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天青の覇王と剣の乙女  作者: *しおり*
少年期

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4

凍てつくような山の稜線を越え、霧の立ち込める深い谷底へと足を踏み入れた時、私の鼻腔が微かな「人の気配」を捉えた。

湿った苔の匂いに混じる、松の葉を燻したような煙の匂い。遠くで、規則正しく水車が回る重い木擦れの音が聞こえてくる。


「殿下、もう少しです。あそこに、村があります」


振り返り、私のすぐ背後を歩く玲玉に声をかける。

彼は返事をせず、ただ虚ろな紫水晶の瞳を足元の泥に向けたまま、私の胡服の袖を死に物狂いで握りしめていた。その指先は霜焼けで赤く腫れ上がり、小刻みに震えている。精神が限界を超えてから、彼は私から一歩でも離れることを極端に恐れるようになっていた。まるで、親鳥の羽の下に隠れる雛鳥のようだった。


私たちが辿り着いたのは、地図にも載っていない辺境の小さな隠れ里。

——私の亡き母が生まれ育った、祖父が村長を務める村だった。


村の外れに足を踏み入れると、薪割りをしていた村人たちが一斉に手を止め、異様なものを見る目でこちらを凝視した。泥と血にまみれた男装の少女と、襤褸切れのような衣を纏いながらも、隠しきれない絶世の美貌を持った虚ろな少年。

村人たちの間に、ざわざわとさざ波のような警戒が広がる。玲玉がひっ、と息を呑み、私の背中に完全に隠れるように身を縮めた。


「恐れ入ります。村長殿の家は、どちらでしょうか」


私が尋ねると、年配の男が警戒心を露わにしながら、村の一番奥にある藁葺き屋根の大きな家を指差した。


囲炉裏の火が赤々と燃える土間で、その老人は私たちを待っていた。

深く刻まれた皺と、厳しい冷気を孕んだ眼差し。母の記憶は幼い頃の僅かなものしかないが、この老人の目元の造作は、確かに私の中の母の面影と重なっていた。


「……何の用だ、流れ者」


老人の低くしゃがれた声が、囲炉裏の爆ぜる音に混じって響く。

私は玲玉を背後にかばうように立ち、静かに名乗った。


「私の名は、柳 凛華。……かつてこの村の娘であった、香蘭こうらんの娘です」


その名を聞いた瞬間、老人の持つ煙管きせるがピタリと止まった。

傍らに控えていた村の男たちの顔色が一瞬にして険しくなる。彼らの視線が、私の腰に提げられた父の形見——大将軍の環首剣——に注がれた。


「……柳、だと」

老人が煙管を灰吹きに叩きつける。鈍い音が、土間に重く響いた。

「どの面下げて、この村へ足を踏み入れた。あの野蛮な将軍の血を引く娘が」


村人たちにとって、私の父である柳大将軍は決して英雄ではない。

かつて北方の戦で深い痛手を負った父は、この村に運び込まれ、村長の娘であった母の手厚い看護を受けた。二人は看病の中で心を通わせたというが、村人の認識は違う。「怪我の手当てをしてやった恩を仇で返し、村の宝であった美しい娘を、強引に王都へ攫っていった略奪者」。それが、彼らにとっての父の姿だった。


「お前のその鋭い目は、あの憎き男そのものだ。だが……」

老人は立ち上がり、じっと私の顔を覗き込んだ。炎に照らされたその皺の奥底に、一瞬だけ、かつて失った愛娘を悼むような微かな光が揺れる。

「……面影は、香蘭に似ているな」


老人の視線が、私の背後で震えている玲玉へと移った。

「その、魂の抜けたような小僧は誰だ」


玲玉は老人の強い視線に怯え、私の腰に両腕を回して、顔を布地に強く押し付けた。ガタガタと震える彼の息遣いが、私の背中越しに伝わってくる。


「……私の、たった一人の弟です」


私は嘘をついた。皇太子であると明かせば、この村にも叔父の追手の累が及ぶ。

「私たちは、すべてを奪われました。追手に追われ、家も、家族も失い……この子は、そのショックで心を閉ざしてしまったのです」


私は深く息を吸い込み、冷たい土間の上に両膝をついた。

父は言った。「大将軍の娘たる者、みだりに膝を折るな。誇りを捨てれば、剣は鈍る」と。

だが、そんな誇りなど、この腕の中で震える彼の命に比べれば、塵芥ちりあくたにも等しい。


「……お願いです」

私は両手を土につき、深く額をこすりつけた。土の冷たさと、微かなカビの匂いが鼻を突く。

「どうか、少しの間だけで構いません。私たちを、この村に置いてはいただけないでしょうか。私一人なら夜の山でも生き延びられます。ですが、この子は……このままでは、死んでしまいます」


囲炉裏の火がパチパチと爆ぜる音だけが、沈黙の土間に響き続けていた。

誇り高き将軍の血を憎みながらも、目の前で泥にまみれて頭を下げる孫娘と、限界まで擦り切れた哀れな少年の姿。


「……村の衆には、遠縁の者が身を寄せに来たと伝えておく」


長い沈黙の末、老人は低くため息をつくように言った。


「離れの小屋を使え。だが、追手が近づけばすぐに立ち去れ。この村を、お前たちの厄介事に巻き込むことだけは許さん」

「……感謝いたします」


私は頭を上げた。

背中にしがみつく玲玉の手をそっと撫でながら、私はただ静かに、囲炉裏の温かな炎を見つめていた。



あてがわれた離れの小屋は、長い間使われていなかったのか、土壁からは微かにカビと古い藁の匂いがした。しかし、風雨をしのげる乾いた屋根と、小さくとも火を焚ける囲炉裏があるだけで、山中の野宿に比べれば天国のように思えた。


村に身を寄せて数日が過ぎた夜。

私が土間で刃こぼれした直剣の手入れをしていると、軋むような足音とともに、祖父である村長が姿を見せた。彼の手には、薬草の束と、少しばかりのあわが握られている。


「……小僧の具合はどうだ」


祖父は土間のかまちに腰を下ろすこともなく、囲炉裏の奥で丸まって眠る玲玉を一瞥して言った。


「熱は下がりました。ですが、まだ魂が半分どこかへ迷い込んでいるような状態です」

「そうか」


祖父は無造作に薬草と粟を土間に置いた。


香蘭こうらんは、よく笑う娘だった。あの将軍に攫われる前は、村の誰に対しても陽だまりのように接していた。……だが、お前の目には氷しか張っておらん。その手もだ。剣を握るために固く歪んだその手は、土を耕し、命を育む村の者の手ではない」

「……はい。私は、戦うことしか教えられておりません」


私は研ぎ石から手を止めず、平坦な声で答えた。祖父の言葉は刃のように鋭かったが、事実でもあった。


「その剣で、今までどれほどの血を吸わせたかは知らん。だが、この村にいる間は鞘から抜くな。血の匂いは、獣を引き寄せる」

「心得ております。ご恩は、必ず私の労働で返します」


祖父は鼻を鳴らし、踵を返した。しかし、戸口を出る直前で足を止め、ぽつりと言葉を落とした。


「その薬草は、煎じて飲ませろ。高ぶった気を静め、眠りを深くする効能がある。香蘭が……よく摘んでいた草だ」


バタン、と古い木の扉が閉まる。

私は土間に残された薬草の束を見つめた。土の匂いが色濃く残るその青葉に、かつてこの村で生きていた母の、そして私を拒絶しきれない祖父の不器用な情が滲んでいる気がした。


さらに十日ほどが過ぎ、山の木々が柔らかな若緑に色づき始めた頃。


私は村の女たちに混じり、薪割りや水汲みといった力仕事で日々の糧を得ていた。玲玉は相変わらず言葉を発することは少なかったが、村の澄んだ空気と静寂が彼の傷ついた精神を少しずつ癒やし始めていた。


ある日の昼下がり。

私が裏山で薪を割っていると、小屋の縁側で日向ぼっこをしていた玲玉の前に、一人の少年が立っているのが見えた。

村の猟師の息子で、阿星アセイという名の同世代の若者だった。日焼けした肌と人懐っこい丸い目を持つ彼は、よそ者である私たちにも偏見なく接してくる数少ない村人だ。


私は斧を下ろし、少し離れた木陰から二人の様子を窺った。


「おい、帝都のひ弱なお坊ちゃん。今日もぼんやり日向ぼっこかよ。姉ちゃんはあんなに逞しく働いてるのによ」


阿星は、玲玉の虚ろな紫水晶の瞳を覗き込みながら、からかうように笑った。玲玉はビクッと肩を震わせたが、逃げることはしなかった。阿星は宮中の人間のように彼を「触れてはならない至宝」として扱わない。ただの「病弱でどんくさい同年代の男」として、無遠慮に踏み込んでくる。


「ほら、これ食うか? 裏山で採れた山査子さんざしだ。すっげえ酸っぱいけど、目が覚めるぞ」


阿星が差し出したのは、赤く熟した小さな木の実だった。

玲玉はしばらくその実を見つめていたが、やがて恐る恐る、細く白い指を伸ばした。彼の指先には、ここ数日の生活でついた微かな土の汚れが残っている。


玲玉は山査子を口に含み、ゆっくりと噛み潰した。

その瞬間。


「……っ」


玲玉の両目が大きく見開き、白磁のような頬がギュッと中心に寄った。あまりの酸っぱさに、唇を尖らせて全身を震わせる。それは、皇宮を追われてから彼が見せた、初めての生きた感情の表れだった。


「あっはは! すげえ顔! だから酸っぱいって言ったろ!」

阿星が腹を抱えて笑い転げる。


玲玉は涙目にさせながら、口元の酸味を手で押さえ……そして、ほんのわずかに、唇の端を綻ばせた。


「……ほんとうに、酸っぱい……」


かすれた、しかし確かな彼自身の声だった。


私の胸の奥で、張り詰めていた太い糸がぷつりと音を立てて解けるのを感じた。気づけば、斧の柄を握る私の手にじんわりと汗が滲み、奥歯を強く噛み締めていた。

(ああ……よかった。この方は、生きておられる)


その日を境に、玲玉の瞳に少しずつ光が戻り始めた。

彼はただ縁側に座っていることをやめ、阿星の後ろをついて歩き、自分から村の仕事を手伝おうとするようになった。


「玲玉、その薬草は根っこから抜いちゃ駄目だぞ! 来年生えてこなくなるからな」

「ご、ごめん。こう……葉っぱだけを千切るんだね」


泥だらけの籠を抱え、阿星に怒られながらも、玲玉は必死に薬草の選別を手伝っている。

その白かった頬にはほんのりと血の気が差し、太陽の光を浴びた髪は土埃にまみれていた。宮中の女官たちが見れば卒倒するような姿だが、今の彼は、作り物の人形ではなく、血の通った人間として確かに呼吸をしている。


「姉ちゃん、こいつどんくさいけど、意外と根性あるな。教えた薬草の形、一回で全部覚えちまうんだぜ」


得意げに笑う阿星の横で、玲玉は泥のついた手で額の汗を拭い、私を見て照れくさそうに笑った。


「凛華……僕、阿星に籠の編み方を教えてもらったんだ。これなら、僕にもできる」


その手には、不格好だがしっかりと編み込まれた竹籠が握られていた。


「……はい。とても、お上手です」


私は表情を崩さぬよう努めながら、短く頷いた。

どうしようもない安堵が胸を満たしていく。

村人たちも、不器用ながらも真面目に土に向き合う玲玉の姿を見て、徐々に「訳ありの姉弟」として私たちを受け入れ始めていた。


冷たい石壁に囲まれた逃避行の果てに見つけた、束の間の温かな日常。

だが、研ぎ澄まされた私の直感だけは、この平和が長くは続かないことを、微かな土の匂いの変化から感じ取っていた。

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