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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
少年期

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6/24

5

山肌を滑り降りる風が、冬の鋭利な冷たさから、土の匂いを孕んだ柔らかな春の息吹へと変わり始めていた。

逃亡の夜から一月ひとつき。外界から隔絶されたこの辺境の村で、私たちの時間は、朝露と土埃の中で静かに、だが確実に編み直されようとしていた。


朝。もやが立ち込める畑には、湿った黒土のむせ返るような匂いが満ちている。

「ほら、兄ちゃん! 腰が入ってないよ。くわは腕の力で振り下ろすんじゃなくて、重さを土に落とすんだ!」


村の猟師の息子・阿星の声が、朝靄を切り裂いて響く。

その視線の先では、玲玉殿下が、自分の背丈ほどもある柄の長い鍬を握りしめ、ぬかるんだ畑と格闘していた。

かつて最高級の絹に包まれていた細い身体には、村人のお下がりである麻の単衣が羽織られている。振り下ろした鍬が浅く土を削り、跳ね返った泥が彼の白磁のような頬に黒い斑点を作った。


「こ、こう……? うわっ」

足元が滑り、玲玉は無様に尻餅をついた。泥水が容赦なく衣を汚す。

少し離れた畦道で周囲を警戒していた私の手が、反射的に剣の柄に伸びかける。だが、それを制したのは、隣の畑で大根を間引いていたふくよかな農婦、メイおばさんの大声だった。


「あっはは! 駄目だねえ、都会育ちのひょろひょろ坊主は。阿星、お前さん教え方が下手なんだよ!」

「俺のせいかよ! こいつの腕が細すぎるんだって。薪の枝みたいにポキって折れそうだぞ」


メイおばさんは泥だらけの手を前掛けでパンパンと払いながら、玲玉の元へずかずかと歩み寄った。彼女は立ち上がろうとする玲玉の手を無造作に取り、その手のひらを覗き込んだ。

「ほら見な。豆が潰れて血が滲んでるじゃないか。痛かったろうに、なんで黙ってたんだい」


玲玉の手のひらには、鍬の柄との摩擦で無数の水ぶくれができ、それが破れて赤黒い肉が覗いていた。宮廷にいれば、少しの擦り傷でも御医者が飛んできて大騒ぎになる傷だ。


「……痛く、ないです」

玲玉は伏し目がちに呟いた。その声はまだ少し頼りないが、かつての虚無に沈んだ響きはない。

「これくらいの痛み……何もできない自分が、ただ見ているだけより、ずっといいから」


その言葉に、メイおばさんは少しだけ目を丸くし、やがて相好を崩して玲玉の泥だらけの頭をガシガシと撫で回した。

「なんだい、見かけによらず根性あるじゃないか! 偉いねえ。でもね、無理して手ぇ壊したら、あんたの姉ちゃんが悲しむよ。ほら、今日はもう上がりな。傷に塗る薬草、すり潰してやるから」

「……はい。ありがとうございます、メイおばさん」


玲玉は、自分を「殿下」ではなく一人の頼りない少年として扱う彼女の大きな手に引かれ、ぎこちなく笑った。

その紫水晶の瞳の奥に、確かな熱が灯っているのを私は見た。

「痛み」を拒絶するのではなく、「生きる手応え」として自ら引き受けようとする意志。それは、彼が皇宮の幻影から抜け出し、この大地に足を踏み入れた何よりの証拠だった。


昼下がり。日差しが村の広場を温かく照らし、鍛冶場の炉からは、カンカンと小気味良い鉄を打つ音が響いている。

私は広場の隅で、村長である祖父に命じられた麻糸の紡ぎ作業を行っていた。剣を握り続けた私の指は硬く、細い糸を繊細により合わせる作業は、思っていた以上に困難だった。何度目かの糸がブツリと切れ、私は無意識のうちに眉間を寄せた。


「……力任せに引っ張るからだ。糸は、指先の腹で転がすように扱う」


頭上から降ってきたしゃがれ声に、私は顔を上げた。

背中に薪の束を背負った祖父が、私の不格好な手元を見下ろしている。


「申し訳ありません。……どうしても、剣の柄を握る癖が抜けず」

「だろうな。お前の手は、人を殺す形に固まっている」


祖父の言葉は容赦がなかったが、そこには以前のような刺々しい棘はなくなっていた。祖父は背中の薪を下ろすと、私の隣にどっこいしょと腰を下ろした。彼が座ると、古い煙草の葉と、日向の枯れ草の匂いが漂ってきた。


香蘭こうらんは、糸紡ぎが村で一番上手かった」

祖父は遠くの山並みに目を細めながら、ぽつりとこぼした。

「あいつが紡ぐ糸は、雪のように白く、決して切れなかった。……あの将軍がこの村に運び込まれた時も、あいつは自分が紡いだ一番良い麻布を惜しげもなく割いて、あの男の血止めに使ったのだ。私は止めたが、あいつは『目の前で死にかけている命を見捨てることはできない』と笑ってな」


私の胸の奥で、微かに何かが軋んだ。

母の顔は、もう朧げにしか思い出せない。だが、祖父の語る母の姿は、私が想像していた「無理やり攫われた哀れな犠牲者」とは少し違っていた。


「……母は、父を憎んでいなかったのでしょうか」

私は手元の切れた麻糸を見つめながら、初めて、自分自身のルーツについて問いかけた。

「私は、父から『泣くな、強くなれ』と叩き込まれました。それが、武門の家に生まれた女の運命だと。ですが……この村に来て、皆さんの暮らしを見るたびに、私の手がどれほどいびつに歪んでいるかを思い知らされます」


祖父は太い指で煙管に葉を詰め、火を点けた。紫煙が風に流れていく。

「お前は、香蘭によく似ているよ」

「……え?」

「顔の作りだけではない。根っこの部分の、馬鹿みたいに一途なところがだ。香蘭も、自分が正しいと信じたもののためなら、どれほど傷ついても決して泣き言を言わん女だった。あの将軍について行ったのも……最後は、あいつ自身の意志だったのだろうよ」


祖父は煙を吐き出し、私の硬い手のひらを、自らの節くれだった指でポンと叩いた。


「人を斬る手でも構わん。だが、その手で何を『守る』のか、それだけは見失うな。あのひょろひょろの弟を抱えてこの村に辿り着いた夜のお前は、紛れもなく、誰かを守ろうとする『姉』の顔をしていたぞ」


祖父はそれだけ言うと、立ち上がって村長の家へと戻っていった。

残された私の手の甲には、祖父の荒れた手の微かな温もりが、いつまでもじんわりと残っていた。私は切れた麻糸をそっと結び直し、今度は力を抜き、ゆっくりと指の腹でそれを転がし始めた。


日が落ち、空が深い藍色に染まる頃。

広場には大きな焚き火が焚かれ、一日の労働を終えた村人たちが自然と集まってきていた。

パチパチと爆ぜる炎の音、濁酒どぶろくを注ぐ音、そして、子供たちの甲高い笑い声が交差する。


「おーい、玲玉! こっち来いよ、ラオの親父が猪の肉を焼いてくれたぞ!」


阿星の声に呼ばれ、玲玉が焚き火の輪に加わる。

鍛冶屋のラオと呼ばれる筋骨隆々の大男が、串に刺した肉の塊を無造作に玲玉に手渡した。


「ほら食え、小僧。細い身体だが、お前のその目は、熱を入れる前の良質な鉄に似ている。よく食って、よく叩けば、いい刃になるぞ」

「……ありがとうございます」


玲玉は熱々の肉にかじりつき、何度も頷いた。その口元には肉汁がこぼれているが、今の彼はそれを下品だと恥じることはない。

私は広場の隅、暗がりに溶け込むように立ち、背中を石壁に預けながらその光景を見つめていた。私の位置からは、焚き火を囲む村人たちの顔が、オレンジ色の光に照らされてよく見えた。


「今年の税は、また上がるらしいな」

酒をあおっていた初老の男が、重いため息をつくように言った。

その言葉に、焚き火の周りの空気が少しだけ沈む。


「王都の鎮国公様(煌雷)が、北の守りを固めるために新しい関所を作っているとか。そのあおりで、俺たちが山で採った薬草も、街道を通すだけで法外な通行料を取られちまう」

「ああ。このままじゃ、冬を越すための塩すら買えなくなるぞ」


村人たちの不安げな声。

それを聞いていた玲玉の手から、食べる動きがピタリと止まった。

彼の紫水晶の瞳が、炎の揺らめきを反射して、鋭く、静かに収縮する。


「……関所が、増えたんですか?」

玲玉が、不意に口を開いた。その声は、普段の鈍臭さを感じるものではなく、酷く澄み切った、理知的な響きを持っていた。村人たちがえっと一斉に彼を見る。


「ああ。ここから三つ山を越えた、青鹿せいろくの谷の入り口だ。あそこを塞がれたら、俺たちは商人に物を売りにいけねえ」

「……青鹿の谷は、冬になると雪崩が起きやすい地形です。だから、かつて……前の皇帝は、あそこには関所を作らず、迂回する南の旧街道を整備したはずだ」


玲玉は、手にした串を地面に突き立て、土の表面に何かを描き始めた。

村を囲む山々、川の流れ、そして街道の線。宮廷の図書室で彼が眺めていた、天青皇国の正確な地図の記憶だ。


「鎮国公は、物流を支配するために無理やり谷を塞いだんだ。でも、それは長くは持たない。もし南の旧街道がまだ生きていれば……青鹿の谷を通らずに、隣の州の商人に直接薬草を卸すルートが作れるかもしれない」


玲玉の言葉に、大人たちが顔を見合わせた。

「坊主、お前……なんでそんなこと知ってんだ?」

「……本で、読んだことがあるんです」


玲玉は顔を上げ、村人たちを真っ直ぐに見回した。

その姿は、かつて宮廷で無邪気に花を愛でていた少年ではないように見えた。目の前で苦しむ自分を助けてくれた村人たちを救うために、自らの頭脳と知識を活かそうとする、真剣な彼の顔がそこにあった。


「教えてください。皆さんが作った大切なものが、どうやって外の国へ運ばれていくのか。……僕に、手伝えることがあるかもしれない」

村人たちは、彼から放たれる静かな威厳に気圧されたように、真剣な顔で頷き、地図を囲み始めた。

その時だった。

「おーい! 村長はいるか! 買い付けに来てやったぞ!」

村の広場に、数台の荷馬車と、護衛の傭兵を連れた恰幅の良い商人が乗り込んできた。

王都の御用商人だというその男の顔を見るなり、村人たちの顔に明らかな怯えと諦めの色が浮かぶ。

「ザバン様……お待ちしておりました。ですが、今年の買い取り価格は……」

「もちろん、去年の半値以下、いや十分の一だ。白根草一束につき、銅貨三枚だな」

商人の横暴な言い草に、村長が悲鳴のような声を上げた。

「ど、銅貨三枚!? そんなはした金では、冬を越すための薪も塩も買えませぬ! せめて銀貨一枚で……!」

「うるせえ! 王都の鎮国公様(煌雷)が青鹿の谷に新しい関所を作ったせいで、法外な通行税を取られるんだよ! 嫌なら他を当たれ。まあ、関所を越えられないお前らの薬草なんか、誰も買わねえだろうがな!」

商人は下品に嗤い、村人たちは絶望に俯いた。

私も思わず直剣の柄に手を掛けかけた、その瞬間だった。


「——白根草一束で銅貨三枚。ずいぶんと『計算の合わない』取引ですね」

震えを必死に押し殺したような、若く澄んだ声が広場に響いた。

焚き火のそばから立ち上がり、商人たちの前へ歩み出たのは、他でもない玲玉だった。その細い肩は微かに強張っていたが、紫水晶の瞳だけは、商人を真っ直ぐに見据えていた。

「なんだこの薄汚いガキは。引っ込んでろ!」

「王都での白根草の末端価格から関所の税を引いても、貴方の利益は十分に確保できるはずだ。……それに」

玲玉は、自らの震える両手を衣の陰で固く握りしめながら、必死に言葉を紡いだ。

「貴方の馬車の車輪にこびりついているのは、青鹿の谷の灰色の砂利じゃない。『赤土』だ。……貴方は関所を通らず、南の旧街道を密かに通って税を誤魔化している。その上で、村人には『関所の税が厳しいから』と嘘をついているんだ」

その言葉に、商人の顔から一瞬だけ余裕が消えた。

玲玉はさらに一歩踏み出し、宮廷で学んだ知識を武器に、彼を説得しようと試みる。

「軍事物資の流通における税の誤魔化しは、重罪のはずです。……だから、適正な価格で取引をやり直してほしい。白根草一束につき、銀貨一枚と銅貨五枚。そうすれば、お互いに損はしない。僕たちも、貴方を憲兵に訴えたりはしないから……!」

震えながらも、完璧な計算と論理で導き出された「正しい取引」。

玲玉は、これで大人の間違いを正せるはずだと信じていた。理屈が通っていれば、人は必ず理解し合うことができると。

だが。

「……っははははっ!! なんだお前、どこのお坊ちゃんか知らねえが、法律書でも丸暗記してきたのか?」

商人は腹を抱えて下品に嗤い出した。

玲玉がハッとして息を呑む。

「理屈や法律なんかで、飯が食えるかよ。いいかガキ。正論ってのはな、それを相手に強制できる『力』を持ってる奴だけが吐いていい言葉なんだ」

商人は顎をしゃくり、背後に立つ三人の屈強な傭兵たちに合図を送った。

「憲兵に訴えるだと? やれるもんならやってみろ。……その前に、山賊に襲われてお前らが全員死体にならなければ、の話だがな」

傭兵たちが、下劣な笑みを浮かべながら剣の柄に手を掛け、玲玉へと歩み寄る。

「ひっ……!」

絶対的な暴力の気配を前に、玲玉の論理はあっけなく崩れ去った。足がすくみ、声が出ない。どれほど正しい知識を持っていようと、相手が「問答無用で殺す」と決めた瞬間、それはただの無力な戯言に成り下がるのだ。

(駄目だ。僕の言葉じゃ、誰も守れない……!)

絶望と恐怖で玲玉が目を固く閉じた、その瞬間だった。

——ヒュンッ!!

空気を裂く鋭い風切り音と共に、玲玉の横を黒い影が通り抜けた。

次の瞬間。

「が、あッ……!?」

先頭を歩いていた傭兵の大男が、何が起きたか理解する間もなく、膝から崩れ落ちた。

彼の首筋には、私が隠し持っていた冷たい短剣の峰が、頸動脈を正確に押し潰すように深々と食い込んでいた。あと数ミリ刃を返していれば、首が半ばから切断されていた致命の一撃。

「な、なんだ貴様……ッ!」

残りの傭兵が慌てて剣を抜こうとしたが、私はすでにその懐に滑り込んでいた。手首の関節を極め、悲鳴を上げる前に膝裏を蹴り砕いて石畳に這いつくばらせる。

ほんの数秒。

圧倒的で、一切の容赦もない暴力の嵐。

私は呻き声を上げる傭兵の背中を軍靴で冷酷に踏みつけ、手にした直剣の切っ先を、腰を抜かしてへたり込んだ商人の眼球の数ミリ手前でピタリと止めた。

「……ひぃっ! あ、あぁ……っ!」

商人が股間を濡らし、恐怖で顔を引き攣らせる。

昨夜、雷覇の殺気に呑まれた私はもういない。皇宮からこの村へ至るまでの血塗られた逃避行が、私の中の躊躇いを完全に焼き切り、本物の『殺気』をこの身に宿させていた。

「おい、商人」

私は一切の感情を排した、氷の底のような声で告げた。

「あの御方(玲玉)は、貴様に慈悲を与えられたのだ。命を奪われる前に、その正しい契約書に署名しろ。……それとも、法律の代わりに、私の剣で貴様の喉笛を説得してやろうか?」

「ひっ……! 署名する! するから、助けてくれぇっ!!」

商人は泣き叫びながら、玲玉が提示した「銀貨一枚と銅貨五枚」の契約書に震える手で血判を押した。

広場は、水を打ったような静寂に包まれていた。

村人たちは感謝よりも先に、私の振るった凄惨な暴力に怯え、震えている。

私は剣の血振るいをして鞘に納めると、静かに玲玉の背後へと下がり、いつものように三歩後ろで控えた。

「……」

玲玉は、署名された契約書と、這うようにして逃げていく商人たちの馬車を、呆然と見つめていた。

村を救ったのは、間違いなく彼の知略だった。

だが、彼の両手は、恐怖と、得体の知れない無力感で小刻みに震えていた。


その夜。

村人たちから分け与えられた焚き火のそばで、玲玉はずっと、自分の両手をじっと見つめていた。

「……怖かったですか」

私が静かに問いかけると、玲玉はゆっくりと首を横に振った。

「違うんだ。……僕は、自分がひどく恥ずかしい」

玲玉の紫水晶の瞳が、炎の揺らめきを反射して、悲痛に沈んだ。

「正しい知識と理屈があれば、間違いは正せると思っていた。……でも、僕の言葉は彼らにただ嗤われただけだった。凛華が剣を突きつけ、彼らを傷つけた時に初めて、彼らは僕の条件を呑んだんだ」

玲玉は、自分の細く白い指を、ギリッと音が鳴るほど強く握りしめた。

「法も、正義も。……それを相手に強制する力がなければ、ただの無力な戯言なんだね。そして僕は……君に手を汚させ、君に暴力という泥を被らせなければ、自分の『正しさ』を証明することすらできなかった」

その声は震え、深い自己嫌悪と罪悪感に満ちていた。

彼は、力なき正義の無力さを痛感すると同時に、自らが忌み嫌っていたはずの「暴力」の恩恵に預かった己の矛盾に、激しく傷ついていたのだ。

「……殿下。私は殿下の剣であり盾です。私が汚れ役を担うのは当然のこと。殿下が思い悩む必要など、どこにもありません」

「駄目だよ、それじゃあ……! 僕が君に血を流させている限り、父上の平和と同じじゃないか……っ」

玲玉は顔を伏せ、膝を抱え込んだ。

その華奢な背中は、現実の重さと理不尽さに押しつぶされそうに震えていた。

(殿下……)

私は炎の向こうで、彼がこれ以上ないほど残酷な「世界の真理」の入り口に立たされていることを悟った。

彼はまだ、誰も傷つかない理想の世界を諦めきれていない。だが、現実は確実に彼の純粋な魂を削り、彼に「非情な力」を求めている。

彼がこの矛盾に耐えきれなくなり、自らその手を血と泥に沈める日が、いつか来るのだろうか。

燃え上がる薪が、パチンと爆ぜた。


(ああ、殿下……だけれどあなたは、真に心が強き者。貴方は必ず、偉大な皇帝になられる 私は昔から自分の直感を信じてきた。)


誇らしさと共に、胸の奥を刺すような微かな寂寥感。

守られるだけの存在ではなく、修羅の道を経験して掻い潜り、長きにわたりこもっていた蝶の蛹を脱ぎ捨てようとし始めた彼の姿。


私はしばらくそのままその場を動かず、じっと焚き火を見つめていた。 

どのくらい時間が経ったのであろうか。 いつのまにか私の目の前の焚き火の火が燃え尽きようとしていた。



「凛華!」


不意に、私の名を呼ぶ声がした。

顔を上げると、いつのまにか行ったのか、向こう側の焚き火の輪から抜け出した玲玉が、こちらへ向かって走ってくる。その手には、湯気を立てる焼き芋が半分、握られていた。


「凛華、ずっとそこに立ってないで、こっちへおいでよ。ラオさんが、凛華にも芋を焼いてくれたんだ」

「……私は護衛の任にあります。暗がりから目を離すわけには参りません」

「ここには追手はいないよ。みんな、家族みたいに温かい人たちだ」


玲玉は私の冷たい手を無理やり引き、焼き芋を握らせた。

「ほら、手がこんなに冷たくなってる。……凛華が僕を守ってくれているのは分かってる。でも、たまには、凛華も火のそばで温まってほしいんだ」


私を見上げる彼の瞳は、かつてないほどに優しく、そして、どこまでも純粋な親愛に満ちていた。


「……ありがとうございます、玲玉」

私は焼き芋の温もりを両手で包み込んだ。

彼が初めて、心からの笑顔を私に向けてくれた夜。

このささやかで、美しい村の時間が永遠に続けばいいと、将軍の娘である私が、柄にもなく天に祈ってしまった瞬間だった。 

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