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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
少年期

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8/24

6.5

同時刻。天青皇国、帝都。

つい数日前まで、芳醇な花の香りと優雅な管弦の調べに満ちていた白亜の皇宮は、今や濃密な血の匂いと、鉄の擦れ合う冷たい音に支配されていた。


豪奢な玉座の間。

床に敷き詰められた緋色の絨毯は、前皇帝に連なる貴族たちの血を吸って、どす黒く変色している。その最奥、主を失った玉座に、分厚い漆黒の甲冑に身を包んだ男が、重い音を立てて腰を下ろした。


簒奪者、煌雷こうらい

彼の足元には、かつての重臣たちが震える膝を床にすりつけながら深く平伏していた。誰一人として、顔を上げることすらできない。


「……逃げた皇太子と、柳将軍の娘の行方は」


煌雷の低く、地鳴りのような声が玉座の間に響いた。

「は、ははっ! 現在、国境の雪山に向けて『鉄鴉隊』の追手を放っております! しかし、あの吹雪では、ひ弱な皇太子殿下など、とうに凍死しておられるかと……」


報告を上げた文官の言葉に、煌雷は鼻で短く嗤った。

そして、足元に転がっていた豪奢な花瓶——かつて、兄である前皇帝が愛でていた、甘い香りを放つ白百合——を、鋼鉄の軍靴で容赦なく踏み砕いた。


「『ひ弱』か。……そうだ。あの親子は、あまりにもひ弱すぎたのだ」


煌雷は、砕け散った花弁を冷ややかに見下ろした。

その猛禽類のような瞳の奥に、鼻腔にこびりついて離れない、十年前の『鉄錆と臓物』の焦げ臭い記憶が蘇る。


——十年前。北方の国境、黒鉄関こくてつかん


「閣下……! 右翼の陣が破られました! 敵の騎馬隊、数は約三千! このままでは関所が保ちません!」


凍てつく吹雪の中、煌雷の天幕に飛び込んできたのは、顔を煤と血で汚した若き副官、李淵リエンだった。

まだ十九歳。帝都に歳の離れた妹と婚約者を残し、煌雷の「武」に憧れて辺境警備に志願してきた、瞳に澄んだ忠義を宿す青年だった。彼は暇さえあれば自らの直剣を磨き、「刃が美しく光っていれば、敵は恐れをなして戦わずに退くはずです。それが、皇帝陛下の仰る『平和』の姿でしょう」と、屈託なく笑う男だった。


「慌てるな、李淵。帝都からの援軍はまだか」

「伝令の鳥は三日前に放ちました! しかし、本国からの音沙汰は一切……」


煌雷は奥歯を強く噛み締めた。

北方の大国・蛮族連合の侵攻。その数、五万。対する煌雷の辺境守備隊は、わずか五千。

すでに一ヶ月もの間、彼らは泥と雪に塗れながら防衛線を死守してきた。糧食は底を突き、兵たちは凍傷で黒く変色した指で槍を握っている。


「……陣を立て直す。余が出る」


煌雷が天幕を出ると、そこは地獄だった。

雪は兵士たちの血で赤黒く染まり、至る所に胴体を両断された死体や、内臓を引きずりながら這いずる者の呻き声が響いていた。鼻を突くのは、焼けた肉と排泄物の臭い。これが、帝都の貴族たちが顔を背ける『現実』だった。


煌雷は大剣を抜き放ち、自ら最前線へと駆け出した。

その背中を、李淵たちわずかな親衛隊が必死に追う。


「退くな!! ここを抜かれれば、帝都の民が蹂躙されるぞ!!」


煌雷の怒号が凍てつく空気を震わせる。彼は鬼神の如き膂力で敵の騎馬を薙ぎ払い、兵たちを鼓舞し続けた。

だが、数の暴力は残酷だった。


「閣下、危ないッ!!」


乱戦の最中。

煌雷の死角から突進してきた敵の長槍兵の群れ。それに気づいた李淵が、自らの盾を放り捨て、煌雷の前に身を投げ出した。


ズチュッ、という鈍く湿った音。

「……ぁ、がっ……」


三本の長槍が、李淵の薄い胸当てを貫き、背中まで深々と突き抜けていた。

「李淵!!」


煌雷は敵兵の首を刎ね飛ばし、崩れ落ちる若き副官の身体を抱き留めた。

雪の上に、李淵の口から溢れ出した夥しい量の熱い血がぶちまけられる。貫かれた腹部からは、湯気を立てる臓物がこぼれ落ちそうになっていた。


「しっかりしろ! 傷口を押さえろ!」

「か、閣下……」


李淵の指先が、微かに震えながら煌雷の血濡れた甲冑を掴んだ。

その瞳の光が、急速に失われていく。

彼は自分の死を嘆くことも、痛みに悲鳴を上げることもなかった。ただ、凍りつくような手で煌雷の腕を握りしめ、掠れた声で囁いたのだ。


「……申し訳、ありませ……ん。私の剣では、誰も……退かせ、られ、なかった……」

「喋るな!」

「帝都は……美しい、都は……ご無事、で……しょう、か……」


李淵は、遠く南の空——彼が守りたかった家族と、美しい『平和』があるはずの場所を幻視するように目を細め、そのまま、ふっと息を引き取った。

煌雷の腕の中で、若き命の熱が、急速に冷たい泥の中へと吸い込まれていく。


「……あ、あああああっ!!!」


煌雷の慟哭が、吹雪の中に木霊した。

彼は李淵のむくろを抱きしめたまま、自身の無力と、一向に届かない帝都の援軍への憎悪で、肺が引き裂かれるほどに叫び続けた。


それから十日後。

敵軍が寒さと兵糧攻めで撤退し、国境防衛線が辛うじて保たれた後。

遅れに遅れて到着した伝令が、煌雷の天幕へ一通の絹の書状を届けた。


『——朕の親愛なる弟、煌雷へ。

蛮族との衝突において、多大なる忍耐を示してくれたことに感謝する。朕は彼らの族長と書簡を交わし、多額の銀と引き換えに不可侵の条約を結ぶことで合意した。これ以上の戦闘は不要である。武力による挑発を避け、兵を退きなさい。対話こそが、真の平和をもたらすのだから』


書状からは、皇宮の奥深くで焚かれている、優雅な白檀びゃくだんの香りがした。


煌雷は、血と泥にまみれた手でその書状を握りしめ、肩を震わせた。

……対話? 平和?

足元に転がる、数千の部下たちの骸の前で、あの温室育ちの兄は、金で買った一時しのぎの休戦を「真の平和」と呼んだのだ。


煌雷の脳裏に、兄・白皇はくおうの顔が浮かんだ。

幼い頃から花や鳥を愛し、剣を握ることを嫌った心優しい兄。「暴力は何も生まない。人が人を想う心こそが国を豊かにする」と語る兄の瞳は、純粋で、美しかった。煌雷自身も、そんな兄の気高さを愛し、兄の代わりに自分が剣を握り、汚れ役を引き受けることで彼を守ってきたつもりだった。


だが、違ったのだ。

兄のその「優しさ」は、国を蝕む猛毒だった。


「……兄上。貴方は花を愛し、民を愛したが、国を守る『牙』を持とうとはしなかった」


煌雷は、握りしめた絹の書状を、天幕の篝火へと投げ捨てた。

シュボッ、と音を立てて燃え上がる白檀の香りの向こうで、李淵の冷たい顔がフラッシュバックする。


兄との「共和」の道は、この瞬間、完全に絶たれた。

どれほど煌雷が国境で血を流しても、兄が玉座にいる限り、この国は軍縮を続け、周辺諸国に金を払い、媚びを売るだけの『美しき餌』になり下がる。現に、あの蛮族どもが「条約」など守るはずがない。彼らは天青の弱腰を見透かし、得た銀でさらに強力な武器を買い整え、数年後には必ず帝都の喉元に牙を突き立ててくるだろう。


その時、兄の「対話」は、民を救えるのか。

いや、救えない。

刃を持たぬ国は、いずれ必ず喰い破られる。歴史がそれを証明している。


「……ならば、余が牙となる」


篝火の炎に照らされた煌雷の顔から、すべての感情が抜け落ちた。

残ったのは、祖国を永遠に守り抜くという、重く、どす黒い『呪い』だけだった。


「兄上。貴方を殺す罪は、余がすべて被ろう。……この天青を、二度と他国に蹂躙されぬ、分厚い鋼の要塞に変えてみせる。そのためならば、余は喜んで、数万の同胞を恐怖で縛る『悪鬼』となろう」


(現在)


「……軍務卿・バロン。宰相・ギル」

「ははっ!!」


玉座の間の冷たい床に頭をすりつける廷臣たちを見下ろし、煌雷は冷徹に命を下した。


「今日より、この天青は『鉄と血』を以て全土を統治する。西方の穀倉地帯から限界まで麦を徴発し、すべてを軍備に回せ。逆らう者は九族まで根絶やしにしろ」


廷臣たちが息を呑む音が聞こえたが、煌雷は意に介さない。

民が飢えようが、貴族が恐怖に震えようが、国が滅びるよりはマシだ。他国の軍馬に踏みにじられ、李淵のような若者が臓物をぶちまけて死ぬ光景を二度と繰り返さないためには、国そのものを血の通わない巨大な鉄の塊にするしかないのだ。


「……弱き者は、この国には不要だ」


煌雷は、軍靴の底で完全に潰れた百合の花から視線を外し、遠く北方の空——逃げ延びた『ひ弱な皇子』が消えた雪山の方向を睨み据えた。


憎しみではない。

ただ、自らの血を分けた甥が、あの優しすぎた兄と同じ道を辿り、いずれ他国の牙に食い殺される無惨な未来を断ち切るための、彼なりの悲壮な決意であった。


「逃げるがいい、玲玉よ。だが、いずれわかるはずだ。玉座とは、花を愛でるための椅子ではない。……無数の骸の上に座り、その血を啜ってでも国を生かす、呪われた祭壇なのだということが」


玉座の間の冷たい風が、これから始まる四年間の、長く残酷な暗黒時代の幕開けを告げていた。

簒奪者の孤独な正義は、誰にも理解されることなく、ただひたすらに、帝国を冷たい鉄の重みで押し潰していく。

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