を愛おしむようになぞる。


「君が僕の『共犯者』になるというのなら、僕はもう、君を安全な鳥籠に閉じ込めるような真似はしない。……一緒に来てくれ、凛華。僕の隣で、僕が煌雷の首を落とすその瞬間まで」


「はい……どこまでも。私の、ただ一人の王よ」

私は激痛に霞む視界の中で、かつてないほどの穏やかさと熱情を持って微笑んだ。

もはや、彼を守るだけの護衛ではない。私たちは、互いの最も深くどろどろとした闇を共有し、共に大国を飲み込もうとする、真の共犯者となったのだ。


* * *


それからわずか数時間後。

夜の砂漠に、地鳴りのような重い足音が響き渡っていた。


松明の明かりすら持たない、漆黒の集団。

かつて旧街道を荒らしていた山賊たち、シャフルードの裏社会で暗殺や強盗を生業としていたならず者たち、そして莫大な金で雇われた異国の傭兵部隊。

彼らは、天青皇国の美しく整った近衛兵とは対極にある存在だった。揃いの甲冑など一つもない。ある者は革鎧を纏い、ある者は顔に刺青を入れ、錆びた曲刀や棘のついた棍棒を手にしている。歩調すら合っていない。

だが、その異形の集団には、恐怖と金、そして『影王』という絶対的なカリスマによって統率された、軍隊以上の不気味な静けさと殺気が満ちていた。


その先頭。

漆黒の軍馬に跨がる玲玉は、夜の砂漠に溶け込むような黒衣を纏い、ただ静かに前方の稜線を睨み据えていた。

私は左肩を布で胴体に固定し、右腕一本で手綱を握りながら、彼の斜め後ろを影のように付き従っている。熱はあり、傷口は脈打つように痛むが、馬に乗れないほどではない。


「……見えてきやしたぜ。青鹿の谷だ」

隣を並走するザウルが、片目を細めて前方のアゴをしゃくった。


夜明け前。最も暗く、冷たい時間帯。

岩山と岩山の間に切り立つようにして築かれた、巨大な防壁。天青皇国が誇る、難攻不落の国境関所『青鹿の谷』。

その分厚い鋼鉄の門と、高くそびえる石壁の上には、煌雷が配置した正規軍の兵士たちが無数に立ち並び、篝火が赤々と燃えているのが見える。

まともに攻め入れば、私たちの「影王軍」など、上からの矢の雨と落石で一時間と持たずに壊滅するだろう。


「……止まれ」

玲玉が右手を静かに挙げると、数千のならず者たちが、音もなくピタリと足を止めた。

関所まで、距離にして数百メートル。谷底の冷たい風が、私たちの衣をバタバタと叩く。


関所の城壁の上。

見張りの兵士の一人が、谷底の暗闇に蠢く「巨大な黒い塊」に気づき、慌てて銅鑼を鳴らした。


『敵襲ゥゥッ!! 谷底に所属不明の軍勢!!』

関所の上で、兵士たちが慌ただしく動き回り、無数の松明が掲げられる。弓兵たちが壁に並び、矢尻に火が点けられた。圧倒的な防衛の要塞が、その凶悪な牙を私たちに向けて剥き出しにする。


だが、玲玉は微動だにせず、ただ馬上からその強固な防壁を見上げていた。


(……動け、曹達)


私は痛む左肩をかばいながら、右手で直剣の柄を握り締めた。

関所の最高責任者である副官・曹達。彼は娼館で玲玉に致命的な弱みを握られ、関所開門の血判状に署名している。

だが、彼は極度の臆病者だ。煌雷の恐怖と、玲玉の恐怖。その狭間で、彼が本当にこの瞬間に「門を開ける」という決断を下せるのか。雷覇が彼を監視するために派遣されていた以上、彼がすでに雷覇に斬り捨てられている可能性もゼロではない。


張り詰めた沈黙。

城壁の上の弓兵たちが、一斉に弦を引き絞るギリギリという音が、谷底にまで響いてくる。


『放てェッ!!』

指揮官の号令が夜空に響き渡った。


――その、瞬間だった。


『待てェェェッ!! 弓を引くな!! 門を開けろォォッ!!』

城壁の上、指揮官の号令を掻き消すような、裏返ったヒステリックな絶叫が響き渡った。


関所の門楼に姿を現したのは、顔面を蒼白に引き攣らせ、軍服を乱した曹達だった。

彼の背後には、曹達が密かに買収していた関所の裏切り者(私兵)たちが立ち、弓を放とうとしていた正規の兵士たちに剣を突きつけている。


『そ、曹達副官!? 何をなさるのです、彼らは敵……ッ』

『黙れ! 俺は煌雷の恐怖政治にはもう従わん! 今からこの関所は、あの御方に明け渡す!!』

曹達は半狂乱で叫びながら、自らの剣を抜き放ち、戸惑う正規軍の部下を容赦なく斬り捨てた。


『開けろ! 早く開け門の滑車を回せェッ!!』


内部からの予期せぬ反乱。

曹達に買収された兵士たちが、正規軍の兵士たちと城壁の上で同士討ちを始める。悲鳴と怒号、そして金属がぶつかり合う音が谷間に木霊した。

難攻不落を誇った要塞が、外からの攻撃を一切受けることなく、その内側から脆くも崩壊していく。


ゴゴゴゴゴゴォォォォッ……!!


やがて、谷底を揺るがすような重い地鳴りと共に。

絶対に開くことのなかった青鹿の谷の巨大な鋼鉄の門が、内側からゆっくりと、その重苦しい口を開き始めた。


「……開いたぜ、影王様」

ザウルが、信じられないものを見るような目で、ポツリと呟いた。

暴力ではなく、人間の欲望と恐怖を完璧に計算し尽くした『知略』が、数万の軍勢にも落とせない城門を、一滴の血も流さずにこじ開けたのだ。


玲玉は、ゆっくりと開いていく巨大な門の隙間から漏れ出る、天青皇国の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

四年ぶりの、祖国の空気。

その冷たい紫水晶の瞳には、歓喜も、安堵もなかった。ただ、これから始まる果てしない血の粛清に向けた、覇王としての絶対的な覚悟だけが静かに燃えている。


「……進め」

玲玉が低く、しかし数千の軍勢の鼓膜に確実に届く声で命じた。


『おおおおぉぉぉぉッ!!』

シャフルードの闇から這い出した異形の軍勢が、地鳴りのような歓声を上げ、開かれた門の中へと雪崩れ込んでいく。


私もまた、馬の腹を蹴り、玲玉の隣を進んだ。

門をくぐる瞬間、私は城壁の上で血まみれになりながら平伏している曹達を一瞥した。彼は生き延びるために煌雷を裏切り、玲玉に魂を売った。だが、その選択が彼に安息をもたらすことは永遠にないだろう。


「……王都へ向かう。煌雷の喉元まで、一気に駆け上がるぞ」

玲玉は、朝焼けに白み始めた天青の空を見上げ、冷酷に言い放った。


第一の関門、青鹿の谷の無血開城。

それは、すべてを失ったひ弱な皇子が、恐るべき覇王となって祖国へ帰還したことを告げる、圧倒的で、あまりにも静かな開戦の狼煙であった。




青鹿せいろくの谷の鋼鉄の門をくぐり抜けた瞬間、私の肌を撫でた風は、シャフルードの乾いた熱風ではなく、水分をたっぷりと含んだ重く冷たい祖国の風だった。

苔むした岩肌の匂いと、針葉樹のむせ返るような青臭さが、肺の奥底にまで入り込んでくる。


(ああ……戻ってきたのだ)


馬の背に揺られながら、私は左肩の分厚い包帯越しに、ズキズキと脈打つ痛みを確かめていた。雷覇の残したこの激痛だけが、今私たちが踏みしめている現実の輪郭を縁取ってくれている。

五年前、炎上する皇宮から逃げ出し、獣のように泥水を這いずり回りながら越えたこの国境の山道。飢えと寒さに震え、絶望のあまりに声も出せずにいたあの夜の記憶が、霧の向こうから鮮明に蘇る。


だが今、私の斜め前を馬で進む玲玉の背中には、かつてのあの脆く、触れれば壊れてしまいそうだった少年の面影は微塵もない。

漆黒の衣を風に翻し、数千の異形の軍勢を率いて進むその姿は、紛れもなく、この世界を物理的にねじ伏せようとする覇王のそれだった。


国境の関所を無血で突破してからの私たちの進軍は、拍子抜けするほどに静かで、そして凄まじいものだった。

旧街道沿いに点在する天青皇国の国境警備隊や砦の関所は、私たちの軍勢を見るや否や、剣を抜くことすらなく次々と城門を開け放っていったのだ。

それも当然だろう。彼らの砦には、すでに一月近くも王都からの軍需物資や給金が届いておらず、兵士たちは飢えと寒さに震えていた。そこへ、かつての仲間である曹達の部隊を先頭に立て、莫大な食料と物資を荷馬車に積んだ「影王軍」が現れたのだ。


『剣を捨てて道を開ければ、温かい麦粥と銀貨を与える。逆らえば、その痩せ細った身体ごと砂漠のならず者たちの餌食になるだけだ』


玲玉の使者がそう宣告するだけで、過酷な「鉄と血」の統治に鬱血していた末端の兵士たちの心は、いとも容易く裏返っていった。

圧倒的な暴力(恐怖)で縛り付けられていた忠誠は、恐怖の根源であった「経済的な保障」が絶たれた瞬間、音を立てて崩壊する。盤上の黒い石が、端からパタパタと白い石へとひっくり返っていくような、凄絶なまでの寝返りの連鎖。

玲玉は、一滴の血も流すことなく、ただ彼らの「飢え」と「生への渇望」を満たしてやることで、天青皇国の南半分をあっという間に掌握してしまった。


「……殿下。このままいけば、あと三日で帝都の南門に到達します」

並走する私が報告すると、玲玉は手綱を握ったまま、視線を真っ直ぐに北の空へと向けた。


「煌雷の耳にも、すでに僕たちの進軍の情報は届いている頃だろう。……だが、あの男は今、僕たちに差し向けるための軍を動かすことすらできないはずだ」

玲玉の紫水晶の瞳が、冷酷な光を宿して細められる。

「僕がこの四年間で仕掛けておいた『毒』が、今まさに、帝都の心臓部を完全に麻痺させているはずだからね」


彼の視線の先。

厚い雨雲に覆われた天青皇国の中心――帝都では、玲玉の張り巡らせた知略の糸が、限界まで張り詰め、ついに弾けようとしていた。


* * *


天青皇国、帝都。

大蔵省の薄暗い執務室には、質の悪い墨の饐えた臭いと、古紙の埃っぽい匂いが充満していた。

財務卿を務める海連カイレンは、分厚い朝服の襟元から滝のように流れる脂汗を拭うことも忘れ、机の上に広げられた何十冊もの帳簿を凝視していた。


「……ない。どこにも、ない……ッ!」


海連の小太りの身体が、ガタガタと激しく震えている。

彼は両手で自らの頭を抱え込み、狂ったように帳簿のページをめくり続けたが、そこに記されている数字はどれも絶望的なものばかりだった。


南からの税収がゼロになって十日が経過した。ダミーとして流されてきた木材すらも完全に途絶え、国庫の備蓄はついに底をついた。

それだけではない。王都の市場からは米や塩が完全に姿を消し、物価は昨日の十倍に跳ね上がっている。民衆の不満は爆発寸前であり、何より恐ろしいのは、煌雷の暴力の絶対的な基盤である『近衛軍』の兵糧すら、あと三日分しか残されていないという事実だった。


(煌雷様は『西から麦を搾り取れ』と仰ったが、西の商人たちはすでに他国の商人シャフルードのシンジケートに借金で首根っこを押さえられ、麦をすべて焼き払って逃亡したというではないか……ッ!)


武力だけで経済は回らない。見えない巨大な手が、帝都の首を真綿で絞め上げ、完全に息の根を止めようとしている。


「……海連様。書簡が、届いております」

不意に、青ざめた顔の部下が、周囲を気にしながら木箱を差し出してきた。

「どこからだ。今は陳情など聞いている暇は……」


海連が苛立たしげに木箱の蓋を開けた瞬間、彼の呼吸がピタリと止まった。

中に入っていたのは、シャフルードの最高級の白檀の香りが焚き染められた一通の書状と――青鹿の谷の関所を束ねる副官、曹達の『血判状の写し』だった。


書状には、流麗だが冷酷な筆致で、ただ一言だけ記されていた。


『――明日、南門を開け。さすれば、貴族としての命と財産を保証しよう。影王(玲玉)より』


「あ……ああ……ッ」

海連の手から書状が滑り落ち、床に落ちた。

死んだはずの皇太子が、生きている。そればかりか、この国を干上がらせている悪夢のような経済封鎖の首謀者であり、すでに難攻不落の関所を突破して帝都へ迫っているというのか。


今、この空っぽの国庫の報告を煌雷に持っていけば、無能の謗りを受けてその場で首を刎ねられるのは確実だ。あの簒奪者は、自らの失政を臣下の血で贖う男なのだから。


海連は、震える手で床の書状を拾い上げた。

絶対的な死の恐怖(煌雷)と、唯一の生存の道(玲玉の取引)。

裏社会の商人に突きつけられたのと同じ天秤に乗せられた海連の脳内で、官僚としての生存本能が凄まじい速度で計算を弾き出した。


「……おい。近衛軍に配る予定だった最後の備蓄米の蔵の鍵を、すべて私のもとへ持ってこい。一つ残らずだ」

「は、海連様? それは明日の朝、煌雷様が直々に……」

「黙れ!! 煌雷の時代は、今日で終わるのだ!!」


海連の血走った眼光に、部下は悲鳴を上げて部屋を飛び出していった。

オセロの石が、また一つ。帝都の中枢で、大きな音を立てて白く裏返った瞬間だった。


* * *


同じ頃。

帝都の東に位置する、近衛兵の詰め所。

冷たい石造りの部屋には、研ぎ澄まされた鉄の匂いと、質の悪い獣脂の油の匂いが立ち込めていた。


「……そうか。物流の停止により、ついに内廷の備蓄すら尽きかけたか」


薄暗いランプの光の下、老将軍は、使い込まれた己の長戟ちょうげきの刃を布で拭いながら、静かに呟いた。

彼の周囲には、煌雷の恐怖政治によって冷遇され、粛清の恐怖に震えながらも誇りを捨てきれなかった数十人の旧体制派の武官たちが、息を潜めて集まっていた。彼らの顔は皆、度重なる減給と粗食によって痩せこけている。


「将軍! 門番の報告によれば、南の街道から、数千規模の軍勢が土煙を上げてこちらへ向かっているとのこと! 掲げられている旗印は……亡き皇帝陛下の、青き竜の紋章です!!」

駆け込んできた若い兵士が、息を弾ませながら報告する。


その言葉に、詰め所に集まっていた武官たちの間に、どよめきと、熱を帯びた動揺が走った。


「生きて……生きておられたのだ。あの夜、炎に包まれた皇宮から逃げ延びた玲玉殿下が……我々の真の主君が、この帝都へお戻りになるのだ……!」

古参の武将が、感極まって床に涙を落とす。


魏老将軍は長戟から布を離し、ゆっくりと立ち上がった。

右目にある深い刀傷の痕が、ランプの光を受けて凄みを増す。


「四年間……長かったな。我らは煌雷の狂気に付き合い、罪なき民から血を搾り取る猟犬に成り下がっていた。だが、あの方(玲玉)がこの血塗られた盤面を、外側から完全に叩き割ってくださったのだ」

魏老将軍は、部屋に集まった将兵たちを、一人ひとり真っ直ぐに見据えた。


「腹が減っているだろう。だが、煌雷の恐怖政治は、今この瞬間、その基盤たる『食い物』と『金』を失い、完全に崩壊した! 恐れることは何もない!」

老将軍の怒号が、冷え切っていた詰め所の空気を一瞬にして沸騰させる。


「我らはこれより、帝都の南門を制圧し、内側から城門を開け放つ!

真の王を迎え入れよ! この四年間、我らを縛り付けていた鉄の鎖を、我ら自身の手で断ち切るのだ!!」


『おおおおぉぉぉぉッ!!』

飢えと疲労に苦しんでいた兵士たちの目から、恐怖の色が完全に消え去った。

彼らは自らの右腕に、決起の合図である『白い布』を強く巻き付け、抜刀しながら詰め所を次々と飛び出していく。


彼らの動きは、瞬く間に帝都全土へと波及していった。

「玲玉殿下が帰還された!」「大蔵省の海連様も寝返ったぞ!」「門を開けろ!!」

怒号と剣戟の音が、静まり返っていた帝都の夜を引き裂く。

煌雷に忠誠を誓っていたはずの軍の指揮系統は、食料の配給を止められた末端の兵士たちの反乱と、海連のような高官たちの裏切りによって完全に機能不全に陥った。

圧倒的な軍事力を誇っていたはずの天青皇国の中心で、誰も予想しえなかった規模の巨大な『内部崩壊』が、ドミノ倒しのように凄まじい速度で進んでいく。


* * *


「……申し上げます! 南門の守備隊が反乱を起こし、門が突破されました!

暴徒と化した近衛兵の一部が、皇宮の外壁に迫っております!!」


帝都の中心、煌雷の座る玉座の間。

伝令の悲痛な絶叫が、重厚な黒曜石の部屋に空しく響き渡った。


「軍務卿のバロンはどこにいる! 鎮圧部隊を向けろ!!」

「バロン様は、昨夜から行方不明にございます! 財務卿の海連様も、国庫の鍵を持ったまま姿を消し……軍への配給が停止したため、兵たちの半数以上が命令に従わず、武器を捨てて逃亡、あるいは反乱軍に合流しております!!」


玉座の下で平伏していた数少ない廷臣たちが、絶望に顔を覆い、ガタガタと震え始めた。


「……」

玉座に深く腰を沈める煌雷は、その報告を聞いても、微動だにしなかった。

彼の分厚い手は、玉座の肘掛けをギリッと音を立てて握りしめられている。


たった数日。

彼が長年かけて築き上げた「鉄と血の要塞」は、外からの攻撃を一度も受けることなく、ただ『経済の血流』を止められただけで、いとも容易く内側から腐り落ち、崩壊したのだ。


武力では、飢えは満たせない。

恐怖では、絶望を止めることはできない。

兄(前皇帝)を殺し、力こそがすべてだと信じていた彼の覇道が、自らが最も見下していた「盤面の知略」によって、根底から否定された瞬間だった。


「……小賢しい真似を」


煌雷が、地鳴りのような声で低く呻いた。

彼の猛禽類のような瞳が、開け放たれた玉座の間の巨大な扉の向こう――赤々と燃え上がる帝都の空を睨み据える。


外では、魏老将軍に率いられた反乱軍と、彼を慕って門をくぐり抜けてきた「影王軍」の歓声が、怒涛の波となって皇宮へと迫りつつあった。


「雷覇の犬死にも、この内乱も……すべては、あの温室の小鳥が描いた盤面の上だというのか」

煌雷は、ゆっくりと玉座から立ち上がり、傍らに立てかけられていた己の大剣を引き抜いた。


恐怖の象徴であった覇王は今、かつてないほどの巨大な玉座の間で、たった一人、完全に孤立していた。

だが、その瞳に絶望や諦めの色はない。あるのは、すべてをねじ伏せようとする、純粋で暴力的な戦意だけだ。


「ならば、この手で直接その首をねじ切ってやるまで。……来い、玲玉! 貴様のその血塗られた知略ごと、俺の剣で叩き割ってくれる!!」


業火に照らされた玉座の間。

孤独な覇王の咆哮が、迫り来る決戦の足音を迎え撃つように、虚空へと響き渡っていた。

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