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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
少年期

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7/24

6

陽光が天頂から降り注ぎ、村を囲む瑞々しい緑が、目に痛いほどに輝いていた。

一月前、泥を啜りながらこの谷間に辿り着いた時、世界はただ寒く、昏い絶望の色をしていた。だが今は違う。私の鼻腔をくすぐるのは、春の湿った土の匂いと、村の女たちが焚く昼餉の煙、そして、すぐ側で鍬を振るう玲玉殿下の、健康的な汗の匂いだった。


「……はぁ、はぁ。凛華、見てよ。阿星アセイに教わった通りにやったら、ほら、こんなに深く掘れたんだ」


玲玉が、泥だらけの手で額の汗を拭い、自慢げに笑う。

その手には、かつて美しかった白磁の輝きはない。無数の小さな切り傷と、落としきれない土の色が染み込んでいる。だが、その瞳には、皇宮の深い奥底で眠っていた時よりも、ずっと鮮やかで力強い「生」の光が宿っていた。


この一月、王都からの報せは何一つ届かなかった。

外界と繋がる唯一の細い峠道は、叔父・煌雷コウライが新たに設けた関所によって封鎖され、行商人の足も途絶えていたからだ。村人たちは、ただ「王都の方で何か大きな騒動があり、新しい王が立ったらしい」という、風の噂のような、実体のない言葉を口にするだけだった。


(……一月。この静寂が、不気味すぎる)


私は、鍬を握る手を休めず、常に周囲の山の稜線に神経を尖らせていた。

なぜ、煌雷は私たちを執拗に追ってこないのか。

その答えは、のちに知ることになる。彼はこの一月、王都で自らの「皇帝即位式」を挙行し、不満を持つ官僚や近衛兵の粛清を優先させていたのだ。国を完全に掌握し、盤石な体制を整えるまで、彼は敢えて「死んだも同然の亡霊(玲玉)」を野放しにしていた。……あるいは、私たちがこの辺境の地に逃げ込むことを、最初から見越していたのかもしれない。


「おい、玲玉! 休憩だ、休憩! 母ちゃんが握り飯持ってきてくれたぞ!」


阿星が、畦道から威勢よく声をかける。

玲玉は「今行くよ!」と明るい声を上げ、私の方を振り返った。


「凛華も、一緒に食べよう。今日は、僕が手伝って採った野蒜のびるが入ってるんだって」


その笑顔に、私の心臓が疼くような痛みを感じた。

彼が、この村の人々を「家族」だと、この土の上での暮らしを「自分の居場所」だと信じ始めている。それが、どれほど危うく、脆い平穏の上に成り立っているかを、私は嫌というほど理解していたからだ。


私たちは、メイおばさんが広げた竹皮の上の握り飯を囲んだ。

塩気の効いた飯の温かさが、労働で疲れた身体に染み渡る。


「兄ちゃん、ほら。この野蒜、お前が採ったやつだ。食ってみろ」

阿星が、玲玉の頭を小突いて握り飯を差し出す。

「うん……! おいしい。僕、こんなに美味しいご飯、食べたの初めてかもしれない」

「あっはは! 大げさだねえ。でも、自分で働いて採ったもんだからね。味も格別だろうさ」


メイおばさんが、優しく笑いながら玲玉の頬の泥を前掛けで拭った。

「玲玉は、いいお婿さんになるねえ。凛華ちゃんも、お姉さんとして安心だね」

「メイおばさん、何を……! 私は……」

「あはは! 凛華は、すぐ真面目な顔になるんだから」


玲玉が顔を赤くしながら、それでも嬉しそうに、メイおばさんの手元の握り飯を頬張っていた。

その平和な光景。

このまま、この村で、ただの姉弟として生きていけたら。……そんな、叶うはずのない甘い夢が、私の脳裏をよぎった、その時だった。


空気を切り裂くような、高く、鋭い笛の音が、背後の山から響き渡った。


小鳥たちが一斉に羽ばたき、森の静寂が、一瞬にして暴力的なざわめきに塗り替えられる。


「……ッ!! 殿下、私の後ろへ!!」


私は握り飯を投げ捨て、腰の直剣を抜き放った。

「何だ、今の音……?」

阿星が立ち上がろうとした、その瞬間。


山の斜面から、黒い鉄甲を纏った騎兵たちが、黒い津波のように雪崩れ込んできた。

馬の蹄が土を撥ね、鎧の金具がガチガチと鳴り響く。その殺気は、この一月で培われた平和な日常を、一瞬にして粉砕した。


「——いたぞ。柳大将軍の娘と、皇族の生き残りだ」


先頭に立つのは、煌雷の直属部隊、漆黒の甲冑に身を包んだ『鉄鴉隊てつあたい』。

彼らが手にしているのは、儀礼用の剣ではない。戦場で数多の首を跳ねてきた、実戦用の分厚い長刀だ。


「なっ……何だ、あんたたちは! ここは俺たちの村だぞ! 帰れ!」

阿星が、玲玉をかばうように両手を広げて前に出た。この一月で培われた、ただの「友人」としての、あまりにも無防備で、あまりにも尊い正義感だった。


「やめろ、阿星! 逃げて!!」

玲玉の悲鳴が響く。だが、すれ違いざまに放たれた鉄鴉隊長の長刀の一閃が、その言葉を永遠に断ち切った。


嫌な、水袋が破れるような、湿った音がした。

「え……」

阿星の身体が、斜めにずれるようにして崩れ落ちる。彼の首筋から噴き出した生温かい鮮血が、玲玉の白磁のような頬に、べっとりと斑点を作った。


「阿星!!」

少し離れた畦道で、メイおばさんが絶叫した。彼女は竹皮の包みを放り出し、泥に足を取られながら息子の元へ駆け寄ろうとする。


「逃げろ! 近寄るな!!」

私の悲痛な制止も空しく、無慈悲な軍馬の蹄が阿星アセイの背中を強打した。

生木が裂けるような嫌な鈍音と共に、彼女の身体は、先ほどまで玲玉が丹精込めて耕していた黒土の上へ、ボロ布のように叩きつけられる。

私たちが笑い合い、分け合って食べていた野蒜のびる入りの握り飯が、軍靴と蹄に踏みにじられ、無惨にも泥と血の中にぐちゃぐちゃに混ざり合っていった。

「あ……あぁ……っ」

玲玉の喉から、ひゅっ、ひゅっ、と引き攣るような音が漏れた。

彼は足元に倒れ伏した阿星の、まだ微かに痙攣している指先を見つめたまま、白目を剥くようにして過呼吸に陥っていた。紫水晶の瞳から急速に光が抜け落ち、一月前の、皇宮が落ちた夜と同じ「死相」が再び彼の顔を覆い始める。

「見つけたぞ!! 皇太子の首を取れ!!」

黒鉄の甲冑を鳴らし、騎兵たちが一斉にこちらへ殺到する。私は襲い来る長刀を鉄扇で弾き返し、ダガーで馬の前脚を薙ぎ払いながら、玲玉の細い腕を乱暴に引っ張った。

「殿下、立って!! 走ります!!」

だが、玲玉の身体は重い鉛の石像と化し、そのまま泥の中に両膝をついた。

「また……だ」

頭上を火矢が飛び交い、藁葺き屋根が轟音を立てて燃え上がる。むせ返るような黒煙と、肉の焼ける異臭が鼻腔を犯す中、彼は自分の震える両手を見つめていた。

爪の間に泥が詰まり、水ぶくれが破れたその手は、阿星から噴き出した血で手首まで真っ赤に染まっている。

自分が愛した場所が、自分が守りたいと願った人々が、自分のせいで、またしても炎と血の中に沈んでいく。

「僕が……僕がいるから……」

玲玉の歯の根が、ガチガチと激しく鳴り始めた。

籠の編み方を教えてくれた老婆が、逃げ惑う最中に背中から斬り伏せられるのが見えた。鍛冶屋のラオさんが巨大な槌を振り回して抵抗するが、数本の槍に同時に貫かれ、血飛沫と共に倒れるのが見えた。

ほんの一時間前まで、彼に生きる意味を与えてくれた温かな体温が、彼の目の前で、次々と物言わぬ肉塊に変わっていく。

「春燕も……父上も……阿星も……メイおばさんも……ッ!! 僕は、何もできない……っ! 僕が弱くて、僕が何も持たないから……僕を守って、みんな死んでいく……っ!!」

玲玉は自らの髪を両手で掻き毟り、泥の中に顔を押し付けんばかりにして、獣のような声を上げて慟哭した。

痛いほどに、わかる。彼の心は、この二度目の、そして一度目よりもずっと生々しい喪失によって、完全に感情の許容範囲を超えていた。己の存在そのものが周囲を不幸にする呪いなのだと、彼の中の優しさが、彼自身を内側から八つ裂きにしているのだろう。


「立てぇぇっ!!」

私は、そんな彼の胸ぐらを力任せに掴み上げ、血と泥にまみれたその顔を無理やり私に向けさせた。

「泣いている暇はありません! 彼らは貴方のために死んだのではない、あの煌雷こうらいの犬共が、理不尽に命を奪ったのです! 貴方がここで絶望に溺れて死ねば、阿星の命も、この村の無念も、すべてがただの『無駄死に』になるのですよ!!」

私の怒声が、炎の轟音に混じって木霊する。

玲玉の瞳から大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、血のついた頬を洗い流していった。彼は呼吸の仕方を忘れたように口をパクパクと動かし、そして、私の背後——自分の血だまりの中で完全に事切れた阿星の、見開かれたままの瞳を見た。

その、瞬間だった。

私の腕を掴んでいた玲玉の指先から、不意に、微かな震えがピタリと消えた。

過呼吸で激しく上下していた胸の動きが、嘘のように静まる。周囲の炎の熱さすら掻き消すような、絶対的な『冷気』が彼の全身から立ち昇ったのが分かった。

玲玉は、ゆっくりと私の手を振り解いた。

彼は泥の中に跪いたまま、阿星の亡骸へと手を伸ばした。そして、泥に汚れることも厭わず、その見開かれた虚ろな目を、自らの血濡れた指で、そっと閉じてやった。

「……そうだ。泣いても、誰も生き返らない」

玲玉の口から紡がれたのは、氷の底から響くような、低く、平坦な声だった。

それは、悲しみを通り越した、絶対的な「虚無」の淵から絞り出された言葉。彼は傍らに転がっていた阿星の短い山刀を拾い上げた。あの日、彼に甘酸っぱい山査子さんざしをくれた、あの日焼けした手の持ち主の形見だ。

「……行きますよ、殿下。ここでお命を捨てることは、私が許しません」


私は、その壮絶なまでの変化に息を呑みながらも、玲玉の腰をなかば突き飛ばすようにして促した。

視界の端では、母屋の馬房から一頭の馬が激しくいななき、前脚を跳ね上げているのが見えた。祖父が手塩にかけて育てていた、山越えに慣れた頑強な鹿毛の馬だ。


「生き延びて、いつかこの者たちの無念を晴らす。それ以外に、貴方が彼らに報いるすべはないのですよ!!」


玲玉は手にした山刀を帯に深く差し込むと、翻って馬房へと駆け出した。その足取りには、先ほどまでの絶望も迷いもない。ただ、凍りついたような意志だけが、彼の細い背中を突き動かしていた。


だが、私たちが馬房へと続く広場に差し掛かった、その瞬間だった。


「——そこまでだ、やなぎの負け犬共」


燃え盛る炎を背にして、巨大な鉄の塊のような男が私たちの行く手を塞いだ。

身の丈ほどもある無骨な大剣を肩に担ぎ、鉄鴉隊の証である黒曜の甲冑を纏った大男。炎に照らし出されたその顔の右半分には、見覚えのある古い刀傷が刻まれていた。


「……ゲン副将!」

私は、驚愕に目を見開いた。

「なぜ、貴方がここに……っ。父上と共に黒鉄関を死守し、あんなにも大将軍を慕っていた貴方が、なぜ簒奪者の犬に成り下がったのですか!!」


厳は、かつて父・柳大将軍の右腕として数々の戦場を駆け抜けた歴戦の猛者だった。幼い私に剣の握り方を教えてくれたこともある、誇り高き武人のはずだった。


「慕っていただと? 嗤わせるな」

厳は、肩の大剣をズンッ、と地響きを立てて下ろした。

「柳大将軍の剣は、結局のところ『守るため』のなまくらだったのだ。あの平和ボケした軟弱な皇帝を守り、犠牲ばかりを強いられる戦いに、俺は絶望した! ……煌雷こうらい様の圧倒的な『力』こそが、この国を統べる真の王道なのだよ!」


厳の咆哮と共に、彼の大剣が私の脳天めがけて振り下ろされた。


「くっ……!」

私は玲玉を背後へ庇い、両手で握った直剣でその一撃を受け止めた。

ガァァァンッ!!

という鼓膜を破るような轟音が響き、私の腕の骨がミシミシと悲鳴を上げる。重い。父の過酷な訓練を耐え抜いた私の腕力すら、容易く圧し潰そうとする理不尽な膂力りょりょく


「チッ……その受けに徹した窮屈な構え。やはりお前の剣は、大将軍の『模造品』に過ぎんな」

厳は冷酷に嗤い、さらに力で私をねじ伏せにかかる。

「お前はただの『守るためだけの盾』だ。覚悟の足りていない鈍ら剣で、煌雷様に選ばれたこの俺を退けられると思うな!!」


弾き飛ばされ、私は泥の中に膝をついた。直剣を握る両手から血が滴り落ちる。

『お前は殿下を守る鉄の盾だ』

父の残したその遺訓が、呪いのように私の手足を重く縛り付けていた。

そうだ。私は彼を守る盾。だから、不用意に踏み込んで相打ちになるわけにはいかない。確実に攻撃をいなし、防ぐことだけを……。


(……いや、違う)


私の背後で、玲玉が帯の短刀に手をかけ、自ら前に出ようとする気配を感じた。

自分の命を顧みず、血の海を歩もうとする冷たい王の気配。

その時、私の中で、四年間私を縛り付け続けてきた「鉄の盾」という呪いの殻が、音を立てて砕け散った。


(ただ防ぐだけの盾では、この方の血塗られた覇道を切り拓くことはできない)


彼が覇王となるのなら。彼が自らの手を汚してでも、この理不尽な世界をねじ伏せようというのなら。

私は盾であることを捨ててやる。

彼に迫る悪意をすべて、その根源から『斬り伏せる』ための、最強の剣となろう。


「……模造品で結構」


私は泥だらけの顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

「私は過去の幻影など追わない。私は——玲玉殿下の、盾であり剣だ!!」


私は、防御のための正眼の構えを解き、直剣を下段にだらりと下げた。捨て身の特攻の構えだ。

「血迷ったか小娘ぇっ!!」


厳が大上段から必殺の一撃を振り下ろす。

私はそれを「受け」なかった。防御を完全に捨て、彼の大剣が私の肩口を掠めて肉を裂くのと同時、極限まで身を沈めた状態から、弾かれたバネのように前方へと跳躍した。


「な……っ!?」

防御してくると思い込んでいた厳の目が、驚愕に見開かれる。

交差する一瞬。

私の直剣が、下から上へ、厳の甲冑の隙間である喉元を、完璧な軌道で深く、深々と斬り裂いた。


ゴボッ……。

「ば……か、な……たかが娘、が……」

厳は信じられないものを見る目で私を凝視し、おびただしい血を吹き出しながら、泥の中へ巨木のように倒れ伏した。


「……殿下、こちらへ!」

肩から流れる血を意に介さず、私は直剣の血振るいをして、馬房へと玲玉を導いた。


燃え落ちる馬房の前に、一人の老人が血だまりの中で倒れていた。

村長であり……そして、私が物心つく前に王都からこの辺境の村へ隠居していた、私の母方の祖父だった。


祖父の身体には無数の矢が刺さっていたが、その手は馬房の扉のかんぬきをしっかりと握りしめ、馬が炎に巻き込まれるのを最期まで防いでくれていたのだ。

一ヶ月前、素性を隠してこの村に逃げ込んできた私を、彼は一目見て「娘の面影がある」と笑い、何も聞かずに匿ってくれた。


「村長様……っ」

玲玉が息を呑み、歩み寄ろうとするのを、私は手で制した。


私は祖父の亡骸の前に片膝をつき、その血に濡れた皺だらけの手を、一度だけ強く握りしめた。


(たった一月という短い間でしたが……貴方のその温かさに、私たちはどれほど救われたか分かりません)


視界が滲むのを、私は奥歯を噛み締めて堪えた。

もう、悲しみの涙は流さない。それはすべて、敵を斬り伏せるための殺意へと変える。


(——貴方に会えてよかった。どうか、安らかに。お祖父様)


私は祈りを断ち切るように立ち上がり、暴れる馬のたてがみを掴んで、強引に玲玉を鞍の上へと押し上げた。間髪入れず、私もその背後に飛び乗る。


「走れ!!」

腹を蹴られた馬が、燃え盛る村の出口へと矢のように駆け出した。


「追え! 逃がすな!!」

背後から放たれた火矢が、私たちの頭上を唸りを上げて通り過ぎる。

村を脱する直前、玲玉は一度だけ、激しく揺れる馬上から振り返った。

視界を埋め尽くすのは、朱色に染まった地獄だった。


メイおばさんの亡骸が転がる畦道。祖父が守ろうとした、崩れ落ちる藁葺き屋根。かつて彼に温かな飯をくれた穏やかな村人たちが、黒い鉄甲の兵たちに無慈悲に蹂躙されていく。

玲玉の喉が、くぐもった音を立てて鳴った。

彼は叫ばなかった。涙も流さなかった。ただ、私の腰に回された彼の両腕が、骨が浮き出るほどに白く、痛いほどに強く強張っていた。


「……凛華。もう、前だけを見て」

風を切る音に混じって届いた彼の声は、ひどく冷たく、透き通っていた。

その声に、私は胸を抉られるような思いで、馬の手綱をさらに強く握り締めた。


馬は、険しい崖沿いの旧道を死に物狂いで駆けた。

背後からは執拗な馬蹄の音が迫っている。だが、ここはこの一月で阿星らと共に歩いた私の「庭」だ。私は岩の裂け目や、一見して道とは見えない急斜面を選び、追手との距離をじりじりと引き離していく。

夜が近づき、気温が急激に下がり始めた。

山を越える風は、汗ばんだ肌を容赦なく凍りつかせ、松の葉を鳴らす音は、まるですすり泣く亡霊の声のように聞こえる。


玲玉の身体は、私の前で微動だにせず、ただ前方の闇を見据えていた。皇宮を落ちた夜のように、私の温もりを求めて震えることはもうない。彼はただ、己の内に宿した復讐という名の冷たい火で、その身を支えているようだった。

「……殿下。あそこの稜線を越えれば、国境です」

私は、霧の向こうにぼんやりと浮かぶ、険しい岩山の連なりを指差した。

その先にあるのは、天青皇国とは全く異なる、砂とつぶての乾いた大地。

私たちは、自分たちの国を追われ、守ってくれた人々を皆殺しにされ、今、名実ともに「持たざる者」として他国の門を叩こうとしていた。

「凛華……」

不意に、玲玉が私の名を呼んだ。

「僕は、忘れない。あの日、父上の腹を貫いたあの剣の重い音も。今日、阿星の血が僕の頬を焼いた熱さも。……すべてをこの身に刻んで、僕は『王』に戻る」

彼は振り返らなかったが、その言葉には、かつてのお人好しな皇子様が持っていた柔弱さは、微塵も残っていなかった。


あるのは、己の情を切り捨ててまで辿り着こうとする、凄絶なまでの覇道への誓い。

「……はい。その日まで、私は貴方の盾、そして剣であり続けます」

私はそう答え、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。


馬は最後の急坂を駆け上がり、ついに稜線の頂へと辿り着いた。

眼下に広がるのは、月明かりに照らされた、砂礫の交易国の果てしない荒野。

振り返れば、遠く山の向こうで、まだ空が仄赤く染まっている。


私たちの平和だった日々が、愛した人々が、灰となって消えていく光景。

玲玉は、その赤みを一度だけ、まぶたの裏に焼き付けるように目を細めて見つめ……そして、二度と未練を見せることなく、隣国の闇へと馬を進めた。

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